今日は大仏の日 ー 安吾とか小林秀雄とか | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

大仏に触れたことある?

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大仏すかー、触ったことねえっす。
 
しかし鎌倉の長谷寺に行ったとき、長谷の大仏に5百円くらい払って中に潜り潜り。
えっ、ただの空洞じゃないスか!
もうビックリしましたもん。これで5百円かよっていう。
 
大仏は、外から見ている方が良い。しかしアレは何の本だったか、むかしむかし、東大寺の大仏に潜った人がおりまして。
ほとんど話は忘れたが、とある大工が頼まれた。大仏さんの目玉が落ちそう、何とかしてくれんかと頼まれて。
すかさず氏は、自分の小さな息子を派遣。すでに完成しておる大仏の、目玉の穴はすこぶる小さい。少年は、高さ数十mの綱を渡ってそこに潜り、目玉を下から支えて補修した。
 
自分はこんな、なんてことない逸話に感動する者であります。
だってスゴくね?
 
桜舞い散る今日この頃、好きな話は小林秀雄『中原中也の思ひ出』や坂口安吾『桜の森の満開の下』。
 
前者は戦後、小林秀雄が中原中也との青春期を回顧した一文。桜ひらひら鎌倉の寺で、死んだ中也を想い「ひとつひとつの花びらに、君は意識を以て舞い散らせているやうであった」と。
 
ゆや〜ん、ゆよ〜ん、ゆやゆよーん(サーカス)の中原中也は、戦前一世を風靡したダダイストの詩人。長谷川泰子なる年上の女性と同棲していたが、彼女を奪ったのが親友小林秀雄。
秀雄ちゃんは悔恨混じりに鎌倉の桜を愛で、そんな文章を書きました。悼みは若かりし頃の、痛み。
 
安吾の後者は寓話。
 
平安時代、京都付近のある山に、山賊がおった。
彼は凶暴で、女と見れば犯すわ物品強奪するわ。あたかも芥川『藪の中』つまり黒澤明『羅生門』状態なわけだが、

 

 

夫から奪い取った女がとんでもない奴で。

 

わたしはヤられて、あんたが好きになったの。ついてはこんな山の中はイヤ。都に行って、派手な暮らしがしたいわぁ。

あたしってば、人形遊びが好きなのよね。とりわけ、貴族と少女との組み合わせ✌️ あんた、貴族と若い女の子との首を、持ってきてくれない?

 

むくつけき山賊は山を下り、京都で直ちに両者の首を斬って、新女房に持参する。彼女は嬉々として首遊びす。

そのうち首は腐ってくるが、女房は貴族の首と少女の首を両手に持ち、「な、イイだろ?」「いや〜ん」など会話させつつ、いっそう楽しそう。

 

気持ち悪い? そう思うなら、あなたに文学的感性はありません(きっぱり)。

 

山賊は、かくなる女房のありようを見てだんだん疲れてくる。都もいいけど山に帰りたいなあと。

女房は頑として拒否。あんなところにゃ戻りたかない。だって何にもないじゃないですか。

 

が今や夫たる山賊の勝ち。女房を背負い、彼は桜満開の山道を走る。坂に谷、上って下って。

山を登りきったところに、桜の木がある。かつて、女房とその夫を襲った木の下である。

 

「桜が咲くと、人々は酒を持ち出し花を愛で、宴会など致しますが、花の下は空気が冷えてピンと張り詰めていて、実は虚空なのであります」

「花の下には涯てがない」

 

女房背負って山を走り続ける山賊。桜の森の満開の下、女房は骸骨になり、桜の花びらと化す。

 

 

ーーー

 

長谷寺に母と一緒に参ったとき。あそこは大仏さんだけじゃなくって階段登ったらお地蔵さんの並んでいるところがありましょう?
長谷寺って実は、水子の寺。母がお地蔵さんを一所懸命拝んでいるから「なにゆえに」と問うたら、
 
「実はむかし、君の上と下に、子どもがおったんよ。でも貧乏だったから、堕してしもうた」
 
アジすか!
 
いまわかる、衝撃の新事実。
 
そっかー。俺には姉と弟がいるけれど、もっといっぱい兄弟姉妹がいたのかー
奴らがこの世に生を受けていたら、俺の人生、いったいどうなっていたことだらう。より楽しかったか、はたまた反駁し合ってしんどかったか。
それは、今となっては神のみぞ知る。当時貧乏で、食っていかれる自信が両親になかったんならしょうがない。
 
かく言う母も、戦中戦後に姉と妹(俺のおばさん)を結核で亡くしています。結核って昔は「労咳(ろうがい)」と言い、ストレプトマイシンができるまでは不治の病だった。
 
映画『幕末太陽傳』の居残り佐平次(フランキー堺)も、嫌な咳をしておる。きっと結核。

 

 

悔恨は、常に人につきまとう。俺にも自分自身の、許せない過去があります。

いかな若気の至りとは言い条、何であんな判断をしたのか。自分に力が無いならば、どうして人に「助けてくれ」と言わなかったのか。

人様にヘルプを求めるこそ、真の勇気じゃなかったか。

 

 

20代当時、自分は迷いに迷い、結局己が利益を図ってしまった。それで人に、一生負えない傷をつけてしまった。

不肖ワタクシの根本は、そこです。後年、キリストの神に誘われ、洗礼を受けたのもかくなる所以ではあろうと思う。

 

父母の時代は敗戦後すぐ。日本人はほぼ全員貧しかった。

が、俺らの時代はバブルの前。時代が違う。

 

いずれも言い訳っちゃ言い訳。要は、坂口安吾じゃないけれど

 

「おまえさ。偉そうなこと言ってっけど、実はこんな心底じゃね?」

 

そう見抜かれると言うね。

 

文学は、ドストエフスキー、ボードレールやカミュ、コーマック・マッカーシーにせよ漱石鷗外、あるいは安吾にせよ、人の心を抉ります。だからこそ素晴らしい。

本当のこととはいったい何か。

 

ゆえにワタクシ、文系理系を問わず「文学をこそ、学校教育大学教育の必須科目・ど真ん中に置け!」。そう主張するのです。

 

だって、はあ、「人間」がわからなきゃ金儲けだって政治だって出来るはずないじゃん。

よしんば出来てもそれは「たまたま」。自分の努力だけでは決してない。そこを勘違いしてはいけない。

 

大仏さんから文学まで。鎌倉は長谷寺の大仏か、あるいは奈良東大寺のそれか。

それは君ら自身が決めることでしょう。

 

◆今日も今日とてボ・ガンボス。Nokkoちゃんが歌う『最後にひとつ』。

 

 

仏や神は実在します。だから私たちは、いかな罪を犯そうとも救われるのです。