以前、四方捌きの意味を考えたあと、実際に検めながらやるようにしています。

 

 そういたしましたら、オープンチャットで「濃茶の四方捌き」の話題になり、改めて考えてみたのです。

 

 現在の薄茶の帛紗捌きに名前がないと不便なので、仮に「略式捌き」とします。

 

 どうして、濃茶と薄茶で捌きが違うのか?ということを考えてみた訳です。

 

 これは、おそらく、江戸時代に略されていったのではないかと。

 

 そもそも利休頃までは濃茶と薄茶に茶器の区別がなく、漆器の茶器というと、
 

・金輪寺
・茶桶

 

 が存在しています。

 棗が登場するのは君台観左右帳記の「小壺棗を茶桶の合口で漆器に写した」物が最初で、次いで珠光の「昔棗」が出てきます。ただし、これは現在の棗形ではありません。


 

 その後、武野紹鴎が好んだという臨器棗(のぞき)・飯器棗・薬籠(中次)・帽子棗・薬器というものがあります。

 

■臨器(西大寺茶器と同型)

 

飯器棗はずんぐりとした背の高い大平棗のような形をしたかぶせ蓋の茶器です(写真なかったので知り合いに撮らしてもらおう)。


 中次は樽井藤重が作ったとも言われている茶器です。

 

 ちなみに、臨器棗も飯器棗も当時は「棗」と呼ばれず臨器、飯器と呼ばれています。紹鷗の好んだ棗は甲が平で蟻腰が生まれる前であったことが分かります。

 

 これらはすべて濃茶に用いられています。

 

 実は、薄茶を茶事で出すようになったのは江戸中期で、戦国時代は、茶事が終わったあとに所望があったときなどに振る舞われたり点出しをしたりしています。

 

 この頃「茶」といえば「濃茶」だったのです。

 

 ただし、薄茶は存在しており、珠光の頃にもすでに茶売りが町中で茶を売っていたことが分かっています。

 

 この薄茶が茶事に取り入れられ、盛蒔絵のものが少なくなり、略式捌きで振る舞われるようになっていくと考えると得心できます。

 

 この薄茶専用の棗が生まれたことが略式捌きを生み出した訳ですが、では何故略式捌きでよいとされたのでしょうか。

 

 おそらく、棗は陶器の茶入れのようにほつれや釉溜まりのような凹凸が少なく、表面は滑らかであり、さっと拭いただけで清められるということと、濃茶のような厳格さを嫌ったからではないかと思います。

 

 ただし、元々、戦国時代にその点前が存在していた(人前でするしないにかかわらず)可能性は否定できません。

 

 この辺りのことは騎座とともにもっと深く掘り下げていきたいと思います。