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バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 紀伊半島は大雨です。今の時間雨量は45mm。半島の中央を東西に流れる清流櫛田川は焦げ茶色の濁流になっています。音を立てて降っています。雨脚が見えるほど。

 

 アマゾンプライムディーでポチったウエザーステーション。早速、働きました。今も10mm程度降っています。警戒情報は解除となりました。一安心。今日一日は降ったりやんだりの繰り返し。

 

 この機種は観測データをweather cloudにアップロードでき、このような形で閲覧することができます。気象庁はアメダス観測地点840箇所(全国21km間隔毎)に風向・風速・降水量のデータを10分ごとに把握してます。さらにweather stationのような私設のデータを駆使すれば局地的な豪雨や異常高温を把握でき、災害や避難の参考になると思います。安価な物なので精度には限界がありますが、参考にはなるかと。

 

 こんな感じで風向・風速・温度・湿度の日変化をグラフ化できます。weather cloud basicは無料で、premiamなどアップグレードするとデータのダウンロードができますが、自分はそこまで必要ないので無料版を使っています。

 

 ちなみに近くにアメダスがありますが、この時刻には45mmも降っていませんでした。わずか2kmも離れれば全く降水量が違うことがあるのでょう。雨の降り方ってかなり局地的なのが分かります。

 

 明日からは晴れ間が続くようで、猛暑日の連続になりそうです。どちらがいいかと言えば、晴れて昼からは夕立がさっと降って、乾いて火照った大地が気化熱で涼しくなるのかいいです。それに萬古焼の豚の蚊取り線香の煙からたなびく香りがあれば、これは日本の夏です。でも、豪雨と猛暑日の連続で極端な夏が来そうな予感が。台風も一個も生まれなかったのに、今は連続で発生して平年並みを追い越そうとしています。

 九州に戦跡、南は知覧飛行場。鹿児島県に置かれた特攻基地のあるところです。北はと言えば、やはり長崎を忘れることはできません。1945年8月9日、アメリカ空軍のB29が九州の小倉を目指していました。沖縄がアメリカ軍に接収されて、日本がポツダム宣言を受け入れなければ、次は九州に上陸して地上戦が行われるという時期です。

 

 小倉は雲が多く攻撃目標は長崎に変更されます。長崎は山に囲まれて原爆が炸裂したときの威力を実験するには格好の地形をしていました。午前11:02で止まっている柱時計。プルトニウムが核反応を起こしファットマンは炸裂しました。

 

 その瞬間、何が起こったのでしょう。熱線で解けたガラス瓶。長崎の地上がどんな温度になったかを伝えています。こんな兵器を人間の頭の上に落としていいものなのでしょうか。戦争では人道の罪が国際法で決められています。市民を無差別に攻撃することは認められていません。しかし、彼らはそれを行いました。

 

 もうすぐお昼の時間。女学生が食べる弁当はピカドンで炭になってしまいました。それは弁当箱とともに原爆の恐ろしさを伝える遺品となりました。彼女の夢はどこに行ったのでしょう。彼女の未来は一瞬の閃光とともに消えました。

 

 救世主イエスの十二人のお弟子の一人、聖ヨハネ。彼は気性の激しい男でしたが、愛の人に変えられました。大理石のこのお顔は、もとはどんな表情だったのでしょう。一見オランウータンのような眼差し。長崎原爆死没者追悼平和祈念館には救い主を抱いた聖母マリアもいます。涙を流しています。それは、光の加減なのかもしれません。自分の心に宿った心象風景だったのかもしれません。ローマ教会に列聖された殉教者達、2000年後、プルトニウムの光に浴びるとはだれが想像したでしょう。そのとき、聖人達も被爆したのです。

 

 順路をたどっていくと一種の違和感を覚えました。あの写真がない。あの画像がなければどうしても長崎の原爆を語れない。なぜ展示してないのか?

 

 果たして、展示してありました。順路の最後で見つけた一枚の画像です。これがなければ祈念館の意味が失われてしまうほど大切な一枚です。

 

 

 アメリカの従軍写真家ジョセフ・ロジャー・オダネルは私用のカメラで長崎や広島を撮影していました。「焼き場に立つ少年」という題名をつけられた一枚。この写真は長く彼のトランクの中に密かにしまってありました。私的に被爆後の広島・長崎を撮影することは軍の規律に反することでした。しかし、戦争の惨禍を伝えなければ・・・。彼は重いトランクを開けました。45年間封印された写真が日の目を見た瞬間です。秘められた文書は歴史が必要とするときに発見されるものです。

 

 真っ赤な夕日のようなほのおは、直立不動の少年のまだあどけないほおを赤くてらしました。その時です、ほのおを食い入るように見つめる少年のくちびるに、血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつくかみしめているため、くちびるの血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のようなほのおが静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

