埼玉県・長昌山 龍穏寺 その2/2 経蔵 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年4月23日 埼玉県入間郡越生町龍ケ谷の長昌山 龍穏寺に参拝しました。

 

彫刻が多いため、2つに分けて記載します。

  ・埼玉県・長昌山 龍穏寺 その1/2 山門

  ・埼玉県・長昌山 龍穏寺 その2/2 経蔵

 

龍穏寺の本堂。
龍穏寺は807年に修験者達の寺として創建され、信仰を集めました。

 

経蔵

天保12年(1841)、当寺第五十六世道海の代に750両をかけて建立された。木造三間方形造、屋根は銅瓦葺きで、漆喰壁には、上州山之神村(現群馬県太田市)の岸亦八による道元禅師入宋求法の彫刻がはめ込められている。内部には八角形の輪蔵(回転式書架)が設えられ、計120の抽斗に、「一切蔵経(鉄眼版大蔵経)」(町指定文化財)が収納されている。正面には、輪蔵の創始者傅大士と普建・普成の二子の像が、四隅には八天像が安置されている。格天井の草花と壁面の牡丹や天女を描いたのは、抱一の弟子、山田抱玉である。

 

中備:龍  唐破風下:梅妻鶴子

 

道元禅師入宋求法。 道元禅師が。悟りの道を求めて宋へ渡り、諸山を巡る場面。

 

道元禅師は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。悟りの道を求めて宋へ渡り、諸山を巡り、如浄禅師の下で修行。帰国後、1233年京都で興聖寺を開いて、誰にでもできる坐禅の行法を説かれました。1243年に越前に後に曹洞宗の大本山となる永平寺を建立し、仏弟子を育てる道場を開かれました。

 

弾虎の図
道元禅師に関する奇瑞説話の一。中国留学中の道元禅師が、径山に拝登するとき、虎が現れたので、手にした錫杖を投げつけたところ、それが龍と化して虎を追い払ったという。

龍に乗る道元禅師

 

その他に、鶴と亀の彫刻が2枚。鶴の彫刻が2枚ある。


 

観音像

 

太田道灌の像

太田道灌は、永享4年(1432)扇谷上杉家の家宰太田道真の嫡男として生まれた。当時の関東は、関東管領、古河公方、堀越公方などの地方政権が分立する混乱状況にあった。道灌は24歳で家督を嗣ぎ、長禄元年(1457)に築城した江戸城、河越(川越)城、岩付(岩槻)城を拠点に、各地を転戦して勝利し、関東の安定に尽くした。しかし、その戦功と高潔な人柄は、かえって主君上杉定正の不興を買い、文明18年(1486)7月、相州糟屋の定正邸で謀殺された。退隠後の居館、越生自得軒で悲報に触れた父道真は、6年後の明応元年(1492)81歳で病没、当寺に葬られた。なお、道灌の墓塔は、終焉の地、神奈川県伊勢原市の大慈寺と洞昌院、太田家の子孫が鎌倉に開基した英勝寺にもある。

 

太田道灌と その父、道真の墓。

 

コメント:太田道灌のお墓があるということで、以前から行ってみたいと思っていたお寺。経蔵の彫刻が大きく、迫力がありました。