第廿六服を書いている最中に、ひょんなことから見つけた資料等から、上三郡が畠山総州家と畠山尾州家で争っていることが解りました。
そうすると色々変わってきます。
また、系譜を調べていた際の英当は、どうも英家の翻刻間違いのようで、兵庫助英家は、堯家の叔父、就家の弟ということになりそうです。これは堯家は弾正左衛門尉⇒河内守、元家は弾正左衛門尉となっており兵庫助という官途が見当たらないからです。
就家に子がなかったため、養子に基家を迎えたと考えられることは前に述べましたが、ここで、上三郡守護代にふさわしい人物は英盛か英家となります。
就家の跡、河内守は就盛だった訳ですが、堯家が河内守になって、大永七年十一月十九日に歿しており、同年十月廿九日の朝倉宗滴との戦い(川勝寺城の戦い)で負傷して歿したと考えられます。
しかも、同年二月十一日に河内守となっており、それ以前は弾正左衛門尉を名乗っています。
ということは、柳本賢治はやはり京都所司代の役割を担っていたと考えないことには不自然になるわけです。
というわけで、書き直しております。
