千葉県・丹生神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年3月5日 千葉県習志野市谷津の丹生神社に参拝しました。

 

由緒

此の神社は丹生神社と申しまして御祭神は丹生都比売神で和歌山県伊都郡かつらぎ町に鎮座しております丹生郡比売神社の一宮(此の神社は四宮あります)の御祭神の御分霊を江戸時代の承應四年(西暦一六五四年)に勧請このところに奉斎されております。以来此の神社を谷津の守護神として先祖代々敬神の念篤く護り伝えられて今日に至っております。丹生郡比売神は別名稚日女神と申しまして天照大御神大日女大神の御妹神とされておりまして無病息災縁結び、産業発展、交通安全、学業成就、その他諸々の開運招福の神とされております。江戸時代の末頃より伊邪那美尊が併祭されております。伊邪那美尊は夫神、伊邪那岐尊と共に国土創成の神であり、又諸神の御神様であります。現在の此の本殿は文化八年(一八一二年)の建立です。

 

鳥居

 

拝殿

 

本殿と玉垣

 

本殿

 

右面の胴羽目:中国二十四孝 楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったということです。

 

背面の胴羽目:中国二十四孝 漢文帝
漢文帝は、初代皇帝である高祖劉邦の皇子で、幼名を恒といい、母親に孝行でした。恒は自ら毒味をした上で母に食事を運んでいたといいます。兄弟も多くいましたが、彼ほど仁義に厚く孝行な皇子はなく、そのため臣下の者たちは彼を皇帝として推薦しました。皇帝となった彼は漢文帝を名のり、孝行の道を知る彼の治世は、豊かで民衆も住みやすい時代になったといいます。

 

左面の胴羽目:中国二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

 

右面の脇障子:中国二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。

 

左面の脇障子:中国二十四孝 郭巨 (欄干で隠れていますが、釜があります。)
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。

 

右面

 

右面の腰羽目:唐子遊び--龍踊り

 

背面の腰羽目:鼓を打つ人と舞う人

 

左面の腰羽目:海で遊ぶ子供たちと母親

 

コメント:胴羽目は二十四孝とありふれた彫刻ですが、腰羽目は、海で遊んでいる子供たちのように独特。地域的な風習を彫刻したのかもしれません。

 

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