茶の湯における美とは「余白の美」です。
余白の美というのは、受け手の想像力に委ねられる物で、視覚的な物だけに頼った設えや道具組みというものは、下の下でしかありません。
然れど、それは下の下とはいえども、それも茶の湯の中にある初心者や未経験者に対する導入にはなると思います。
但し、その導入を奥義であるように語ることはおかしいし、ガラス張りの茶室などという、奇を衒ったものを肯定するのも、如何なものかと思います。
こうした分かりやすいアイコン的なものは、一般大衆に分かりやすく受け入れられやすいのですが、伝統として受け継いで行くことは難しいと思われます。
新しく生み出そうとすることそのものは、大変素晴らしいものだとはいえ、一過性のものに過ぎないかどうか?というもう一歩踏み込んだ視点が大事になってきます。
百年、数百年後まで、それが良いものである……という精神性をきちんと含有するものでなければ、残らないでしょう。
故に「ガラス張りの茶室がただそこにあるのは違う」と主張してきています。
細い滝が落ちる先にガラスの茶室があり、水の当たる音を綺麗な音に昇華できたならば、それは荘厳で幽玄の向こう側の世界を現出させた黄金の茶室に匹敵できるのではないか?と考えますし、海底の茶室として、水の中に沈められたのなら、また異界との間を表現したものとして、一見の価値はあろうと思うのです。
視覚に頼った茶の湯は浅い。
それでは来世に残せるような伝統には成り得ないのではないでしょうか。
よく「見立て」、「見立て」と仰る方々の「見做し」に過ぎない道具の流用をみるにつけ、残念に思うのでした。
※正月にFacebookに投稿した文章を多少手直しして掲載いたしました。

