2022年7月21日 埼玉県川越市砂新田の砂新田春日神社に参拝しました。
由緒
砂新田春日神社の創建年代等は不詳ながら、砂新田は天文年間(1532-1555)ころより開拓が進んだことから、戦国時代から江戸時代前期にかけての創祀ではないかと思われます。江戸期には、流行していた三社託宜の影響か、神明春日八幡合社と称され、村の鎮守として祀られていました。明治維新後、春日神社と改称、明治4年に吉田稲荷神社を合祀しています。
拝殿
覆屋
本殿 川越市の有形文化財。本殿の彫刻は嶋村俊表が彫刻したもの。
右面の胴羽目:玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。
左面の胴羽目:董奉 (2023.2.14修正)
その昔、中国は廬山というところに董奉という医師がいました。彼は人に尽くすために治療を行ってあえて治療代を受け取らず、その代わりに病気が治った人には、記念として杏の苗を植えてもらいました。そうして、いつしか10万余株の杏の木がうっそうと茂る大きな林ができあがったといわれています。また、董奉の傍らには常に虎がおり、害をなす者には襲いかかり、困っている者は助けたと云われています。
左面の胴羽目:王延
王延は九歳より曠眞人に仙道を学び、三洞の秘訣を授けられた。周の武帝は彼の名を聞いて召えさせたが、しばらくすると彼は暇を乞いて山へ帰っていった。王延は西岳にいた時、来客がある時には何処からともなく二羽の青鳥が飛んできて、客が訪ねて来ることを前もって彼に告げていた。また、彼の傍には常に虎や豹の猛獣が附ていて王延を守っていた。隋の文帝が位を皇太子に譲られた時、仙都の観に王延を付けた。仁寿四年の春、王延は門人に近日、西岳へ帰ろうと思っていると話していたが、ある日俄かに死んでしまった。皇帝は彼の死骸を棺に納めて西岳へ送りったが、西岳の藩宅へ到着した時、棺の中の死骸は何時の間にか消え失せていたという。
参考として、王延 (絵本直指宝 五巻より)
* 虎が傍にいる仙人は董奉、巨霊人だけと考えていたのですが、王延が見つかりました。虎の他に、花の咲いた木があると董奉、川が流れていると巨霊人、その他と王延とします。
背面の胴羽目は無し。
脇障子は無し。
コメント:胴羽目2枚しか彫刻はありませんが、良い彫刻だと思います。