1、甲子園に行った件
先週木曜日、ブロ友兄ィのお誘いで、甲子園・対讀賣戦へ。
※リアル画像
昨秋もご一緒したが、当時は阪神優勝決定後のいわば消化試合、もといCS→選手権に向けての調整モード。しかも赤星投手にやられ、試合終了待たずして引き上げたもんだった。いっぽう18日は西勇輝と菅野がチャッちゃチャッちゃと投げ合う好ゲーム。1-1の同点続くも抑えの大勢を引きずり出し、延長10回裏、佐藤輝明のサヨナラヒットで勝利。
あまりに打てない人々に岡田監督は、その前のナゴヤドームのカードで1番木浪、2番梅野・・・と打順をヒッチャカメッチャカにして喝を入れた。元はといえばあれが転機になったのだが、自分らが見た甲子園では、2-1のスコアながらリアルに決めた「転機の試合」。爾後首位中日に連勝し、今日も今日とて佐藤輝明のスリーランで遂に単独首位。
序盤戦のマイルストーンとなったのが上記2つで、そのうちの1つに立ち会えたのは幸甚であった。
球場でもガンガン飲んでいたのだが、嬉しすぎて自分は兄ィを誘って今津まで。ぐびぐび飲んで、はあ泥酔。阪神沿線の氏と別れ、阪急今津線-宝塚線と終電を乗り継ぐも北口(西宮北口)&宝塚駅でいずれも駅員に起こされて、あわや行き倒れになるところ。
あらかじめ翌日は休暇を取っていたものの、死人と化したのは言うまでもない。
試合以外に甲子園で気づいたのは
(1)客のユニフォーム着用率が1位森下、2位が近本&佐藤輝明であったこと
あくまで目視でざっと確認したもの。大山・佐藤輝明同様に森下は打率こそ低いが、ここという時に打つ。要は「持ってる」のであり、事実打点は昨日時点で13と、岡本(讀)・オスナ(ヤ)に並んでリーグトップ。なかでも勝利打点は他二者に勝っているのではないか。
そんな感覚が見た感じ、甲子園でのユニフォーム着用率に表れていたのかも知れない。
※ 打点は今日のスリーランで佐藤輝明が14と逆転(セリーグトップ)。
(2)ビール売りのお姉ちゃんの控室がクソ狭く、暑そうで、もちろん戦争状態であったこと
ビールをスタンドで売り歩く若いチャンねー、その控室というか商品補充場所は食い物屋が櫛比するスタンド下の各通路脇にあり、客の我々でも覗くことができる。
自分は覗き込んだわけじゃなくふと見てしまったのだが、甲子園のそれは、以前にテレビで見た東京ドームのクリーンで広い、近代的な控室とは大違い。ほぼほぼコンクリ打ちっぱなしの、さて人が1人か2人ようやっと入れるだろうか。狭苦しい「穴の中」にカウンターのようなものがあり、売り子さんがカウンターに置いたビールタンク(?)に男性が、すかさずビールをじゅぶじゅぶ注いでおった。
佇まいは自分が小学生時分の昭和40年代、ボロいプールの更衣室。然してその様は、時間が勝負の戦争状態。
確かに売り子商売は歩合制で、たくさん売ると実入りも増える。が、いかに若くて体力あろうとも可愛いお姉ちゃんたちが、ただでさえ重いタンクを背負って階段を何度も何度も上り下り。しかもあのような労働環境で一所懸命汗をかいているのを目のあたりにし、「これはやおないばい(福岡弁で「楽ではない、これはキツい」の意)」、そう痛感したもの。
春でさえ斯くのごときであるならば、真夏にゃいったいどういうことになりましょうか。
自分が鬼のように彼女たちからビールを買ったのは、単にあいつらが可愛かっただけではない。いやそれもあるが、楽屋裏を垣間見たのが、やはり大きい。
とまぁ、試合に留まらずいろいろ目配り(?)したわけです。つーか観察って面白いでしょ?
