Twitterで創作界隈に居る方から「AIを使うと血の通った文章は書けない」と言われました。AI生成文章の是非ではなく、AIをリテラリーアシスタントとして使用する補助利用の話でです。
正直、はぁ?という感じでした。
なので、それに対して私は「だったら、爪を割って木簡に指で書けばいい」と返しました。
これはどういうことか?というと、
・AIは道具にすぎない
・スマホも道具に過ぎない
・パソコンも道具に過ぎない
・ワープロも道具に過ぎない
・タイプライターも道具に過ぎない
・万年筆も道具に過ぎない
・筆も道具に過ぎない
・墨も道具に過ぎない
ということで、道具を否定するなら、爪を割って木簡や竹簡に指で書くしか血の通った文章は書けないよ?ということになるわけです。
筆で書かれた物の価値は、それはそれであります。
万年筆や鉛筆だってそりゃあ価値はあるでしょう。
しかし、書かれたものの価値は「書かれた作品に対しての評価」でしかなく、AIが生成したって、設定その他を人間が入力して与えていれば、おそらくそれは「AIが独自に考えた文章にならない」んですよね。
つまり、うまく使えるかどうか?の話で、こうしたものを否定するのは「うまく使う自信がない」だけで、他人を否定しているという事なだけなんですよね。
私はかつてその方に設定を提供しました。
が、提供した設定は無惨でした。
自分の褌は人に貸さないほうがいい――実はずっとそう思っていましたが、一度貸したのだから、言うまいと思っていましたけれど、こういうことがあったら吐き出しますw
その方は今、茶道を莫迦にしてんのか?と私が思う小説を書いています。茶の湯は本を何冊か読んだだけで書けるようなものじゃないのに「十◯冊は読みました」と。
茶道の変遷は文書に残っていることが少なく、特に室町後期(戦国前期~中期)は資料がかなり少ない。利休のことだって知られていることは半分以上が逸話や後世の附会だったり、大分時代が下ってから書かれた書物がほとんど。
四十年以上茶道をしてきて、さらに、そういうことを同時代資料と重ねて書いているような私としては、まぁ、「言うに及ばず」という心境であった訳ですよ。
映画になった「利休にたずねよ」も酷い作品であった訳ですが、茶道というものを茶道を知らない人が描くとこうなるよね……という好例だと思います。
それに対して『日々是好日』の書籍も映画も大変良かった。この映画からは原作と茶道に対するリスペクトが感じられました。
題材にするときはリスペクトがまず先になければ、書いてはいけないと考える次第です。

