2022年10月31日 長野県上田市真田町傍陽の誉田足玉神社に参拝しました。
由緒
御祭神は誉田別命、息長帯比売命、玉依姫命。天安元年(857)創祀。
鳥居
拝殿
本殿は小高い丘の上にあります
覆屋
本殿
右面の胴羽目:今井兼平
今井兼平は木曽義仲の乳兄弟で、巴御前の兄。粟津合戦では木曽義仲に付き従って最後まで供をし、義仲が敵に討たれたのを見て、今井兼平も自害したという。
左面の胴羽目:巴御前と和田義盛
馬に乗った女武者が巴御前。巴御前は木曽義仲軍の一大将として活躍した女武将。木曽義仲の愛妾であった。巴御前と松の木を押し合っている武将は、源頼朝の家臣 和田義盛。義盛は実際には粟津の戦いには参戦していないが、『源平盛衰記』で木曾義仲滅亡後、義仲の愛妾であった女武者巴御前が鎌倉へ下り、義盛があのような剛の者に子を産ませたいと頼朝に申し出て、巴を娶ったのち朝比奈義秀(和田義盛の三男)が生まれたとしている人物のため、描かれたと考えられています。(和田義盛が巴御前を娶ったという話は『吾妻鏡』や『平家物語』にない話のため、物語上の創作と思われる)
参考として、粟津合戦 巴御前 作:歌川芳虎
[粟津合戦の歴史背景]
後白河法皇は平清盛に幽閉され、平家が政界の主導権を握っていた。後白河法皇の皇子以仁王が源氏に平家打倒の命令を出し、源頼朝や木曽義仲など各地の武士団が挙兵した。その武士の中で、木曽義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家10万の大軍を破り、一番に京入りを果たし、幽閉されていた後白河法皇を救い出しました。しかし、木曽義仲は都の治安を治められなかったため、後白河法皇は源義朝に京入りを許すという宣旨を出し、木曽義仲は後白河法皇は対立、白河法皇を幽閉した。木曽義仲討伐のために源範頼・義経軍が派遣され、木曽義仲は瀬田や宇治川の戦いで連敗。寿永三年(1184)、粟津の戦いで木曽義仲は近国江粟津(現在の滋賀県大津市)の松原で命を落とした。
巴御前は宇治川の戦いで敗れて近江国粟津まで逃げ延びた源義仲に付き従っていましたが、源義仲は、巴御前に逃げるよう諭し、巴御前はしぶりますが、最後には追いすがる敵将の首をねじ切って走り去っていったという。
背面の胴羽目は無し
宇治川の先陣戦い (宇治川の戦いは粟津合戦の前の木曽義仲軍と源範頼・義経軍との戦い)
「宇治川の戦い」では、源頼朝から名馬「生食」を与えられた佐々木高綱と「磨墨」を与えられた梶原景季の先陣争いが繰り広げられた。宇治川に至った二人は、当初景季が先を進んでいた。出遅れた高綱は「馬の腹帯がゆるんでおるぞ」と梶原に声をかけ、梶原が腹帯を締め直している間に、高綱が先に川の中に馬を乗り入れ、先陣を切ったという。
右面の脇障子:佐々木高綱 (田型の兜飾りからの推測)
左面の脇障子:梶原源太景季 (鹿の角のような兜飾りからの推測。また、「宇治川の戦い」で渡河の途中に馬を射られて徒歩となった。そのため、馬に乗っていないのだろう)
参考として、「宇治川先陣争図」作:歌川貞秀 (左側の田形の兜飾りの武者が佐々木高綱、右側中の鹿の角のような兜飾りの武者が梶原源太景季)
正面
源頼政 鵺退治
平安時代末期,近衛天皇の御所の上に夜になると黒い雲が覆い、気味の悪い鳴き声がするようになり、天皇は具合が悪くなってしまった。そこで、天皇は源頼政に妖怪退治を依頼。源頼政は郎党の猪早太一人を連れ、黒い雲に向かって矢を放つと、奇怪な鳴き声を上げて妖怪が落ちてきたという。妖怪は頭が猿,体は狸,尾は蛇,手足は虎という姿で、その鳴き声がツグミの一種である鵺に似ていたことから、「鵺退治」といわれる。
正面の右脇:源頼政
正面の左脇:猪早太
海老虹梁:鯉
上部:鯉
コメント:巴御前の浮世絵(歌川芳虎作)を彫刻している神社。胴羽目・脇障子もの題材はこの神社でしか見れない非常に珍しいもの。珍しい彫刻が見れて満足です。