実験の続きです。
 同じ日数乾かした水指。
 
 今回は三十分で実験です。
 まずは同じように水に浸けます。

 
 こちらが30分浸けた水指。
 蚊帳ふきんで丁寧に三度拭き(中・外・口造り)。
 
 そして、濃茶と薄茶を稽古した結果……。
 はい。
 くっきりと。
 輪染みができました。
 
 1時間の輪染みはこちら
 
 明らかに1時間水に浸けたほうが染み出す水が少ないことがわかりました。
 
 では、次は2時間浸けてみようと思います。

 

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「お茶は食事とお酒とお茶が揃ってこそ!」
 

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 お茶事に抱くイメージってどんなものがありますか?
 

 お茶事ってどんなもの?
 

 茶道ってどんなことしてるの?
 

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 茶道の醍醐味といえば「茶事」。
 

 茶事というのは、まず懐石があり、お酒があり、そして最後に濃茶と薄茶をいただくというもの。
 

 そう、本来のお茶とは食事とお酒とお茶がセットになったもてなしのことなんです。
 

 月桑庵の「お茶事へ行こう」は、本格的なお茶事とは違い、炭点前がありません。あくまでお稽古です。
 

 懐石に慣れることを目的としておりますので、少々ゆっくり目に時間を取らせていただいております。
 

 さらに、自分たちだけのために用意された小さな美術館として、日本の伝統工芸に身近に触れられます。陶器、漆器、指物、竹工、金工、羽細工、鋳物、織物、染物、建築、造園、書や香などが所せましとそこにあります。
 

 そして着物で出掛ける場所としてこれほど相応しい場所もありません。
 

 ご興味ございましたら是非お出掛けください(*˘︶˘*).。.:*♡

 

 5月21日は旧暦四月二日。初風炉になります。

 

 濃茶 
 薄茶 
 

 定員5名(別途手伝い枠3名)
 

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■日時
 令和5年5月21日(日)
 懐石:12:00~14:00
 八寸:14:00~15:00
 濃茶:15:30~16:30
 薄茶:17:00~18:00


 開始15分前までにお越しください。
 

 時間はあくまで目安です(席が分かれていて途中参加できるわけではございません)。また、予定時間通りに終わるとは限りませんのでご理解ください。
 

 茶事終了後、お時間のある方はお残りください。お凌ぎがございます。

 

※濃茶【こいちゃ】
 本来のお茶。一般的に思い浮かべる抹茶よりもどろっとして濃い抹茶。菓子は上生菓子を添える。

 

※薄茶【うすちゃ】
 一般的に抹茶といわれると思い浮かべる抹茶。菓子は干菓子または半生菓子を三種以上添える。
 

大寄せでは上生菓子にてお出しすることも多いです(笑) 

 

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■会費
 9000円(懐石・八寸・濃茶・薄茶)
 会費は当日封筒に入れてお出しください。
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■参加方法
下記予約ボタンより予約をお願いいたします。

 

STORES 予約 から予約する


■申し込み締め切り
 定員になり次第募集終了です。
 また、菓子の都合もありますので、一週間前には締め切らせていただきます。ご注意ください。
 加えて、キャンセルもそれまでの受付とさせていただきます。キャンセル料は全額お支払いいただきますので、ご了承ください。


■ご新規さまへのお願い
 当日キャンセル後、ご連絡取れない方が多いため、ご新規さまにつきまして会費の事前振込をお願いすることになりました。何卒ご協力おねがいいたします。


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■服装
 洋装OKです。
 ただし、できるだけゆったりとした【外出着】でお越しください。ジーンズやミニスカートはお控えください(できるだけ膝丈より長いもの)。カジュアルすぎる物はお避け下さい。
 男性は七分裾などの短いものはNGです。
 また、当会はお稽古会ですので、お着物の場合は小紋、浴衣、絣など普段着や紬などの普段着・お洒落着(無紋の訪問着)でOKです。
※通常のお茶会は色無地紋付以上の礼装となります。

 

■ご用意いただくもの
・懐紙【かいし】
 お菓子を頂いたりする際に用います。
 

・菓子切り【かしきり】
 菓子を着る金属や竹などでできた楊枝です。金楊枝ともいいます。
 

・扇子【せんす】
 茶道用の扇子です。礼をする際などに必要です。五寸、五寸五分、六寸、六寸五分があります。
 

・帛紗【ふくさ】
 茶道用の帛紗。点前をする際に亭主が腰につけ、道具を清めるのに用います。
 ※習われている方以外は不要です。
 

・小帛紗【こぶくさ】または出し帛紗【だしぶくさ】など
 茶盌(ちゃわん)が熱いときや道具を拝見する際に用います。濃茶には必須です。
 ※お貸しいたします。
 

 以上のものにつきましては、
 ・薄茶席の方はできるだけお持ちください。
 ・濃茶席の方はお持ちください。
※ご用意のない場合はお貸しいたします(未経験の方)。
 

・替え白足袋または白靴下
 足袋カバーをお脱ぎいただいても構いません。洋装の方は履き替えていただきますので、必ずご持参ください。
 

・封筒
 会費は封筒に入れてお名前をお書き添えの上、ご持参ください

 和花とされていても、実は日本固有種ではない草木などがあったりします。

 

 有名なところでは「菊」。『万葉集』には150を超える植物が登場するのですが、菊を詠んだ歌は一首もありません。飛鳥時代・奈良時代の日本に菊がなかったことを暗示していると言われます。

 

 しかし、天皇家の紋として利用されるなど、日本の代表的な花の一つになっています。ちなみに天皇家の紋となったのは、後鳥羽上皇が殊の外菊の花の意匠を好み、皇室の紋として定めたことによります。

 

