沈黙について(抄) | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

俗に〝沈黙は金〝というけれど。。。

 

 

「民衆の沈黙のエネルギーが饒舌に散乱して行くと、文明の属性はどうしても喧騒ということになる。人民の長いあいだ探しまわっていた自我というものがここでやっと捕捉されたらしいが、民衆というせっかく結構なる概念のほうはその実体がますます茫漠として来るようである」

 

「喧騒はおしゃべりの自我にとってこそ住みよいところであるにせよ、俗眼のとどくかぎりでは、その中に聖観念がひそんでいるようには見受けられない。地上の聖は知らず、すくなくとも天上の神はここまでおりては来ないだろう」

 

「ポール・クローデルは『宝石の神秘』と題する文章の中で出埃及記 ー 出エジプト記 ー の『胸牌』について書いている。出埃及記第二八章及び第三九章に記すところの、イスラエルの十二の支派にかたどって十二の宝石をちりばめた『審判の胸牌』のことである。祭司にえらばれたものはこれを胸につけて、エホバにむかってその職をはたさなくてはならない。祭司は幕屋を出て神のまえに至る。胸牌はあたかも神託をこうむる力をさずけられているかのようである」

 

「そのヘブライ語の名はtacens すなわち〈沈黙するもの〉の意だという。沈黙をもって神威にあたろうとするに似る。『かくて、沈黙するものはただそのことをもって対話者をして語らしめる』。

クローデルのいうごとくならば、おしゃべりの自我には神もことばのかけようがないだろう。自我もまたエホバにつかえる祭司ではない」

 

「おもえば、ヨハネ伝第一八章三八節に、ピラト(※ ローマ帝国のイスラエル総督。イエスを十字架につけた)がイエスにむかって『真理とは何ぞ』といったあとはこの問答は空白にのこされていた。イエスは答えず、ピラトもまた出でてユダヤ人にむかって話しかけている。

イエスは沈黙のエネルギーに於て立っていたものと見える。そこに神の智慧がみたされていたとすれば、そして俗眼にはそれが見えなかったとすれば、ピラトが話しかけるべき相手はもはやイエスではなくて群衆にちがいない」

 

「それでも、ピラトはおのれの下すべき審判の正邪について懐疑的であり、マタイ伝第ニ七章二四節に依れば、水をとり群衆の前に手を洗って、『この人の血につきて我は罪なし、汝等みずから当れ』といっている。しかし、近代の自我はおのれの発するいかなることばからも決して生活を洗おうとはしないだろう。もしおのれのことばについて懐疑的ならば、その懐疑を生活するだろう」

 

「舌は、いや、生活のほとんどすべてのことはしゃべりつくして、たった一つ沈黙ということばを知らない。それゆえに、対話という思考の場が地上から消えている。いわば、対話の間がもてないようなものである」

 

「今日なおクローデルというカトリック詩人は、宝石の光を見つつ、神について語り、おそらく神と対話することができる。近代の自我は、たとえばダイヤモンドについて、いったいなにをしゃべり出すつもりだろう。

一般に、われわれは詩人とおなじくダイヤモンドの光を見る。ただ、われわれがその光の中に見とどける宇宙の神秘は、神ではなくて、炭素である」

 

ー 石川淳「沈黙について」(『石川淳評論選』ちくま文庫 所収)

 

 

 

神は饒舌を戒めるが、その理由のひとつは〈対話〉を阻害するからである。ここでいう対話とは、人間同士もさることながら、神との対話。

クリスチャンは日々祈る。「祈り」と「願い」の違いは、そこに対話があるかどうか。家内安全健康祈願、これらの「願い」には神との対話がない。一方通行だ。

 

神との対話に於いて、邪魔になるのが自我である。近代的自我もまた、神と人との1対1の関係というキリスト教が基なので、それがルネサンスを経て「個人」と云ふ概念・意識に。さらに人権思想/近代国家へと発展してはきた。

つまり本来の「自我」は歴史と不可分で、社会的な概念でもあるが、ことキリスト教を知らず、革命も経験していない我々日本人にとって、それはただただ「我が思い」。

祈り=神との対話に於いては、自分の思いで心をいっぱいにしていると、神の言葉が入る余地がない。モーセがホアブ山で初めてに会った時のように、履き物を脱ぎ、ただただ額ずくべきなのだ。

 

「さあ、お語りください」

 

と。

※ 映画『十戒』(1956)より。出エジプト記、三章から。

 

 

 

デモにスト、批判。「人権意識」は饒舌を想起させ、昨今は自ら人民であるのに、こんな〈人権〉を嫌う向きが多い。

近代社会のベースは人権思想。ここで神との対話を人間同士に援用すると、「さあ、お語りください」から言論議論は開始される。まず相手に喋らせるのであり、その前提は、自分自身の「沈黙」。

 

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』でサタンの側についた大審問官は、イエスに対して饒舌に、〈人間の自由〉を論じた。

いわく

 

「自由こそ人間にとって重荷なのだ。『人はパンのみにて生くるにあらず』、荒野でお前はこう述べて我々の試みを退けたが、〝パンを与えるから、我らに従え〝こそ人民が求めているものではないか。

また、人間は奇蹟を求める。何となれば、パンを与えられ奇蹟を見せられて、初めて人間は『信じ、ひれ伏す』のだから。

パンや奇蹟によるそれは〝強制〝だが、我々は人間に、お前が残していった自由という重荷を取り除いてやったのだ。『自由意志による信仰』なる重荷を。

お前は人間を買い被りすぎた。人間ほど、卑小で弱い生き物はない」

 

イエスは微笑み、ただ黙って大審問官にキスをする。

 

 

遠藤周作の『沈黙』は、斯くして逆立ちしているのだ。人の饒舌を咎めることなく、もっぱら神の沈黙を問う。神の沈黙、その深い意味を思うこともなく。

「信仰の書ではなく、迫害の書」、そう言われる所以である。

 

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今夜の音は、バックでラッパが高鳴るアレサ。

◆When I Think About You

 

 

イエスよろしく底なし沼。自由自在。