競輪上人随聞記 ー 安田記念の反省文付 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

自分はもう駄目である。ほとほと愛想が尽きた。

ロマンチックウォリアーが◎で且つ、追い切り評価も二重△(しかも二重の内側が▲)にしたのなら、なぜ単勝一本で勝負しないのか。

しかも3.6倍もついたのに。

 

こんな自分は、念仏の鉄に仕置きされれば良いと思う。

◆必殺仕置人 ー 念仏の鉄の仕置集

 

 

 

小沢昭一演ずる競輪上人はこう言われる。

 

「いいか、余計なものを買うなよ。このとおり一本で買え。本当に救われようと思ったら、あれこれ構わず念仏ひとすじに生きろ」

 

「どうせ俺たちは、煩悩というものが体の中にこびりついていて、断ち切ろうと思っても断ち切れるものじゃない。だから汚い体のまま、汚れた体のまま阿弥陀様におすがりしろ。

この俺も坊主の身でありながらギャンブルの世界に飛び込んできた。その俺がお前たちに教えることはこれだ」

 

「いいか、車券は外れることを怖がっちゃいけない。取れる時は一本で取れ」

「あれこれ迷うな。救われることを恐れちゃいけない」

 

◆映画『競輪上人行状記』(1963年、日活)

 

 

「救われることを恐れちゃいけない」。これはギャンブルで当てるといふことのみを意味しない。

宗教違いだがキリスト教もよく言われる、〝救われないという自由はない〝。「救う/救わないの主権は専ら神にあるのであって、自分がそれを選ぶ自由はない」という意味にこれは他ならないが、主イエスにせよ阿弥陀如来にせよ、理想であり鑑/鏡である存在を専一に信じて、その言われる通りに生きることこそ肝要である。

人は概ね〝専一〝を恐れる。危険分散・リスクヘッジはもちろんあろうが、「信じる」ことを怖がりがち。なぜというに、外した時の被害を考えるからだ。

オウムや統一教会等のカルトが耳目を集めこれに棹を差すのだが・・・ロマンチックウォリアーの単勝一本で買わなかった自分自身、怖がっていたのだと痛感。

 

ことは宗教だけじゃない。信じた人に裏切られ、友と思った相手すら。

※ ちなみに俺は、本もお金も貸しません。約束は「貸す」でも、実はハナから差し上げています。こんなところで人間見たくないし、一方で相手を測ってもいる。ある意味それが、俺なりの自己防衛です。

 

しかして『競輪上人行状記』は、すこぶる実存的かつ宗教的の映画でございます。

 

・・・。

 

と、言いながら本作いまだ観ていません(えっ?)

ただし原作読みました。寺内大吉『競輪上人随聞記』(昭和36年)。

 

※ 写真は映画のシナリオ。

 

映画と原作本はかなり違う。前者は真面目な中学教師だった主人公が、なぜ元教え子の少女とともに旅に出て、競輪の予想屋になったのか。いっぽう後者は仏教大学時代の真面目な友人が、なぜ東北の競輪場に?

共通するのは、いったん実家の寺を継ぎ、再建用に檀家から集めた金をスッちまうこと。そしていずれも、単なる〝ギャンブルで身を持ち崩した〝話ではないこと。

めちゃくちゃ深いんだよ、これが。生きるとは何か。

 

「どこへ行った、何を食った」など、どうでもいい話ばかりをアップする人々にこそオススメする。

本の感想文は近日中に上げます。

 

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今日の音。なんかRoute66が耳について。

◆ストーンズ版、1976年

 

 

しっかしセリフォスの川田「馬場が渋って」はないよなぁ。そんなこと最初から分かってたじゃん。

明らかに川田のミスですね。馬場が渋っていたからこそ、もう2列前にいなけりゃ届かない。

◆第74回安田記念・G1