歴史小説には「高い文章能力」と「高い構成力」そして、「歴史的事実に対する理解力と調査能力」が必要なのですが、実はこれだけでは不十分で「精度の高い時代考証能力」が最も必要だったりします。

 

 例えば、戦国時代に「茶托」や「湯呑み」、「引盃」、「燗鍋」、「猪口(蕎麦のちょこ/チョクと呼ばれる違う道具はあります)」、「蕎麦(麺の形)」、「緑茶」などはありません。

 

 袷なんかもなくて、木綿の着物もありません。

 

 こうした無かったものを探すのが大事なんですね。

 

 では、今で言うお茶のように飲んでいたのは「白湯」です。それは今で言う「汲出」で飲んでいました。

 

 江戸時代に煎茶が流行するようになって汲み出しは磁器が使われるようになりましたが、茶の湯では今でも陶器の汲み出しを使っているように、戦国時代も汲み出しは陶器です。

 

 酒は瓶子で飲みますし、盃は土器(かわらけ)で、これに漆を引いたものが登場しています。

 

 引盃の最初は古田織部が汁椀の蓋を用いたことで、利休好みは真塗です。江戸時代に千家が朱塗の引盃を利休形としたことで、現在のように流通するようになったのです。

 

 こうした指摘を「煩い」「面倒臭い」という人が居ますが、そういうことを指摘する人はどういう人なんでしょうか?

 

 実は、目を皿のようにして文章を読んでくれる「熱烈なファン」だったりします。

 

 誤字脱字や誤用なんて、報告してくれるというのは、「この作品にもっと良くなってもらいたい」「沢山の人に正しく届けてもらいたい」と思うからなんですよね。

 

 でも、最近の方は駄目らしいです。

 

 Twitterをブロックされたり、なろうのメールを受信拒否されたり、結構いろんな拒絶をされてます。

 

 悲しいですが、せっかくのいい物語を興醒めさせる間違いというのは、残念すぎるんですよ!!!!

 

 支(つっか)えちゃうんです。読み進めていくにも。

 

 茶托は、天目台から発展した『茶盌台』というものがあり、ホオズキのない天目台で、煎茶の台としても使われることがあります。

 

 ここから、中央の穴が埋まったものが作られるようになりますが、これは「盆」から発展したもののようです。

 

 細かい、風俗や習俗の歴史もきちんと調べて書かないと、誰かを興醒めさせてしまいますよね。

 私も一箇所「徳利」を書いてしまったことがあります。

 

 自分で気づいて直した(つもりですが)のですが、全てのサイトを直せていないかも(手許の原文は直してあります)。

 

 気をつけようっと。

 十年以上前からの茶友の宗綾先生がお席を持たれるというので、伺って参りました。

 

 濃茶はお父様が席主……だったのでしょうかね?私はてっきり三兄(私より年下ですし、彼も知り合いなんですが、宗綾先生との繋がりのほうが深いので、宗綾先生の三番目のお兄さんという捉え方)さんが持たれるのだと思っていたので、少々戸惑いました。

 

 こうなると私全然喋れないんですよ~。

 

 切り返しもあまりパッとしない正客で、信楽の鬼桶が答えられたぐらいで、元代の龍泉窯の青磁を「明ですか?」とか言っちゃいましたしねぇ(明代は染付や祥瑞などの白磁が多い)。

 

 お父様は上海に駐在されていて、お目にかかったのは十二年ほど前です。今回は、向こうで茶道を習われている中国人の方々が点前をされていました。

 

 一応、普通話(プートンファ)はまだ少し聞き取れるので外で離していた中国人同士の会話もなんとなく意味は解りましたけど、「どれぐらい月に通ってるの?」「毎月3回だよ」「毎月三回?そんなに行くの?」「いかないと上達しないし、月謝がもったいない」みたいな会話で、どうやら留学生と上海の方の交流だったようです。

 

 宗綾先生はすでに学校茶道を初めて16年とのことで、彼女が学校茶道を初めたのは私と知り合ってからなんで、あれ?もうそんなになったのか~~~と感慨深かったです。

 

 クリスマスをテーマにしたとのことで、宗綾先生らしい道具組みでした。

 

 棚は三友棚。

 東方の三賢人を表した訳ですね。この辺りは私の得意分野。

 

 香合が「サンタクロースの帽子」と書かれているそうで、「ほかに使い道がない」とボヤかれてました(笑)

 

