今日もお疲れ様でした。昨日は十五夜で今日は十六夜。この十六夜ですが、「いざよい」と読むようです。十五夜を過ぎると次の月は十六夜、その次は立ち待ち月、そして居待ち月、臥し待ち月と続きます。月の出は毎日50分ずつ遅れていきます。昔の人々は月の出を今か今かと待っていました。十六夜を過ぎると立って、座って、臥して月の出を待ったのでしょう。それが月の異名になりました。月の出を毎日50分も遅れていくなんて待てないですよね。
この月の出ですが、月の出は月の中心が地平線に接した時刻を言います。日の出は太陽の上が地平線に接した瞬間を、日の入りは太陽の下が地平線に接した瞬間を言います。太陽は満ち欠けがなくいつも円であるためにこのように決められています。ところが、月は満ち欠けがあるために太陽のようには行かず、月の中心が地平線を通過した瞬間で時刻を決めます。
太陽と月は地球から見ると同じ大きさに見えると思います。太陽は月の400倍の大きさで、月と地球の距離が400倍にあるため、偶然太陽とお月様は同じ大きさです。何という偶然なのでしょうか。
さて、今夜は十六夜なのですが、鎌倉時代に藤原為家の側室阿仏尼が書いた紀行文「十六夜日記」があります。紀行文と言っても旅行の目的は、継子と実子との間の遺産相続で鎌倉幕府に所領の安堵を願い出るために京都と鎌倉を旅した時の和歌やエッセイのような内容になっています。夫の為家は当初所領を長男為氏に譲ることにしていましたが、後悔して阿仏尼の実子為相へ譲ると変えました。夫の為家も優柔不断で困った者です。公家の法律では遺言の変更は認められないのですが、武家の法律では認められるというしきたりです。ところが為氏が遺言に従わず細川荘を譲らないため阿仏尼は訴訟を決心。御年60歳。鎌倉時代の平均寿命が24歳程度なので、今の年齢なら百歳を超えているぐらいの感覚です。裁判は長引き、所領は訴えの通り阿仏尼の実子に相続されたのですが、すでに遅し。阿仏尼は亡くなっていました。それにしても、母の子どもへの愛情は時代を超えて変わらないものですね。お年を召しても京都と鎌倉を何回も往復するなんて。新幹線や飛行機もない時代、徒歩で何ヶ月も掛けて歩くとは・・・。これはもう母の執念です。
もちろん阿仏尼は当時の一流歌人なので十六夜日記の文学的価値は不朽のものなのですが、興味があるのは自然の描写です。特に興味を引くのは当時の気候や天変地異など。十六夜日記にはこのような記述があります。
富士の山を見れば煙たたず
富士山を見ると煙は立ってないという意味ですが、現在の私たちの感覚で言えば、なんだこりゃっ、と思います。彼女はなぜこんな表現をしたのでしょうか、謎です。9世紀末の竹取物語には、不老不死の薬を富士の高嶺で焼いたとあります。つまり噴火していたということ。1020年に書かれた更科日記にも富士山の噴火が描かれているので、もともと富士山は噴火しているのが当たり前の山だったことが分かります。なので、十六夜日記ではわざわざ富士山に煙が立ってないと念を押しているのでしょう。以後、富士山は江戸時代までの宝永噴火まで静けさを保ってきました。更級日記はこのように記述しています。十六夜日記は1282年の成立ですから、更級日記から160年ほど経っています。
富士の山はこの国なり。わが生ひ出でし国にては西面に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣に、白き衵着たらむやうに見えて、山のいただきのすこし平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃えたつも見ゆ。
ちなみに、噴火の前兆はあるのでしょうか。前兆は、山が盛り上がる山体膨張、火山ガスや水蒸気を吹き上げる噴気、火山性微動の3つがあります。マグマが上昇すると山体は盛り上がります。マグマが地表に届けば噴気があがります。マグマが動くので微動が起こります。といっても、このような兆候がなくいきなり噴火を起こすこともあります。御嶽山の水蒸気爆発がそうです。
更級日記が成立した平安時代には富士山も火柱を立てて噴火していたのですから、かなり激しい物だったことが分かります。山頂だけでなく、平安時代の噴火では今の青木ヶ原樹海など平らな森はすべて粘度の低い溶岩が流れ出した跡です。長い日本の歴史では、富士山は噴火している時期の方が長いのだと教えてくれます。
富士山はその美しさだけでなく、いまだに噴火を起こす生きた火山であることを中世の人たちは心に留めていたのでしょう。ということで今夜の十六夜から火山噴火までとりとめのないお話になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
今夜の月、昨日の月と比べると早くもお月様の右が欠け始めていることが分かります。これから半月掛けて新月に向かいます。今宵は十六夜、明日は立って立ち待ち月を待つことにしましょう。