ちょっぴり世の中が分かるし。
斯くして佐藤輝明のサヨナラヒットは、森下ユニフォーム着用率への対抗心と、ビール売りのチャンねーたちを励まし癒す、そんな思いの爆発であった。とは、むろん牽強付会である。
2、今日も馬券を取った件
大阪杯、桜花賞、皐月賞とG1を三連勝したワタクシは、G1のない今週も、ついうっかり馬券に手を出した。安田記念の前哨戦・マイラーズC(京都芝外回り1,600m・G2)。
「来週は天皇賞だから、今週はお休みね♪」。そう思ったところでダメである。最終追い切り見ちゃったら。
抜群なのはソウルラッシュくらいであとはSoSo. セリフォスは明らかに、まだ途上。
しかしそれ以前に問題があり、この追い切り動画も参考レース集も
出走全馬が出てこない。ごく一部の〝有力馬〝のみ。
G1じゃなくG2だもんね。
追い切りや上記レース集だけなら「ソウルラッシュを軸にトランキリテ。セリフォスは三連複のもう一つの軸」くらいしか思えない。せっかくJRAが「余計なリスクを負わないように、あくまで一部だけ」と親心を示してくれたのにも関わらず、自分は掘った。
つまり、他馬の映像を探して、見た。
京都金杯やトランキリテの過去ログは、上の参考レース集にあるから良い。掘ったのは、例えばこいつ。
めっちゃセンスいいでしょ、この馬のレース運び。
ゆえにわたしの結論は、
・ソウルラッシュからワイドで、トランキリテ・ニホンピロキーフ・(京都金杯で最も良い内容だった)セッションへのワイド。
・ソウルラッシュと、調子悪くてもどうせ来るに決まってるセリフォスの二頭軸で、上の3頭に三連複。
結果、
馬券になった3頭は、いずれも道中中段。第二グループ。
前半34.6-45.6、後半46.9-35.4。前後半の差が共に1.3秒もある、まごうことなきハイペース(※)。
※ レース実況するアナは何でもかんでも「1,000m通過が✖️✖️だから〇〇ペース」ってのやめた方がいいですよ。マイル戦でチェックすべきは5ハロン通過ではなく、あくまでも4ハロンの時計。そうでなければペースは捉えられない。だって5ハロンだと次の1ハロンの時計が足され、その1ハロンが緩めばガクンと遅いペース認定となる。マイル戦の前後半は単に算数=4ハロン(800m)です。
G1(級)の2匹にやられたのは当然ながら、ニホンピロはレースセンスが素晴らしく、格下ながらによく走った。
と、まぁワイドも三連複も頂きました。ソウルラッシュ1着固定、2着か3着にセリフォスの三連単も一度はネット購入に入力したが「欲をかきすぎるから三連複でイイや」と消した。
62倍をオミットしたのは残念っちゃ残念だが、それは今朝、母教会のオンライン説教に与ったからかも知れない。
3、ところが今朝の説教、つまんなかった件
朝の説教、お題は『良き羊として』(ヨハネによる福音書、10章11節より)。
聖書でキリスト=イエスを羊飼い、民草を羊に喩えるのは周知のとおり。カソリックが「神父」(神の言葉を預かる、地上における父的存在)とするのに対し、プロテスタントが「牧師」と称するのも、これに由来する。
※ カソリックが神父と称するのは、プロテスタントと違ってローマ法王を頂点とする位階に於いて、その位地を暗に示している。プロテスタントは「神のみ・聖書のみ」ゆえ位階はないが、カソリックはつまり、ピラミッド型組織が前提だ。むろんこれは善し悪しというより、あくまで「違い」である。
さて、今日の説教は教会の牧師ではなく、ある長老が説教を受け持った。プロテスタント諸派の中でも、それこそ長老派同様、ルーテル教会には長老制を採っているところが多い。
長老とは、長年教会活動を熱心にし、信仰・人柄ともに役員会と信徒全員からそれと認められた者が就任する、役員の重鎮的存在である。役員会を構成するのは牧師・長老・執事であり、長老と執事はそれぞれ数名いる。
我が母教会では長老の中でさらに秀でた(?)者が議長となる。現在の議長はP氏、俺より少し若い、韓国の人である。
「秀でた」というは、教会の活動を通じて皆が認めたといふ意味であり、絶対的存在たる神がそう認めたかどうかは分からない。俺自身は温厚篤実なP氏を認めちゃいるが、神様がどう評価しているかは未知。なので(?)をつけました。
話がずいぶん逸れました。説教に話題を戻すと、一言でいうと今朝の某長老の説教は
「良い羊であれ」
タイトルそのままやん。。。