 菓子器のソリがとても可愛らしく、道具屋さんに頼んでおいた品だとか。柿合朱塗と黒塗の品でした。ソリならトナカイ代わりに鹿に関わる道具がほしいところですが、まぁ、それはまたのお楽しみということで。

 

 宗綾先生が大好きな小川長楽の茶盌が主で、次客もなかなか取り合わせの難しい蘭?の茶碗で出番が難しいと仰ってらっしゃいました。仕舞の紫三島のお茶盌も十年前に買って初使いとのこと。

 

「これいい!」と一目惚れで買うと道具は組み合わせが難しいよねという雑談を交えながら席は和やかに終了。

 

 中学生の半東さんを暖かく見守る宗綾先生は相変わらずかわいい人なんですけど、やはり年齢を重ねてお母さんになったんだぁと感じました。

 

 懐が深くなったと云うか。

 

 また是非、伺わせていただきたいですね♪

【こよみ|七五三】
 本日は旧暦十一月十五日、霜月十五日、甲辰年丙子月癸丑。

 七五三です。

 七五三とは「天和元年十一月十五日に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まった」といわれる江戸時代以来の子供のお祭りです。

 旧暦の十五日は二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされ、旧暦十一月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であることから、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったようです。

  江戸時代に始まった行事ですから、数え年でするものです。

 といいながら、我が子の三歳は失念していて、翌年満でやりましたが(爆)⇒男の子なのでやらんでもいいんですけどね

 七五三は
・数え年3歳(満年齢2歳になる年)
 「髪置きの儀」とし、主に女児が行う(男児が行う例もある)。

 江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。
 被布と呼ばれる稚児着を着せます(男児は三つ身のみで袴なし)。

・数え年5歳(満年齢4歳になる年)
 「袴儀」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。
 紋付羽織袴。


・数え年7歳(満年齢6歳になる年)
 「帯解きの儀」とし、女児が行う。女子が幅の広い大人と同じ帯を結び始める儀。
 振袖。

 というのが関東での行事。

 基本的に武家の行事ですので、関東のものが主流。

 関西ではこうした行事はなく、十三詣りで一括してやっていたようです。

 七五三につきものなのは「千歳飴」。

 これは江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り七兵衛が売り出し流行した「千年飴」から始まっているそうです。

 ここは「松樹千年翠」がぴったりですかね?

 三、五、七の字の入った掛軸もいいかもしれません。

 三なら「三冬枯木花」、五なら「一花開五葉」、七なら「座一走七」など如何でしょう?




雲ひくくうすくたなびくそらくらく
あざやかに咲く冬のひまわり 月誧

 

 写真を取り忘れたので、後からアップしますが、石蕗を向日葵に見立てて詠んでおります。

 

 黄色い石蕗の花弁の色がまるで向日葵色のように感じたので、日溜まりにひっそりと咲く石蕗が、愛らしいなぁ~と。

 

 そうそう、月桑庵の鉢植えが盗まれました。

 

 禊萩が植えてあった鉢なのですが……なんなんでしょうね!

 

 花泥棒が許されるのは敷地の外にあるときだけですからね!!!!!

 

 

 

 大分久しぶりになってしまいましたが、『数寄の長者〜竹馬之友篇〜』更新予約しております!

 

 12月14日(土) 朝6時 公開です!

 

 今回は大和国(奈良県)が舞台になります。はじめは山城を舞台にしたかったんですが、どうしても柳本賢治の大和侵攻を書かなれけば筆が先に進まない状態になりまして(爆)

 

 柳本賢治を描かないと、三好元長と細川晴元の対立?が見えて来ないんですよね。

 

 また、柳本賢治を調べて大和出身の一族であることを知って居なければ、大和への固執も腑に落ちなかったことは言うまでもありません。

 

 さらに言えば今回のことで、思ったよりも畠山総州家と三好家が近いと感じることがありました。

 

 それと、大和の国衆は「国民」って呼ばれてたんですね。驚きましたw

 

 官符衆徒と国民が他国の国人衆にあたり、官符衆徒は筒井氏や箸尾氏などで、越智氏や古市氏などが国民の代表ですね。


 この辺りの対立も結構複雑です。

 

 古市氏といえば、村田珠光の弟子・古市澄胤ですが、この物語では既に死亡しており、登場するのは澄胤の子・公胤ですが、彼も澄胤の茶を受け継いで、後に古市氏が小笠原古流を立ち上げることになるのもこの公胤が松永久秀につかえて、一緒に滅亡することも遠因かもしれません。

 

 是非、ご一読くださいませ★彡