 

 これは彼の手記です。拙い訳で申し訳ありませんが。彼の前では多くの遺体が焼かれ真っ赤に燃えた炎が彼の顔を照らし出しています。直立不動で無表情。唇には血がにじんでいます。これから弟を荼毘に付さなければならない。固くかみしめたために血さえ流れない少年の心はどんな状態なのでしょう。少年は弟が灰になるのを見届けて、黙って焼き場を去りました。その後、少年はどこへ行ったのでしょう。

 

 この写真は長崎ではないという指摘もありますが、長崎本線道ノ尾駅近くの踏切と地形がほぼ一致することが日本放送協会の調査で明らかになりました。この画像は名札の位置が反対なので裏焼きで左右が反転しています。

 

 「焼き場に立つ少年」は長崎原爆資料館に寄贈され、ローマ教皇のフランシスコが、この写真を印刷したカードを、戦争がもたらすものという言葉を添えて、世界の教会に配布するように指示を出し、世界的に広まりました。

 

 1945年8月9日11時2分、B29は長崎に原爆ファットマンを投下しました。死者 73884人。当時の長崎の人口は24万人です。ニュースでは多くが原爆投下時刻を11:02としています。しかし、長崎では原爆炸裂時刻と呼んでいます。投下と炸裂では受け取る意味合いが大きく異なります。

 

 大きく見渡せば7万4千人の人が亡くなったのでしょう。しかし、一人の死は、「焼き場に立つ少年」のように亡き方を愛する人たち、関わりのある人たちがどれだけいるのでしょうか。 73884人の一人ひとりの死の瞬間を一枚の写真で切り取れば、どれほど戦争が悲惨なのかがあぶり出されてるでしょう。

 

 20世紀は二度の世界大戦があり、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など戦争の世紀でした。21世紀は平和の時代なのかと思えば、早くもウクライナ戦争が起こり、人間は歴史に学ぶことをしませんでした。戦争は何をもたらすのか。一枚の写真から心を静めて考えたいと思います。

 

 人間の心理には極めて偏った感じ方があります。今、出刃包丁の刃を上を向けて心臓を突き刺した事件が起きたとします。被害者は苦しみながら亡くなりました。それはそれは凄惨な殺人現場です。もし、73884人の人を同じように出刃包丁の刃で突き刺した事件が起きたとしたら、どんな感じ方をするでしょう。約7万4千人の被害者とひとくくりにすると一件の殺人事件よりもその凄惨さは伝わってきません。戦争の悲惨さは大きくなりすぎると人はそれが悲惨とは感じられなくなる。そんな鈍さが私たちの心には巣くっているのです。

 

 阪九フェリーで行く四日間の船旅。その最終目的地は、長崎でした。はからずもその四日間は巡礼の旅となりました。

 長崎港からクルーズ船で2時間半の船旅に出かけました。目的地は端島。通称軍艦島です。日本の高度経済成長時代を支えた島です。

 

 島に上陸するには宣誓書に署名しなければなりません。島にトイレはありません。ガイドの人はいかめしい叔父さんかと思えば、紳士でした。地価600mまでエレベーターで降りて、気温30℃湿度55%の行動で8時間、ひたすら石炭を採掘します。

 

 地上にあがってくる頃には石炭の粉で体は真っ黒。海水を浴びて石炭を落として、真水の浴槽に入る。壮絶な労働環境です。それでも待遇は抜群で当時、カラーテレビや洗濯機など庶民には手の届かなかった電気製品も各家庭にあったそうです。

 

 正面は小学校と中学校で千人規模のマンモス校です。四階までが小学校で、五階からは中学校でした。運動会も開かれました。どの階にも巨大なガラス窓がはめられていて豪華な校舎でした。当時としてこのような高層ビルはここだけでした。

 

 映画館や居酒屋もあり島を出なくても娯楽は整っていました。各部屋から見える眺望は最高の物だったでしょう。逆に言えば、それだけ環境が良くなければ過酷な労働の見返りにはならなかった、人を集めることもできなかったのでしょう。

 

 ここで採掘される石炭はコークスに加工され、八幡製鉄時に送られました。鉄鉱石はコークスで還元炎で鉄に精製されます。まさしく日本の高度経済成長時代を支えた所です。

 

 廃墟マニアでもなくても人々をここに惹きつけるのは何なのでしょうか。廃れた中に美しさがあります。かってここで生活していた方々の息づかいが今も伝わってきそうな所です。映画やアニメの舞台になりました。かって五千人が暮らしていた端島。人を惹きつける魅力は衰えることがありません。

 

