2022年7月9日 山梨県都留市境の太宰府天神社に参拝しました。
由緒
創立の年代は不詳ですが、明応五年(1496)に奉遷しているという記述から、創立はそれ以前と考えられる。その後、何度か焼失などで失われ再建されてきました。現在の社殿は明治元年(1868)に再建されたものです。御祭神は菅原道真卿です。社殿の彫刻は小沢半兵衛とその養子の福田藤衛門によって造られました。
鳥居
拝殿
木鼻:獅子、獏
中備:高砂
九州阿蘇神社の神主友成は播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄ります。そこに老夫婦が現れ、松の木陰を掃き清めました。友成は老夫婦に、高砂の松と住吉の松とは場所が離れているのになぜ相生の松と呼ばれるのかと尋ねました。老人はたとえ山川万里を隔ていても夫婦の愛は通い合うもので、樹齢千年を保つ常緑の松なら尚更であると答えます。そして、住吉と高砂の明神が夫婦であることを語り、自分たちが相生の松の精だと告げると、住吉で待つと言い残し、小船に乗り沖へと姿を消して行きました。友成が摂津国の住吉へ行くと、住吉明神が月下に降臨し、世の平安を言祝ぐ舞を神々しく舞うのでした。
海老虹梁は無く、真っ直ぐの虹梁の上に彫刻がある。
中備(右面):不明
中備(左面):小野道風と蛙
小野道風は平安時代の三蹟の1人。道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛び跳ねている姿を見た。道風は「蛙が離れたところにある柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙のように努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。
拝殿の右面の脇障子:中国二十四孝 朱壽昌
朱壽昌が7歳の時に朱寿昌の父親と母親が別れました。そのため、朱寿昌は母のことを良く覚えていないと嘆いていました。そして会えないまま50年が過ぎました。ある時、役人となっていた朱寿昌は、安定した役人の仕事を辞め、妻子までも捨てて、自分の血でお経を書き、「母に会わせたまえ」と天へ祈りました。すると、秦に母がいると告げられ、遂に母に会えたという。
母にやっと会えた朱壽昌
拝殿の左面の脇障子:中国二十四孝 蔡順
飢饉があり食べ物が乏しかったので、蔡順は桑の実を拾いに行きました。熟したものとまだ熟していないものを分けていたところ、盗賊たちがやって来ました。盗賊たちが「なぜ桑の実を分けているのか」と尋ねたところ、「この熟したものは母に与え、まだ熟していないものは自分が食べようと思っているのです」と答えた。盗賊たちは彼の孝行を感じて、米と牛の足を与えて立ち去りました。
正面の欄間:(上段)鳥 (下段)虎
正面の欄間:龍
正面の欄間:(上段)鳥 (下段)虎
右面の欄間:(上段)鶴 (下段)鶏
右面の欄間:(上段)鶴 (下段)鶏
左面の欄間:(上段)鶴 (下段)鶏
左面の欄間:(上段)鶴 (下段)鶏
背面の欄間:(上段)鳥 (下段)ウサギ
背面の欄間:(上段)鳥 (下段)ウサギ