「すみません。皆さんにお聞きしたいことが。
茶道というのは、いつから俗物根性丸出し、道具自慢したいだけの成金趣味になったのですか?
そして、一部の茶道家の職人を見下す態度が我慢ならないので、全てに当てはまらない茶事を作ります。」
という投稿がありました。
コレに対して、非常に面白いコメントが並んでいます。
その中のコメントで、足利家を成り上がりと捉えているものがありましたが、足利氏は最も源氏の嫡流に近い家として、全国の御家人から尊敬を集めていた家で、鎌倉時代、北条氏でさえ(反乱しないように)気を使っていた一族です。
つまり成り上がりではないので、成金にはなり得ない訳です。
また、足利義政は侘数寄の源流たる侘びを文化の中枢に据えた人物でもあり、当時、王朝趣味が主流だった和歌の世界で、万葉集の侘びた叙情を好んだことから、武家社会に侘び数寄が受け入れられる素地を作ったといえなくもありません。
ほかには、「茶道は元々茶の湯を通じて心を清め禅の精神を養うことを目的とした文化」という主張がありました。
現在主流である千家が「禅の精神性を強調している」のは確かですが「元々」ではなく、それは江戸中期以降の話です。
そもそも千利休の家は法華宗であり、利休個人が大徳寺に寄進したり受戒しているだけであり、禅宗に帰依している訳では無い点もよくよく考えなければなりません。
また、茶事というのは、禅宗の精進料理から発展したと考えられていた訳ですが、実際には精進料理も本膳料理の省略形であり、そこから派生したものである訳で、特に禅の影響が有ったわけではないのです。
主にこの省略を形式化したのが禅宗であっただけであり、室町後期~江戸前期までに茶の湯は禅宗の影響が強いとは言い切れないのです。
それは、茶の湯の担い手である商人が浄土宗・浄土真宗、そして法華宗の信徒が多かったからです。
禅の影響が強くなったのは江戸中期に白隠がでてからのことであり、わかりやすい禅が民衆に受けたことで、茶の湯の精神骨格として取り入れられていったという研究もあります。
そもそも、茶の湯の歴史は将軍家の威信回復のためのランキングから始まっています。
席次を争い、いい道具(価値の高い道具)を鑑賞し、それを下賜されるために寵を競った訳です。
その後、侘数寄が生まれ、戦国の商人たちに広まり、奈良流(珠光流ではなく)の正統は足利義輝の同朋衆となっています。
禅が強調されるようになった江戸中期は文化的に華美になっていた時代ですから、時勢の中で己を見失わないようにしようという潮流が民間にあったのかも知れません。
但し、江戸期を通じて主流は武家茶・大名茶であり、唐物主体の茶の湯であったことも事実です。江戸期は唐物の絶対数が不足し、中興名物などが取り上げられるようになったことでもそのことが分かります。
現代になって、唐物という言葉を「舶来品」と混同する茶道家が増えていることも、残念なことではありますが、言葉を厳密に使っていかないと、間違えることが多いです。
侘茶は「唐物が使えない(持っていない)ので国焼だけで行う茶の湯」であり、侘数寄は「侘びた唐物と国焼を取り合わせて行う茶の湯」であり、両者は隔絶しています。
千利休は侘び数寄の人であり、侘び茶の人ではなかったというのが、私の主張するところです(侘び茶を興すのは千宗旦)。







