雑記 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

「人間の苦悩や人間の悲惨について、ああ、人々は実にいろいろと多くのことを語っている。私もそれを理解しようと努めたし、またそのうちの多くのものを間近に識るにも至った。いかに多くの人間が人生を空費していることであるか、というようなことを彼等はまたよく口にする」

 

「けれどもただ次のような人間のみが自己の人生を空費しているのである ー 人生の喜びや煩らいに心惑わされて、永遠的な決断のもとに自己自身を精神すなわち自己として意識するに至らずして日々を過ごしている人、また(結局同じことであるが)、神がそこにいまし、そして「彼」(彼自身、彼の自己)がこの神の前に現存しているのであることに気づいて、最深の意味でそれを痛感するに至ることの決してない人 ー 

いうまでもないことであるがこういう収穫(無限性が収穫されること!)には絶望を通じて以外には決して到達されないのである」

 

(キルケゴール『死に至る病』より)

 

さて、先日アップしたショーケン主演のドラマ『死人狩り』↓

 

の原作本が届いた。

 

 

笹沢左保、昭和40年刊。

 

舞台は二本松ではなくて西伊豆。同じく27人を乗せたバスが崖から転落するも、その下は海。バスは直ちに海中に没する。

走行中だったのはドラマの昼間ではなく夜間でかつ雨。運転手が撃たれたのは猟銃ではなく散弾銃。彼は即死せず、弾は左眼に当たったがなんとか転落を防ごうとし、ブレーキ痕もあった。しかし撃たれた衝撃で運転ままならず、しかも雨中の夜だったため、断崖絶壁から海に落ちた。

 

設定にいろいろ違いはあるが、心に残る映像を観たら原作を読まなくてはならない。テクストと対峙し、一字一文読み想像力を掻き立てられることによって、理解も思考も醸成される。

 

「いうまでもなく空想的なるものはまず想像力と最も近い関係にある。だが想像力は更に感情・認識・意志と関係しているので、人間は空想的なる認識・空想的なる意志をもつことができる。

想像力は一般に無限化作用の媒体である。それは単に他の諸能力と並ぶ一つの能力にすぎないものではなく、それはいわばあらゆる能力を代表する能力 instar omnium である。或る人がどれだけの感情・認識・意志をもっているかということは結局その人がどれだけの想像力をもっているかという点に懸かっている。換言すればその人の知・情・意の作用がどれだけ反省されているかという点にすなわち結局想像力のいかんに懸かっているのである」

 

「想像力は無限化するところの反省である。それ故にほかならぬ大フィヒテが、全く正当にも、こと認識に関してさえも、ファンタジーをあらゆる範疇の根源であると考えたのである。自己とは反省である ー そして想像力とは反省であり、すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性である。想像力とはあらゆる反省の可能性である。強烈なる想像力のないところには強烈なる自己もまた存在しない」

 

本を読むとは考えることである。一文読むと思考は飛翔し、眼前の小説世界から大空へと羽ばたく。

また、人生経験を積むと ー 考えながら生きていると ー いきおい様々な事物や他者に対する想像力が養われる。精神の成熟度は、したがって想像力の度合いに他ならないが、人生経験は自己を切磋琢磨し精神を彫刻するから、(キルケゴールがいう意味ではなく一般的な意味での)絶望もまた深くなる。ペシミストにならざるを得ない。

27人を乗せたバスが崖から海に転落するといった、悲惨な事件ばかりではない。

 

他者に対する想像力、世間に対する想像力。何より自己に対して発揮される想像力は「反省」を余儀なくするから、自己の再現、自己の可能性の基となる。

 

視覚と聴覚をもっぱら与えられる、つまり作品世界に限定され、思考の飛翔を許さない映像作品ではこうはいくまい。

 

◆萩原健一 〝P-Cat〝

 

 

◆Famous Guy