2022年2月26日 埼玉県八潮市大曽根の大曽根八幡神社に参拝しました。
彫刻が多いため、3つに分けて掲載します。
由緒
当社は、文亀二年(1502)に勧請されたが、一説には後三年役に源義光が兄源義家援軍のため、寛治元年(1087)に花俣郷から綾瀬川を渡河し大曽根の地を経て東国に赴いた頃より、八幡神を奉斎されたとも伝える。誉田別命を御祭神とし境内社に稲荷神社・天神社・古峯神社を祭祀する。
各所に施された彫刻は、常州北方・後藤一重の作で、八幡太郎義家父子等の武将の活躍や神話など様々な題材を彫刻したものと云う。
鳥居
拝殿
懸魚:応龍(羽根のある龍) 中備:玉巵弾琴
玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。
木鼻:獅子 持送り:犀(サイ)
手挟:鳥 海老虹梁下の持送り:亀
本殿と玉垣
本殿
中備:応神天皇誕生
神功皇后は仲哀天皇の妃。仲哀天皇が熊襲征伐で敗北し戦死。その後、熊襲征伐を取り止め、朝鮮半島に出兵(三韓征伐)し服属させたという。その時、神功皇后は身籠っており、お腹に石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産したと伝えられている。
右面の胴羽目:須佐之男命の八岐大蛇退治
八岐大蛇は毎年やって来て娘をひとり食べていた。今年もその時期になり櫛名田比売が生贄になるという。須佐之男命は八岐大蛇を退治するため、櫛名田比売の両親(足名椎、手名椎)に強い酒を8つ用意させ、八岐大蛇がくるのを待った。やがて八岐大蛇が現れ、門の前に置かれた酒を飲み始めた。そして、酔いが回り八岐大蛇が眠ったところで、須佐之男命は八岐大蛇を切りつけ退治した。大蛇の尾からは一振りの剣が現れ、須佐之男命はそれを「天叢雲の剣」と名付け、姉である天照大神へと献上した。
須佐之男命と櫛名田比売
八岐大蛇
背面の胴羽目:天岩戸
天照大御神は須佐之男命の悪行を怒り、天岩戸と呼ばれる洞窟に隠れました。太陽の神が隠れたため世界は真っ暗になり、作物が育たなくなり、病気になったりと災いが発生した。困った八百万の神々は天安河原に集まり、策を考えます。最初に、鶏の鳴き声には太陽の神様を呼ぶ力が有ると言う事で鶏を集めて鳴かせたが扉は開かず失敗。次に、天宇受賣命が伏せた空桶の上に立ち、激しく桶の踏み鳴らし、次第にボルテージを上げ、やがて胸をはだけ熱狂的な踊りを披露します。それを見た神々は大きな笑いを上げ、騒ぎ立てます。すると、その騒ぎが気になった天照大御神は天岩戸を少し開け、外の様子を覗きました。その瞬間、入り口の傍らに控えていた天手力男神が天岩戸をこじ開け、天照大御神を外に導いたことで世界に太陽の光が戻ったとされます。
天照大御神と天手力男神
天宇受賣命
左面の胴羽目:神武天皇と八咫烏
神武東征の折、高木大神によって派遣された八咫烏の導きによって、熊野から大和まで神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)を導いたという。
八咫烏
* 2022.9.15修正 Shin-Zさんからの情報提供で国生みと判明。この写真では 高欄が邪魔で分かりませんが、下記の「信仰心に触れる」で下側にセキレイがいることを確認できました。
右面の脇障子:不明 国生みで産んだ神々?
左面の脇障子:不明 伊邪那岐・伊邪那美の国生み
天の高天原の神々が、伊邪那岐神と伊邪那美神の男女二神に「この国を造り固めなさい」と命じて、天の沼矛を授けました。二神はその沼矛で固めた「おのころ島」に降り立ち、国を産みだそうとしましたが、生み出す方法が分かりません。すると、セキレイがやって来て、尾を上下に振りました。二神はその動きを見て、夫婦和合の方法を知り、次々と国や神を生んだという。
コメント:胴羽目3面で、八岐大蛇退治を表現した神社は多いのですが、八岐大蛇に八つの頭を彫刻している神社はここだけかもしれません。どの彫刻も迫力があります。
*** 神社と彫刻の一覧 ***