 フェリーで行く四日間の長崎の旅。始まりました。航跡を残して瀬戸内海を西に進みます。この日は海が穏やかで快適な船旅でした。

 

 西の水平線に太陽が沈みます。光が屈折しているので、本当は日没なのですが、名残惜しそうに日影が残っています。太陽が低くなるほど海の色が真っ赤に染まりました。海にあるありとあらゆる物を赤く染めて沈んでいきました。

 

 大鳴門橋は夕食を取っていたので、窓から見えました。本四連絡橋は見逃さないように船首の展望台からこの通りの画像。しまなみ海道も見たかったのですが、午前様になるのでやめました。

 

 2日目の朝は太宰府天満宮に参詣しました。大楠が屋根を突き破っています。今は本殿が修復中で仮殿でお詣りします。
 

 菅原道真を慕って一夜で翔んできたという梅。飛び梅として有名です。

 

 

 東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 

 讒言によって福岡の太宰府に左遷された菅原道真が詠んだ歌です。東風が吹いたら香りを漂わせておくれ。主人がいなくても春は忘れないで。

 

 そんな思いを越えて、梅の木は都から太宰府まで一晩で翔んでここに来たと言われています。

 

 天満宮からハウステンボスへ。オランダの風景が広がっています。この広さには驚きます。長崎は近世からオランダと貿易をしていました。

 

 お腹がすいたので、ステーキハンバーグを頂きました。美味しかったのですが、ステーキと言うよりも焼き肉です。テーマパークの食事はやはり割高ですが、ここで食べるというのに意味があるのかもしれません。

 

 観覧車からの眺めはなかなかのものです。オランダは国土のほとんどが干拓地なので、海に浮かんだ国と言ってもいいでしょう。運河をのんびりクルージングしてきました。あまりに気に入って、ここを住所とした人もいるようです。

 

 ミッフィーに会いたかったのですが、90分待ちなので諦めました。そのかわりミッフィーのグッズを買いました。

 

 夜のお宿は長崎にっしょうかんです。バスが登れるのかと思うくらいの急坂。食事は美味しかったです。自分で作るちゃんぽんのお鍋は美味。

 

 世界三大夜景の長崎。モナコと香港と並びます。神戸の方が豪華なのではと思いますが、山にへばりつくように煌めく夜景はその価値はあると思いました。

 

 長崎はキリシタンの街。至る所に聖堂があります。港には聖母マリア像が建っており、船を見送ります。

 

 この島々はかってキリシタンの殉教地となりました。松浦氏による迫害は厳しさを極めました。それでも彼らは教えに従いました。なぜ教えのために命を捨てるのか。同時代に和歌山県で補陀落渡海が行われていました。ここの寺の住職は60歳になると生きたまま船にのせられて観音浄土に旅立ちました。同じ頃、一向宗の人たちが一揆を起こし、退くは地獄と権力者と戦いました。平均寿命が30歳前後の時代です。この世界は生きにくい。苦しみが多ければ、天国や浄土への憧憬はより強かったのかもしれません。すべての物は移り変わります。常なる物はこの世界にはありません。諸行無常。これだけなのです。

 

 島々は沈黙し、そのことを何も語ってはくれません。ただ船から見る聖母マリアは慈愛に満ち、何事もなかったかのように今日も船の安全を見つめています。

 

 旅のお目当ては軍艦島です。昭和の時代ここは海底炭鉱でした。質の良い石炭を採掘でき八幡製鉄時に送られて日本の高度成長時代を支えました。

 

 平日でもクルーザーは満席になるほど好評のようです。なぜ、人は軍艦島をめざすのか。この廃墟にどんな魅力があるのでしょう。高度成長時代を支えたエネルギーがこの壊れたコンクリートの塊に今でもそのエネルギーを発するのか。

 

 改めてクルーザーから振り返ると魅力が伝わってきます。人々の暮らしが見えてきます。いったいこの密集した中でどんな生活や息づかいがあったのでしょう。それを想像したくなります。地下600m、室温30℃湿度95%の危険極まりない重労働が終われば、風呂と家族と娯楽が待っていました。そして窓からの眺望。富が人々をここを惹きつけました。半世紀経ってその残照はここかしこに見ることができます。

 

 軍艦島から長崎原爆死没者追悼平和祈念館に。時計は1954年8月9日11時2分で止まっています。ここは今から80年前の時空で進むことがありません。

 

 浦上天主堂の聖ヨハネ。十二使徒の一人です。ヨハネは愛の人でした。焼け焦げた大理石像。聖母マリアも被爆しました。長崎では80年前、聖人達も被爆したのです。

 

 11時2分プルトニウムが入ったファットマンは火の玉となり、熱線を発しました。解けた緑のガラス瓶。当時の熱さを物語っています。

 

