武野紹鷗の父・武田信久(武野信久)は康正三年/長禄元年(1457)生。
応仁元年(1467)十一歳で父兄を失って流浪。
廿年の間諸国をさすらい、三好元長が同族の誼を以て采地百町余を得て、農業を始めたが、兵百を擁していた。これはある意味で屯田兵体制なのでは?と思ったり。
廿年ということは長享元年(1487)※改元七月廿日※に堺へ辿り着き、三好元長を頼ったということになる。
ただし、この当時元長は生まれていない。元長ではなく之長であったと思われる。之長は、上洛して京を差配しており、堺に流れてきた武田信久を手の者として雇入れ、百町の土地を与えたと考えられる。
文亀二年(1502)松菊丸(のちの紹鷗)生。
永正三年(1507)信久、入道して乗信と号す。
永正十七年(1520)母、奈良氏歿。
大永五年(1525)、仲材、京四条に住す。
大永八年(1528)三月九日、仲材、三条実隆公に謁す。
享禄三年(1530)九月十八日、仲材、因幡守に叙任さる。
享禄四年(1531)六月末、兵を率いて山科に向かう。八月帰京。
享禄五年(1532)二月十五日、仲材入道して紹鷗と号す。
天文二年(1533)帰郷。
天文三年(1534)連歌会の発句を三条実隆に依頼。一閑斎・大黒庵と号す。
天文七年(1539)信久歿。紹鷗帰堺。
天文八年(1540)利休、紹鷗を知る。
天文十八年(1549)、為久(のちの宗瓦)生。
弘治元年(1555)閏十月廿九日、紹鷗歿。
京では連歌師であり、法橋になり、従五位下因幡守に叙任されていることなどから、茶道の宗匠として帰郷した訳ではない事がわかる。
しかし、帰郷した紹鷗は、村田宗珠・藤田宗理ら一流の茶人に教えを乞うたことから、その話を求められ、少しずつ教えることになったのではあるまいか。