イノチガケ(抄)ー 2 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

前回(↓)

 

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「1,703年春の初めゼノア港を旅立つ一団の僧侶があった。

その首長はアンテオキヤの総司教トマス・トウルノンと云い、教皇クレメント11世の特派使節として北京に赴く人であった。

この一行に加わって船出した1人に、ジョヴァンニ・バッチスタ・シドチとよぶ筋骨逞しい僧侶があった。この人のみは途中一行に別れて、単身日本に潜入を志しているのであった。

シドチはシシリヤのパレルモに生れ、貴族の子弟であったが、羅馬(ローマ)に学んで、枢機官フェラルリの知遇を受け、年若くして重要な聖職についた人である。

少年の頃から日本潜入の夢をいだいて、コームで日本の古い書物を見つけ、その時から日本語の独習を始めた。天正年間宣教師によって洋風の印刷術が伝えられて天草学林で刊行したが、その中には外人教師の日本語独習のため和洋両様に印刷したもの、又辞書なども有ったのである」

 

「すでに日本の切支丹は亡びていた。

外人教師の日本潜入も記録の上では1,643年ジョセフ・コウロ一行10名が最後で、その後1,662年にサツカノという神父が20年苦心の後日本に潜入殉教した筈だというが、日本の記録には現れていない。日本内地の切支丹も之と相前後して全く絶滅したのであった。

 

昔より今に渡りくる黒船縁がつくれば鱶(ふか)の餌となるさんたまりや

 

昔、長崎にうたわれた小唄であるが、オランダ以外の紅毛船の航通もこれと前後して全く杜絶し、1,640年にやって来たポルトガル公使一行60余名すら容赦なく殺されて、爾後偶然暴風に吹流されて漂着した紅毛人といえども悉く処刑すべしというふれもでた」

 

「シドチが日本潜入の公許を教皇に願いでたとき、その師たる人、教皇だか枢機官だか分らないが、シドチに向って、日本はつとに切支丹を国禁し、国禁を犯して潜入した教師達はほぼ100名にも及んだが1人として生き帰って来た者がない。今また足下が潜入して、幸にもその使命が果されて布教の公許を受けることが出来ればいいが、許されず、捕われの身となる時は、日本の国法によって裁かれるより仕方がない。国に入ってはその国法に従うべきもので、斬首をもって臨まれたら首を刎られて死ぬべきものだし、火炙りに処せられたら焼けて死ぬより仕方がない。いささかもその国法にたがうところが有ってはならないと言渡した」

「果してそのように言渡した人があったかどうかは分らないが、シドチは新井白石の取調べにそう答えているのである。もとより骨肉形骸の如きはどうなろうと国法に委せるだけのことであるとその時も師たる人に答えて来たと述べ、日本高官の取調べを受けて真情のすべてをもって訴えて尚且切支丹の公許を受けることができないなら万やむを得ない話で、自分は本国をでる時から生きて帰る心だけは毛頭持合せがなかったと言っている。渡航の船すらも求めがたい国へでかけて帰るべき船を予定することはもとより出来得べきことではない。

彼の唯やむべからざる念願は、とにかく日本に潜入して、全滅した切支丹を再興すべくその為し得る全ての努力だけはしてみたいということであった」

 

「渡航の機会をうかがううち、アンテオキヤの総司教トマス・トウルノンが教皇の特派使節として北京に赴くことを知り、彼も亦日本潜入を教皇に願いでて、同行を許され、1,703年ゼノアを出帆。シドチは35歳であった」

 

「シドチがどのような資格で故国をあとにしたか? 彼も亦教皇の特派使節であったかどうか。シドチは白石の取調べに対して、自分とトウルノンは教皇の同じ使命を受けて、一は日本へ、一は北京へ赴いたものだと述べ、教皇と枢機官の会議に於て、昔チイナも切支丹を禁じていたが今は国禁を解いて天子の使が来ているし、スイヤムも亦同断である。ひとりヤアパンニヤのみ国禁すでに年久しいが、先ずメッショナリウスを送って訴え、次にカルデナアルを公使として遣したら国禁を解くことができるかも知れない、と衆議一決、シドチが選ばれて来たものであると言うのであった。

事の真偽は分りかねるが、審問者の感情に対処して、これが適切な答弁であったことは頷ける。白石は大義名分を尊ぶ人であるから、公の使たる者がなぜ堂々と乗込まないで変装潜入するような卑劣な手段を用いたかと問いつめている。これは然し日本の外交史を無視した筋違いの難問で、日本へくるなら潜入以外に手はない筈だが、然しこういう詰問の裏を流れる白石の感情に対して、シドチの応対は聡明自在で、変に応じ虚実をつくして答弁した。自分の利益のためではなく、自分の托された大いなる使命のためであった」

 

 

「11月6日、ポンジシエリ着。

一行はその地に於ける使命を果して、翌年7月21日呂宋(ルソン)へ向けて出帆。9月マニラに上陸した。

トウルノン総司教の一行はここで新たな便船を得て北京へ向って出発したが、シドチはひとり別れてマニラにとどまり、さて愈々日本潜入の機会をうかがうこととなった」

 

「いくら待ってみたところで日本通いの便船があるべき道理はなかったし、金にあかして頼んでみても命を的の航海を引受けるという者もなかった。遥々マニラまで辿りつきながら、一歩のところで思うにまかせぬ悲運に日夜焦燥したが、徒に落胆すべきではないので、彼は先ず聖ヨハネ院と名づける病院をたてて哀れな病者を収容し、日々自分で世話をみた。

余暇には四方を駆け廻って孤児や寄辺ない老人や貧民を訪い慰め、食物を恵み、福音を説き聴かせた。やがて富裕な同情者を得て、病院の傍に聖クレメント学院を設立、教育のためにも働いた。

 

4年の歳月が流れた。

比律賓(フィリピン)総督ドミンゴ・ザルバブル・ルシェベルリはシドチの為人(ひととなり)を知っていたく敬服の念を懐いたが、その金鉄の宿志をきいて深く憐れみ、一切の費用を負担して一艘の大船を艤装し、彼を日本へ送りとどける決意をかためた。

同時に、ミゲル・デ・エロリアガ提督は決死の航海を指揮するために、進んで船長の職務に当ることを申出た。

 

1,708年8月23日、聖三位号に乗込み、マニラ出帆。

途中3回の暴風にあい、難航をつづけて、夢寐(むび)にも忘れかねた日本の島影を初めて認めることが出来たのは13日のことであった。種子ヶ島であったろうと云われている」

 

「夜陰に乗じて船が陸地に近づく。ボートが下される。どこということは分らぬ。

ミゲル提督自らシドチの手をとってボートに乗移った。生命をなげうち絶東の異域へ単身布教に赴いて行く偉僧の上陸をわが目でしかと見届けるためであった。そのほかに水夫、水先案内、都合8名の者にまもられて、シドチのボートは暗闇へ消えた。

漕ぎ寄せた所は高いきりぎしに囲まれた小さな入江で、岩を噛んで打返すうねりが高くて、辛くもボートを岸へ乗りつけることが出来た時には余程時間が過ぎていた。

 

遂にシドチは日本の土を踏みしめた。

 

はらからを捨て、ふるさとの山河をすてて一念踏む日を焦り祈った日本の土であった。やがて彼の墓たるべき土でもあった。鉄石のはらわたからすら涙が溢れた。シドチは天を仰いで天父に謝し、感極まって地に伏して、愛する日本の土に接吻した」

 

ー 坂口安吾『イノチガケ』、後編〝ヨワン・シローテの殉教〝より

 

 

◆Corner /吉田美奈子

 

 

 

 

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