断片2 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

 

石母田正『平家物語』(岩波新書)より ー 

 

「内乱は事実や経験の意味を根本的にかえてしまった。頼朝と義仲が東国で挙兵したとき、公卿たちは将門の乱の再来くらいに評価して、まさか三年後にそれが平氏の都落ちとなって結果しようとは夢想もできないことであった。東国からの年貢の輸送がとまるかどうかについて、重大な関心をもつ貴族や社寺でさえそうであったから、京都の一般の人間にとっては東国の乱という事実が、自分たちに関係のある事実としてとらえることは不可能なことであった。

しかし事態の発展は、どのような遠隔の事件であっても、それが中央の大きな政治的変動とむすびつき、そこに集中してゆくという発展の仕方をとった。畿内や東国だけでなく、四国や九州の武士団の蜂起さえも、平家の滅亡という歴史的事実の一つの環に転化していった。中央集権的な国家が支配しているところで内乱がおこった場合、普通は孤立している地方の出来事も、すべて中央へ集中して来ざるを得ない。そのことを眼前の事実の発展そのものが、この時代の人々の意識にたたきこんだ」

 

「北陸で大敗した平氏の軍隊が帰京したときのことを、平家物語は『京中には、家々に門戸を閉て、聲々に念佛申し、喚叫(をめきさけ)ぶ事おびただし』とのべて、平氏の軍隊に徴発された兵卒たちの妻や子の嘆き声を伝えている(還亡)。信州でおこった無関係な一つの事実が、自分たちの父や夫の事実としてはねかえってくるということは想像をこえたことである」

 

中央集権国家は後年の大日本帝国も同様で、幕藩体制までは、戦といえば侍の専権事項。百姓町人は(物資や使役の徴発以外)埒外だった。それが明治になると一般人民も徴兵され前線に送られる。

与謝野晶子が日露戦争時、徴兵された弟を案じて詠んだ

 

「君、死にたまふこと勿れ」

 

は、単に反戦歌ではない。未だ江戸期の体感が残る当時において、大阪船場の商人たる与謝野家にとって、兵隊に取られるなどというのは、理解を超え、全く意味の分からぬことだった。

そんな背景がこの歌にはある。

 

「韓衣(からころむ)裾に取りつき泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして」

 

万葉集の、有名なこの『防人の歌』も大化の改新で中央集権化したあとに詠まれた。7世紀、平家の舞台となった12世紀そして明治国家の19-20世紀と、数百年おきに我が国は、〝他所で起こった無関係な一つの事実が、自分たちの身に直接はねかえってくるという、まさに想像を超えた〝 経験を繰り返している。

※ 歴史を知らず歴史に学ばぬ以上、これからもきっと繰り返すだろう。

 

『平家物語』を続ける。

 

「今までにない数万の軍隊が、遠隔の地に征討に赴くということは、厖大な兵糧米を必要とする。東国の側においても同様である。それはすべて人民の肩にのしかかってきた。内乱を支配者同士の権力争いとして、それに無関心であることはできなかった」

「内乱に参加した地方武士にとっては、問題はもっと直接であったことはいうまでもない。かれらは内乱がおこらなければ、生涯見ることもなかったであろう遠方の諸国にまで、合戦をしにいった。武蔵国の住人河原太郎という名もない侍が、一谷の合戦で討死するまえに、下人どもを呼びよせて、自分の最期の有様を郷里の妻の許に伝えるように命じた哀れな話が平家物語にみえる(二度之懸)」

 

当時の内乱は、皮膚感覚としては「世界戦争」だっただろう。地球が狭くなった現在では、むろん対外戦争に置き換えて考えなければならない。

 

「その(妻への)伝言がまた郷里の一族と子孫に物語として伝えられてゆく」

「一谷の合戦で討死した前記の河原太郎も、みじめな郎従であったが、郷里の一族の後裔たちは、源平合戦で音にきこえた武士として誇ったにちがいないのである。ただの合戦で討死したのでは記憶にのこらない。それが平氏の滅亡という歴史的事件とむすびついている一谷の合戦で死んだからこそ、記憶されるのである。

この時代の全国の武士たちのすべての経験は、平氏の滅亡という一点に集中され、それとの関連のなかではじめて一つの事実として記憶されてゆく」

 

今なら靖國神社が、こんな「物語化」を担う装置なのは言うまでもない。〝光輝溢るる大東亜戦争に関わった栄誉〝、それがいかに侵略戦争であっても、死因が餓死や戦病死であっても、「お国のために戦った英霊」として顕彰される。