 秋明菊も帰化植物で、やはり大陸原産だったりします。貴船菊とも呼ばれ、和花の代名詞です。

 

 ちなみに秋明菊は菊ではなくアネモネの仲間であったりします(笑)

 

 

 この帰化植物も、どこからが和花でどこからが渡来物なのか?という話によくなります。

 

 人によっては「和名があるものは和花」という人も居れば「和は江戸時代以前に日本に定着していたもの」という人も居ます。

 

 私は、室町までに帰化していた植物まで……ではないかと考えています。

 

 例えば朝顔は、奈良時代に日本に入ってきていますが、帰化植物とはされず、園芸種とされます。これは「牽牛子」として朝顔の種が漢方薬として珍重されたことなどもあり、渡来物である地位を保ったためと考えられます。

 

 私は、一概にこう!と決められるものではないので、亭主(席主)が自信を持って「和花です」と言えるなら、よろしいのではないかと思うのです。

 文明十二年(1480)ごろ~永禄八年(1564)六月廿五日か?

 明窓、引説斎(印説斎とも)と号す。午松庵を営み、珠光の独蘆庵を受け継ぐ。奈良の尊教院で修行をしていたところ、珠光に見出されて女婿となった。大休宗休、仁如集尭、青蓮院尊鎮法親王、曼殊院尊運法親王、鷲尾隆康、連歌師柴屋軒宗長らとの交流が知られる。

 

 特に青蓮院尊鎮法親王の茶事に参仕し、数寄者の名声を得ていた。

 

 四畳半と六畳の茶室を持ち、広く弟子を持った。

 

 永禄七年(1564)八月廿五日、鹿苑院の仁如集堯が茶会に招かれているのが最後の活動記録であり、忌日が六月廿五日と伝わる。文亀二年(1571)二月廿六日に津田宗及が宗珠の孫である宗次(宗治か)の朝会に招かれていて、宗珠が亡くなっていることがわかる。このため、永禄八年~文亀元年の間に亡くなったと考えられる。

 

 晩年、大休宗休に寿像の賛を請い、次のように書かれている。

 

 四海九州唯一翁 伝茶経外得新功

 前丁後蔡春宵夢 吹醒桃花扇底風

 

 大休宗休は天文十八年歿であるので、宗珠が最も盛んに活動した天文期に寿像へ賛を与えたことになる。

 

 武野紹鷗が三条西実隆に連歌と茶の湯を学んでいた頃、新興の侘茶を顕揚していたのが村田宗珠といえる。

 

 以下、事績が確認されたものを列挙する。

 

 永正七年(1510)、一休和尚三十三回忌に五〇〇文出銭する。宗珠とあり、これ以前に入道したと考えられる。 

 

 大永三年(1523)、『君台観左右帳記』の写本を献上(水戸徳川本)。誰に? 

 

 大永六年(1526)八月、独蘆庵・午松庵にて茶会。四畳半と六畳の数寄屋造りの茶室にて行われたもので、京の噂となる。弟子らも茶会を行い、互いに招きあった。 

 

 天文十三年正月、青蓮院尊鎭法親王に『珠光秘書』の写本を献上。盆石に『松風』の銘を賜る。南禅寺の梅屋宗香撰。

 

 永禄五年六月廿日、道安の会に列席

 同九年正月、三月、堺の会に列席

 永禄七年(1564)八月廿五日、茶会に鹿苑院の仁如集堯が招かれる。 

研究資料 宗珠と珠光茶秘書(永島福太郎著)

 

 ネットの海で時々論文とか研究資料を見つけるのですが、今回は、あまり知られていない村田宗珠のことを知る手がかりになりそうということで読み始めました。

 

 村田宗珠は、村田珠光の跡継ぎで、養嗣子(女婿)です。

 この宗珠の跡継ぎである「村田三郎右衛門」も女婿で、甥とも姪とも書かれているので、妻の姉妹の子である可能性が高いです。この当時、姪と甥は同義語なんですが、それは男系(甥)か女系(姪)かで使い分けられていて、どちらも男性のことを示します。

 

 つまり、村田珠光の女(むすめ)が二人以上いて、おそらく長女が宗珠を婿にとり、嫁に出した妹の子を宗珠の女と娶せて跡取りとしたということかと思います。

 

 これが、宗印です。

 

 宗印の子は、宗治。四条の屋敷を売り払い、鈴木と名を改めて、宗可とも伝わる人物ですが、茶会記などから「宗次」とも書かれているので、「宗治」が正しく、「宗可」は書き写し間違いではないかと推察されます。

 

 ちなみに村田珠光の名前は「じゅこう」か「しゅこう」かで論争されますが、「十茶盌」という表記から「じゅこう」であるという推察が成り立ちます。ほかにも「周光」という表記があるから「しゅこう」だという論を出す人がいるのですが、実はこの当時「濁音を表記する記号がない」ため、「じゅこう」であってもひらがなで書くと「しゅこう」となるため、「周光」でも「じゅこう」と読んだ場合がある訳です。しかし、「しゅこう」であるならば「十」とは書かないのです。よって、音は「じゅこう」であるといえます。

 

 同じ理由で、宗珠も「そうじゅ」であると考えられます。

 

 いろいろな考察から、村田宗珠は文明十二年(1480)頃の生まれで、永禄七年(1564)頃に八十前後で亡くなったと考えられます。

 

 水戸徳川家に伝わる『君台観左右帳記』に大永三年二月吉日、写本した旨の宗珠が奥書したものが伝わっていて、それには、「能阿弥から村田珠光が相伝された」ということが書かれており、事実かどうかは不明なれど、珠光が宗珠にそのように伝えていることが分かります。

 

 出だしを読んだだけで、これだけの情報量。

 

 読み込みます!