千葉県・飯綱神社 その1/2 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年3月10日 千葉県八千代市萱田の飯綱神社に参拝しました。

 

彫刻が多いため、2つに分けて掲載します。

  ・千葉県・飯綱神社 その1/2

  ・千葉県・飯綱神社 その2/2

 

 

由緒

飯綱神社は、文明十一年(1479年)に太田道灌が臼井・米本・小金及び庁南を攻めた時、この権現山に陣を張り、守り本尊である十一面観音菩薩に祈願し、先勝あらば尊像はこの地に埋めると宣言し、苦戦しながらも勝利したことから、尊像を地中に埋めて引き上げた。それから140年以上経った元和8年(1622年)に権現山で白狐が村人に「我は飯綱大権現の使いなり。昔太田道灌の埋めた十一面観音の尊像は権現山の北東5尺の地下にあり。この地に再度奉れば一切衆生を済度する」という信託をした。村人がその場所を掘ると光輝く十一面観音が見つかり、お堂を建てこの像を安置したという。元は飯綱大権現と称し、長福寺の所領に属する寺だったが、明治時代の「廃仏毀釈」の際、“飯綱神社”となった。

 

鳥居

 

拝殿

 

本殿と玉垣

 

右面の玉垣

 

中国二十四孝 老莱子
老莱子という親孝行な人がいました。我が子が年を取った姿を見れば両親は寂しかろうと、老莱子は既に70才になっても、子供が着るような色鮮やかな服を着たり、水運びの途中にわざとつまずき転んで子供のような仕草をしました。その天真爛漫な姿に両親も年を忘れ笑いが絶えなかったといいます。

 

玉垣にある門:龍と虎

 

中国二十四孝 田真・田慶・田廣
田真・田慶・田廣の三兄弟は、両親が亡くなった後、親の財産を三等分しました。庭先に紫荊樹という花も咲き乱れる一本の木がありました。三兄弟はこの木をも三等分しようと夜に話し合いました。翌朝に木を切ろうと庭に出てみると、昨日まで繁っていた木が枯れていました。急に枯れたのを見て、田眞は「草木にも心があって、三等分に切ろうというのを聞いて枯れたのだ。人として、この木の心をわきまえなければならない」と言って、結局切らずにおくと、木はまた元通りに見事に繁ったといいます。

 

中国二十四孝 丁蘭
丁蘭の母が亡くりました。丁蘭は母の死を悲しんで母の木像を作り、生きている時のように孝行を尽くしていました。丁蘭の妻がある夜、母の木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像は腫れて血が流れました。2日後、妻の髪の毛が全てなくなってしまいました。妻は驚いて何度も詫びましたが症状は一向に変わりません。丁蘭は木像を大通りに移し、妻に3年間詫びをさせたところ、一夜のうちに木像は元の場所に戻ったと言う。

 

中国二十四孝 剡子
剡子には、年老いた両親がおり眼を患っていました。鹿の乳が眼の薬になると聞き、剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入りましたが、そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子はを射ようとしました。剡子は「私は本物の鹿ではありません。剡子と言う者で、親ために鹿の格好をしているのです。」と話しました。猟師は驚きながらも非常に感心し、剡子は難を免れました。剡子は鹿の乳を手に入れ、親孝行をする事が出来たという。

 

曾参 / 朱壽昌

 

中国二十四孝 曾参
曾参はある時、薪を取りに山に行った。その留守中に曾参の親友が訪ねて来たが、年老いた母は家が貧しいのでもてなすことができず、母は考えた末に、自分の指を噛んで「曾参、急いで帰って来て」と願った。曾参は山で薪を拾っていたが、急に胸騒ぎがしたので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。このように指を噛んだことが遠くにまで伝わるのは、親子の情けが深い証であるということです。

 

中国二十四孝 朱壽昌
朱壽昌が7歳の時に朱寿昌の父親と母親が別れました。そのため、朱寿昌は母のことを良く覚えていないと嘆いていました。そして会えないまま50年が過ぎました。ある時、役人となっていた朱寿昌は、安定した役人の仕事を辞め、妻子までも捨てて、自分の血でお経を書き、「母に会わせたまえ」と天へ祈りました。すると、秦に母がいると告げられ、遂に母に会えたという。