いかな長老とは言い条、神学や説教術で鍛え上げたプロの牧師には流石に劣る。これは他の長老も同じで、要は、
A. 引き出しが少ない
B. 聖書のテキストの分析が浅い、あるいは触れるべき範囲含めて、狭い
C. 論理的/神学的/アカデミックでない
A.については現牧師なら、映画や文学などから論を説き起こす。あるいは適宜、ー とりわけ身近な例として ー これらを引くことで俗と聖/聖と俗とを行き来して、却って聖書に深みを感じさせる。
B.はマイ教会の特徴でもある。同じルーテル教会でも、例えば「未信者でも教会に来て良いのか」等を語る際、〝そのまんま〝を語る所がある。が、それは「説教」じゃなく「よろず相談」でしょう。
答はもちろんYESだが、なぜそうなのかをロジカルに、かつ霊的に訴求するなら必ず聖書のテキストベースであるべきだ。例の、キリストの大宣教命令でも良いし、ローマ人への手紙でもコリント書でも構わない。「なにゆえに」をテキストベースで語らないと、それはキリスト教会の説教とはいわれない。
ここで他所の事ばかり言っても駄目なので、例えば今日の説教は逆に、ただテキストを読み上げたに等しい。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます」。ここでいう命とは、キリスト者なら十字架による全人類の救いと、父なる神に対する連中の、罪の贖いを指していると分かる。ニューカマーがレアである教会内の説教ならまだしも、仮初にもオンラインで全世界に発信しているならば、17節
「わたしが自分の命を再び得るために自分の命を捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」
にこそ着目すべきじゃなかったか。
命を捨てる=愛であるのは分かった。で、「命を再び得るために」とは?
「命を再び得るために、命を捨てる」とは?
確かに某長老も、この箇所に触れてはいた。ただ、掘り下げが甘かった。
「自分の命を再び得る」とは、キリスト自身の復活を示している。でも、捨てる→再び得る→父が愛してくださる なら、単に自己満足・他人から見ればパフォーマンスに過ぎない。
論理的には、先の「良い牧者は羊のために命を捨てる」が前提としてあることを指摘せねばならない。自分のために命を捨てる→それは羊のためである→命を再び得るとは、他ならぬ君たち羊が新しい命を得ることなのだ・・・と、こう繋がる。要は「キリストに与れ」。
新しい命とは、信仰・洗礼を通じたニューライフ。新たな自分に変えられること=クリスチャンになることだが、ノンクリスチャンにそれだけ言っても通じない。
その前の9章、盲人を癒した逸話の中の、ラスト41節
「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『わたしたちは目が見える』と言っています。それであなたがたの罪は残るのです」
と恫喝(!)したうえで、次章の羊の譬えに移るべきだ。
一見逆張りもC.がまさにそれで、自分を盲人・身障者ではない、いろいろあるが総じて言えば今の生活に満足している、別に犯罪やっていないし競馬もドラッグもやってない ー そんな一般ピープルこそ、実は心の奥底に、自分で気づかない深く真っ暗な闇を抱えているものだ。
「羊のために命を捨て、命を得る」とは、この文脈でこそ威力を発揮する。そこで
「我々クリスチャンたるもの、良き羊であれ」
と言ったところで、それこそ自己満足に過ぎない。
クリスチャン・教会仲間同士の閉じた世界。いっぽうキリスト=イエスはこう言っているではないか。
「門を入れ、門から入れ。わたしこそ羊の門である」
「そしてこの門は、世界に開かれている」
ーーー
では音楽。今日は隠れた名曲、ソウルバラードで。
◆柳ジョージ ー Heavy Days(日本語バージョン)
この曲、実は『仁義なき〜』外伝のテーマソング。いやヤクザこそ世の光、もとい、ニーチェ『病者の光学』的には世の中の本質を表しているでしょう? だって自分を盲人と分かっているし、翻るなら諸人は己を罪人ではない、そう思っているから。
つまり闇はは光の暗喩だし、光がなければ闇もまた、それをそれと気づかない。
ヤクザはいわば辺境だが、辺境だからこそ却って真ん中を現す。
そしてスティーヴン・キング『トッド夫人の近道』によれば
「ものの真ん中には穴があいている」
工藤會の高裁判決についてはまた別途。長くなりましたが、以上近況報告でした。。。