「あとに続け!」と後裔の尻を押す。

 

「内乱は、地方地方の孤立した事件を一点に集中してゆくとともに、平穏の時代には互に無関係な諸階級の人間を同じ事件の発展のるつぼのなかに投げこんでしまう。その集中点は平氏の滅亡という一つの事実にすぎないが、それが巨大な事実であるかどうかは、そこに集中されてゆくこの時代の諸事件と諸経験の広さと深さにかかっているといえよう。少くともたしかなことは、天皇制国家の成立以来、このような経験は日本人にとってはじめてだということである」

 

著者はこう念をおした上で、いよいよ核心に触れる。

 

「物語は、読者にとっては、日常体験できない世界につれていってもらうために、必要なものであった。したがって虚構が要求された。

読者は物語によって虚構された世界から現実を眺めるように習慣づけられる。『源氏物語』を愛読した『更級日記』の著者の様子を想いおこせばよい」

 

「しかし事実そのものの迫力によって圧倒されている内乱期の人々の物語に対する要求は、当時の日本人が、その片鱗だけをそれぞれ経験したさまざまな諸事件を、一つの統一された物語的な連関のなかにおいてもらうことであったろう。つくり話はもはや必要でなくなって、かえって事実そのものの記録が要求される時代である。正確にいえば断片的、記録的なものを物語または文学に高めることが、読者の物語に対する新しい要求となったということである。この物語は、もう『今昔物語』のような説話の断片の集積であってはならないだろう」

 

「ここで要求されているのは虚構の世界ではなく、事実の世界であるが、しかしそれは記録的なものによってでなく、物語によって、いいかえれば新しい性質の虚構によって充されようとする要求である」

 

「『方丈記』は内乱がはじまる三年まえの安元三年(1177年)の京都の大火から、都におこった災害や飢饉について記録的に書いている。描写も真実であり、文章も彫琢されていて、その点では平家物語の遠く及ぶところではない。しかし『方丈記』ではそれらの事件が、相互に関係なくただならべられているだけである。それらは都に費用をつかって家をつくることの愚かさ、人間とその家のいかにはかなく、たよりないかをのべるためであって、長明の無常観をのべるための素材でしかない。

いいかえればここには、長明の主張による連関づけがあるだけで、物語的な連関がないのである」

 

『方丈記』に対する著者の指摘には多分に異論があるが、本質はそこじゃない。続けよう。

 

「平家物語はこれとちがっている。まえにあげた例でいうと、都の家々を破壊し去った治承三年(1179年)五月の辻風の記録は、占者の解釈によって兵乱相続く前兆とされ、それがまた重盛が平氏滅亡の運命を予言する話の準備となって、事件の全体と一つの物語的な連関のなかにおかれている」

 

「この時代の人は、かならずしも文学にたいして無常観の説教をききたかったのではなく、平家物語のように、かれらが経験し、見聞したばらばらの事件を、虚構によってでも、一つの物語的な発展の秩序のなかに位置づけてくれることを要求したにちがいない」

 

 

虚構による虚構ではなく、事実の物語化=新しい性質の虚構。

それはひとつひとつの事実の断片を、並べ繋いで統合する営為に他ならないが、中央集権下の悲惨な時代に於いて民衆がこれを要求し、応えて成立したのが『平家物語』。著者の主張は此処にある。

治承寿永の源平騒乱から100年前の、紫式部や清少納言の頃には斯くなる要請は無かったし、あったとしても彼女たちには無理だったろう。

 

河原太郎の逸話から靖國神社に論を展開するのは飛躍が過ぎたかも知れない。理由は二つ。

 

1、平家物語と靖國を、並べて語るは失礼だ。後者はレベルが低過ぎる。

2、平家物語が「文学」であるのに対し、靖國物語も英霊譚も全然そうではない。

 

ただし、〝光輝溢るる大日本〝的な「物語化」を今の日本が要求していないとは言われない。

常に問われるのは、果たして物語化されたものが文学たり得ているか。木曽義仲と猫間中納言の面会譚や、清盛に愛され捨てられた祇王の逸話をも包含する、平家物語の広さと奥行きを

 

〝新たな虚構〝

 

が持ち得るかという事だ。

 

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音は再びCock Robin.

◆The Promise You Made(1986年、ミュンヘン)