 

中国二十四孝 庾黔婁
庾黔婁は南朝斉の人で、孱陵の県令になっていました。しかし、着任して10日も経たないうちに胸騒ぎがして、県令を辞めて家に帰りました。父親は寝込んでおり、庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、苦ければ治り、甘ければ治らないと教えられました。庾黔婁は舐めてみると、甘かったので父の死を悟り、北斗七星に「我が命に替えて父親の病を治してください」と祈り続けました。願いは聞き入れられ、父親も自身も無事に過ごしたという。

 

董永 / 蔡順

 

中国二十四孝 董永
幼くして母親を失った董永は、残された父親をよく世話する孝行息子であった。ところがその父親も死亡し、葬式を出すのに貧乏で費用もないため、自分の身を奴隷として売り、無事に葬儀を終えた。そして、董永は借金を働いて返すために貸主の家に赴く途中、1人の婦人と出会って夫婦となる。婦人はわずか10日の間に百疋の絹を織り上げ、夫の借金をたちまち返済してしまう。借金を返し終えると、その婦人は董永に、自分が天の織女であること、また董永の深い孝養ぶりに感じた天帝の命によって下界に降り、董永の負債の返却を助けるよう言われたことを告げて、天に昇っていったという。

 

中国二十四孝 蔡順  (米俵があり、左側の人が牛の足を持っている)
飢饉があり食べ物が乏しかったので、蔡順は桑の実を拾いに行きました。熟したものとまだ熟していないものを
分けていたところ、盗賊たちがやって来ました。盗賊たちが「なぜ桑の実を分けているのか」と尋ねたところ、
「この熟したものは母に与え、まだ熟していないものは自分が食べようと思っているのです」と答えた。盗賊た
ちは彼の孝行を感じて、米と牛の足を与えて立ち去りました。

 

背面の玉垣

 

中国二十四孝 黄香
黄香は母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを自分の身体で暖めました。これを知った江夏郡の太守劉護は、幼い子供にできることではないと褒め称え、学問をさせ官吏に取り立てたという。

 

中国二十四孝として可能性のある話は「黄香」「仲由」「江革」の3つ。椅子などがあることから室内と考えられるため、「黄香」と推測。しかし、”黄香が団扇仰で扇ぐ”場面を彫刻していない。褒め称えた場面か?
参考として、二十四孝絵鈔の黄香

 

陸績 / 漢文帝

 

中国二十四孝 陸績
陸績は6歳の時に陸績は父に連れられて袁術という太守を尋ねました。袁術は陸績におやつとして蜜柑を与えました。陸績はその蜜柑を3つ懐に入れて、帰ろうとしたところ、袖から蜜柑がこぼれてしまった。袁術は「陸績君、蜜柑をひそかに懐にするのは卑しい振る舞いだぞ」と言うと、陸績は「家に持ち帰って母に食べさせたかったのです」と言い訳をした。袁術はこれを聞いて「幼いのに親孝行な子供である」と褒め称えたという。

 

中国二十四孝 漢文帝
漢文帝は、初代皇帝である高祖劉邦の皇子で、幼名を恒といい、母親に孝行でした。恒は自ら毒味をした上で母に食事を運んでいたといいます。兄弟も多くいましたが、彼ほど仁義に厚く孝行な皇子はなく、そのため臣下の者たちは彼を皇帝として推薦しました。皇帝となった彼は漢文帝を名のり、孝行の道を知る彼の治世は、豊かで民衆も住みやすい時代になったといいます。

 

中国二十四孝 閔子騫
閔子騫は幼い時に母を亡くし、父が再婚して異母弟2人を産みました。継母は実子2人を愛しましたが、継子の閔子騫を憎んで、冬でも閔子騫には蘆の穂を入れた薄い着物を与えました。閔子騫が寒さに凍えているのを見て、父が継母と離縁しようと言うと、閔子騫は「母上が去られては、3人の子供は凍えます。私1人が凍えていれば、弟2人は暖かいのでどうか離縁しないで下さい」と言った。継母はこの言葉に心を動かされ、以後は実母のように閔子騫を可愛がったという。

 

彫刻が多いため、残りは 千葉県・飯綱神社 その2/2 で掲載します。

 

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