台風16号はどこへ? 今から62年前に紀伊半島に猛烈な台風が上陸していた! | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 台風16号が日本列島をねらってるらしい。この時期に発生する台風は日本に上陸しやすい。この天気図を見ると伊勢湾台風を思い出す。今から62年前の今日のこと。

 

 これは今からその日の天気図。昭和34年(1959年)午後6時頃、紀伊半島潮岬の西に伊勢湾台風は上陸した。上陸時でさえ、最低気圧は929ヘクトパスカル、最大風速は55mの猛烈に発達したスーパータイフーンだった。等圧線の狭さは異状。

 

 アメリカ軍は高度3700mからこの台風を観測していた。観測機は台風の目の中にラジオゾンデを投下した。気圧は895hpa、風速は90m。これを見ると積乱雲が緻密の発達していて大雨を降らしていることが分かる。台風は紀伊半島を縦断して各地に900mm以上の雨を降らせた。大地に1mも雨が降ったらどんな洪水を引き起こすか?

 

 台風は紀伊半島の南東斜面に湿った空気をふんだんに送り込み、土砂降りの雨を降らせた。川は氾濫し、堤防を決壊させた。紀伊半島の東側は低い気圧で海面が吸い上げられ潮位が3m上がり、東寄りの暴風が南東に連なった海岸線に吹き寄せ高潮を引き起こした。死者行方不明者5098名、避難者は150万人。阪神大震災級の大災害となった。

 

 これはアニメ「伊勢湾台風物語」で1時間20分ほどにまとめられてる。特に木曽三川近くの低地帯では貯木場の材木が民家に押し寄せ、多くの人が亡くなった。名古屋気象台は午前11時に暴風雨警報を発令していた。当時としては異例の速さだった。しかし、災害を防ぐことはできなかった。

 

 9月26日の夜、けたたましいサイレンが鳴り、櫛田川は増水してきた。夜半過ぎ、泥の臭いがしてきた。雨戸を開けると暗闇の中に家のすぐ前の道路が濁流になっていることが分かった。自分の家の三軒隣は床上浸水、五軒目からは屋根まで水没していた。次の朝は快晴になった。橋の下に家が落ちていた。語り継がないと伝わらないことがある。実体験した者が伝えないとそれはいつか歴史となり風化していく。

 

 その夜、消防団が出て必死の救助活動をしていた。「助けて! 助けて!」と声がして、川に人が流れていった。水が引いて綺麗な長靴が砂の上に刺さっていた。長靴を引っ張ると人の脚が出てきた。女性が岸辺の竹藪で発見された。この台風で400名ほどの方が今でも行方不明になっている。これが今、ここに起こっていると思えなかった。

 

 東京大学の片田敏孝先生の講演を聴いたことがある。東日本大震災で釜石の奇跡を起こした人だ。3月11日、釜石の鵜住居小中学校の子供たちは、地震発生とともに率先して大人や老人施設の人を避難させて津波から逃れることができた。亡くなった子どもは5名。その日、欠席していた子どもと、果敢にもお年寄りをリヤカーで避難させに行った男子中学生。5名の命は重い。中学生の男の子にかかわった先生は、教えたことが正しかったのか、今でも分からないと語った。しかし、「彼はよく生きた」とも言った。先生の話は分かりやすく明解。避難三原則。

 

 1 想定外を生きるを養え。

  ハザードマップは人間が作った物。自然はそれ以上の災いを起こす。東日本で危険地帯の人たちは避難して助かった。ハザードマップで安全地帯に指定されていた人たちが犠牲になった。想定外のことは起こりうる。安全な所はどこにもない。想定外を生き抜く力、異変に気づく力、判断力、想像力を鍛えよう。

 

 2 そのとき最善を尽くせ。

  できるだけのことをする。津波なら1mでも高いところに逃げる。できるだけのことを備える。

 

 3 率先的避難者であれ。

  自分が避難したら他の人も避難する。助けを待っていたら助からない。自分が助かったら人を助けることができる。まず、自分が生きること。自分が逃げたら必ず家族も避難している。それを信じて避難すること。

 

 これは津波に関することなので、台風時にそのまま適用はできないと。それでもここから考えることはある。伊勢湾台風物語は、アニメでありながら当時の史料や体験者の聞き取りから作成された作品で今でも参考になることはいっぱいある。

 

 気になる台風16号。進路がそれるといいけど。本土にやって来たときは、今から準備するしかない。食料や水の備蓄、電気の充電、避難経路の確認、雨風対策、できそうなことはいっぱいありそう。