建築屋さんとの話で、建蔽率がギリギリとのことで違法建築にはできないので、最大限のところでやることになりました。

 

 結果、水屋はかなり狭いことになります。

 

 それでも、水屋がないよりはだいぶ好いと思うことにしますw

 

 この改修に合わせて、玄関も前に出せることになったので、収納スペースが増やせることになったのがありがたいですね。水屋に置けない分は、そちらと、増設する天袋に収めようと思います。

 

 あとは、一応蛭釘と、床の化粧ですね。

 

 棚も作り付けの棚にする予定なので、かなり変わるかと思います。

 

 10月着工で1~1.5ヶ月とのことなので、今年は炉開きが茶室披きになるかもしれません。

 

 あとは、灰壺の置く場所ですね……。

 

 細かいところではスイッチの移動やドアノブの交換などもお願いしています。

 

 世の中で誤解されていること一つに「茶道を習うと礼儀作法が身につく」というものがあります。

 一つだけ言っておくと、礼儀作法は茶道を習う前に家で身に着けてから習いに行くものです。

 茶道の先生は礼法の先生じゃありません。着付けの先生でもありません。

 かなり勘違いされています。

 実際、礼法をきちんとご存知の茶道の先生は、世の人が思っているほどにはおらず、案外少ないです。慣習はご存知ですし、先生や先輩がこうしていた……という経験則は豊富ですので全く知らない訳ではないのですが。

 

 ただ、茶道の礼儀作法は「茶の湯という特別な世界で通用すること」であって、茶道の礼儀作法が和文化全てに通用すると思ったら大間違いです。特に現在は流儀ごとに礼儀作法がバラバラになっていて、独自進化しているお流儀もあります。

 私の師匠は酔っ払うと「あたしゃ礼儀作法の先生じゃないんだ、茶道の先生! 礼儀作法は身に着けてから習いに来いってんだ」と、零してました。

「先生ウチの家紋は何ですか?」とか聞くお弟子さんも居たらしく「墓見てらっしゃい」と教えたそうです。

 いつ頃から茶道は礼儀作法を身に着けられるものになったのでしょうか。私も師匠と同じく「茶道の先生」であって、「礼法の先生」ではないのです。

 

 だた、このことは日本の家庭で礼儀作法を教えられる大人が減っていることを意味しています。和室が家庭になくなってしまったので仕方ない部分はあるのでしょうが……。

 道徳の時間がなくなったり、意味不明な英語の授業が小学生から始まったり。

 今一番求められているのは「礼儀作法」の授業ではないでしょうか。

 

 そう思う私は、古くからある礼法とはなんぞや?と調べましたし、実際に礼法のやり方を取り入れています。襖の開け方も流儀で違うようですが、礼法で定められた通りが本来のものではないのかな?と、私は考えています。

 

 着付けや、着物のことはまぁ、オタクなので、必要以上に詳しくはなりましたけれども、これも「弟子に質問されて答えられないことのないように」という意識から着ているものではあります。

 

 最終的には「先生は弟子の三倍の知識が要る」ということに辿り着くので、専門以外の知識も勿論必要なんですけどねw

 本日は旧暦正月十五日。乙巳年戊寅月壬子日。

 

 古くは松の内が終わり、飾納の日でした。

 

 大正月は人日まで竈を休ませるはずの松の内に、来客などがあって忙しくはたらいた主婦をねぎらう意味で女正月といって、地域によっては男性が女性の代わりに料理を行うなおの家事を行う日(期間ではなくこの日だけ)という地域もあるほど。

 この日には小豆粥を食べる習慣があり、元日から小正月の期間中は小豆を食べない習慣の残る地域もあります。

 年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対して、小正月は豊作祈願などの農事に関する行事や家庭的な行事が多く、元服の儀なども小正月に行われていたため、成人の日が新暦1月15日に行われていました。

 元服の儀は男子のみで、女子は裳着の儀を行います。

 元服は、前髪を切るか後ろ髪にまとめていましたが、江戸時代には月代(さかやき)を剃ることをいいました。烏帽子親(一族の長老か母親の父が一般的。後ろ盾になる)に加冠をしてもらい、烏帽子親から一字拝領して初名を名乗ります。たとえば、徳川家康は烏帽子親が今川義元なので最初「松平元信」と名乗っています。大名家は将軍から拝領することが多く、家臣は主君から拝領することが多かったようです。

 裳着は安土桃山時代ごろまで行われた女性の成人式で、初めて裳を着せるものでした。これは娘を結婚させる意思がありますという親の意思表示であり、年齢は一定していません。裳の腰紐を結び、髪上げをして、お歯黒をして、眉を剃り、引き眉をします。これ以降は小袖は白、袴は緋色(江戸時代は結婚まで濃紫)に変わりました。江戸時代には女性も元服というようになり、裳着は明治時代の皇族や貴族の儀礼として復活するまで姿を消してしまいました。

※裳というのは十二単を構成するプリーツスカートのような後ろに引きずる日本の引き腰のついた袴です。

 左義長とは、松下しともいい、門松を片付け、お焚き上げすることを言います。

 左義長とは「その年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く」お祭りです。

 とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き、おんべ焼き等とも言われ、時期は地域によっても異なり、左義長の語源は毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれたものに左義長の字が当てられたようです。

 毬杖とは正月に行われる貴族の遊びで、杖で毬をホッケーのように打ち合うもの(打毬)で、小正月(1月15日)に宮中の清涼殿の東庭に山科家などから進献された葉竹を束ねたものをたて、その上に扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、これを陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供したといいます。
 
 ただし、現代では一月七日に行うところもあります。基本的には十四日の夜または十五日の朝に行います。

 この毬杖が「振々毬杖(ぶりぶりぎっちょう)」とか「玉ぶりぶり」と呼ばれ、江戸時代ごとには子供の遊戯になっています。

 そこから毬杖の先端の形に似せた香合を「ぶりぶり香合」と呼ぶようになっています。これは表千家覚々斎好みや惺斎好みがあり、又玄斎(覚々斎の三男)がもらったことから裏千家でも用いるそうです。

 有楽斎の茶杓にある「玉ぶりぶり」も毬杖から派生したものなのでしょうね。

 月桑庵の春は遅いです。

 

 というのも、月桑庵は旧暦で行事を催しますので、どうしても1ヶ月~1ヶ月半は遅くなります。

 

 今年の初釜は2/16(日)です。

 

 各お流派のお家元は直門や他流の著名な有力茶人を招いて初釜を2~3日、長いところでは一週間も催すそうですが、市井の大して名も知られていない月桑庵では、お客様も多くありません。

 

 今年はお弟子さん含めて6名の予定でしたが、お申し込みいただいた方が一切連絡が取れず、5名となりそうです。

 

 初釜といえば、表千家では常盤饅頭、裏千家では菱葩餅が定番ですが、お流儀で定番のお菓子があるようです。

 

 官休庵さんは虎屋の「都の春」だそうです。

 

 月桑庵は、菱葩餅を使っています。

 

 勿論、川端道喜さんのものではありません(正確に言うと川端道喜さんのものだけが「菱葩餅」であって、あとは模造の「花びら餅」というのがいいのかもしれません)。

 

 皆さんのお流派やお社中の定番初釜菓子はなんですか?