 女学生のお弁当。あと1時間で彼女は楽しく食べることかできました。原爆はそれを永遠に奪ってしまいました。彼女の胃袋を満たすはずだったご飯、ただの炭素となり戦争の悲惨さを伝える展示品になりました。

 

 自分がここに来たかったのは一枚の写真があるからです。しかし、それはありません。順路を行くと果たして最後に展示がされてありました。

 

 見たかったのはこの写真です。最後に展示してありました。うなだれた弟をおんぶした一人の少年。唇をかんでいます。あまりに激しく噛んでいるため、唇には血がにじんでいます。前からは明るい光。ここは原爆でなくなった人の体を焼いているのです。少年は薪に弟を寝かせると回れ右をして去って行きました。彼はどこに行ったのでしょう。この写真を撮ったのはアメリカの従軍記者です。

 

 80年経って、世界のリーダーはここに来るべきです。80年前に何が起こったのか。現地に来ないと分かりません。感じることはできません。原爆を投下することによってアメリカの数十万人の若者の命を救った。こんな言葉は詭弁です。7万人の長崎の方が亡くなってもいいのですか。20万の広島の市民が犠牲になってもいいのですか。蒸発して泡だった瓦を触ってください。熱線で変形した銅板の門標に触れて感じてください。コールタールを塗った板壁に焼き付いた人の影を見てください。彼らはブルトニウムの熱線に蒸発したのです。

 

 帰りの朝のフェリーの食事。朝からカレーです。窓からの眺望は今朝は靄で何も見えません。ただ海が広がっているだけ。それてもこの眺望からの食事は最高でした。船に乗るなら一回はカレーがいいです。この四日間の旅、雨にたたられることもなく快適でした。暑さはどうしようもなく汗が噴き出るままに。

 

 隣を同型のフェリーが航行しています。大鳴門橋を越えるともう六甲アイランドに。神戸の街が見えてきました。ブルートレインは超高級でなかなか乗れませんが、フェリーで夜行はなかなの魅力。一度乗船すれば何もすることがありません。ロビーでライブコンサートを聴くか、読書をするか。船首の展望台でぼんやり過ごすか。それともデッキで過ぎ去ったことを語るか。露天風呂で一風呂浴びるのが楽しみ。食堂では年配の方達がお酒を楽しんでいました。楽しみ方は人様々です。

 

 夜行で行くフェリーは冒険です。それは不思議な空間です。おそらくそれは非日常。いつもの暮らしから離れて、何もしないで過ごす。新しい自分を発見する契機になります。

 

 この旅の四日間は、いわば巡礼のようなものになりました。どんな旅になるかは百人100通りの旅になることでしょう。旅は心の洗濯だと昭和の時代によく言われました。そんな陳腐な言葉を思い出して自分を笑ってしまいました。島巡り、キリシタン殉教の地、昭和の高度経済成長時代の残照、テーマパークと長崎は深掘りすれば、どれだけでも新しい発見があることでしょう

 

 

 四日間の旅を15分の動画に浸ました。画面をクリックするとご覧いただけます。4Kです。

 

 

緑の濃い森に開かれた田舎のビオトープ。雨なので誰もいません。

 

 ここは三重県多気町。平安時代には「竹の国」と言われていました。町の花はヤマユリです。花盛りはもうとっくに過ぎていますが、最後の二輪が残っていました。

 

 ビオトープの傍に咲く花橘。平安時代に多気郡には天皇のご名代として仕える斎王様がいらっしゃった所です。紫は高貴な色をしてます。

 

 今の季節は何と言ってもアジサイです。地元の小学校の俳画。

 

 雨に濡れたアジサイはひときわ美しいって、本当なのですか?今日の花は色づきも今一歩です。花はやはり咲き始めが美しい。花盛りもピークを過ぎれば何となく美しさに陰りが見えます。

 

 美しいと思ったのはアマガエルでした。緑の中で緑色をして健気に生きています。

 

 こちらを向きました。生まれたばかりなのでしょうか。葉っぱに雨水を湛えて、緑の葉っぱと水とアマガエルの緑が一体になっています。これを見ると植物と動物の境が限りなくボーダーレスに見えてきました。葉っぱの緑はクロロフィル、光合成をするための緑です。アマガエルの緑は天敵から守るための保護色の緑。

 

 オタマじゃくしが薄紅色のアジサイに這い上がっています。透明な体を必死に緑に染めようとしています。命、生き吹く者達はいつも透明。雨のビオトープの中で、ひときわ命の輝きがまぶしかったのはこの蛙たちでした。緑に包まれて、自らも緑に染まる。田舎の雨のビオトープは命の息吹に満ちていました。