千葉県・府馬愛宕神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年6月27日 千葉県香取市府馬の府馬愛宕神社に参拝しました。

 

鳥居

 

歩きだと長い階段を登る必要がありますが、車だと拝殿近くの駐車場まで行けます。

拝殿

 

中備:龍

 

本殿と玉垣  玉垣に16枚の彫刻があります。その内、中国二十四孝の彫刻が13枚あります。

 

中国二十四孝 黄香
黄香は母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。これを知った江夏郡の太守劉護は、幼い子供にできることではないと褒め称え、学問をさせ官吏に取り立てたという。

 

中国二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

 

中国二十四孝 姜詩
姜詩は母親に孝行な人でした。母はいつも綺麗な川の水を飲み、また生魚を食べたいと言っていました。そのため、姜詩と妻は遠く離れた大河まで行って、水を汲み魚を取りに行っていました。ある日、姜詩の家のそばに綺麗な川の水が流れ出て、その水の中から鯉があらわれました。それ以後は、毎朝あらわれる鯉をとって母に与えるようになりました。この不思議なことは、夫婦の孝行を感心した天が与えたのだという。

 

中国二十四孝 楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったということです。

 

中国二十四孝 蔡順 
飢饉があり食べ物が乏しかったので、蔡順は桑の実を拾いに行きました。熟したものとまだ熟していないものを分けていたところ、盗賊たちがやって来ました。盗賊たちが「なぜ桑の実を分けているのか」と尋ねたところ、「この熟したものは母に与え、まだ熟していないものは自分が食べようと思っているのです」と答えた。盗賊たちは彼の孝行を感じて、米と牛の足を与えて立ち去りました。

 

中国二十四孝 張孝と張礼    (母に食事を与えた場面と考えます)
張孝と張礼は兄弟で80歳過ぎの母親を養っていました。張礼が木の実を拾いに行ったところ、盗賊に捕えられ食べられそうになった。張礼は「私には年老いた母がおり、今日はまだ食事をさせていません。母に食事をさせたらすぐに戻って来ます。」と約束して家に帰りました。そして、張礼は母親に食事をとらせて、約束通り盗賊のところに戻りました。しかし、不審に思った兄の張孝が後を着けており、盗賊に「私は張礼より太っている。私を食べて、弟を助けてくれ」と言う。また張礼は「私が食べられるのが最初の約束です」と言って死を争った。盗賊は兄弟の孝行に心を動かされ、二人の命をとらず、米と塩までも与え返しました。兄弟はそれらを持ち帰り、ますます孝行を尽くしたという。

 

背面側の玉垣

 

唐子遊び--花車 

 

中国二十四孝 王裒
王裒の母は雷を怖がる人でした。そのため、母が死んでしまった後にも、雷の鳴り響いた時には、 王裒は母の墓所へ行き、「自分はここにいます」と死んだ母を力づけた。このように両親が亡くなった後まで孝行をしたという。

 

司馬温公の甕割り
温公は司馬光といい、北宋の政治家。「資治通鑑」を書いた学者としても知られています。子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。

 

唐子遊び--獅子舞

 

左側の玉垣

 

中国二十四孝 朱壽昌
朱壽昌が7歳の時に朱寿昌の父親と母親が別れました。そのため、朱寿昌は母のことを良く覚えていないと嘆いていました。そして会えないまま50年が過ぎました。ある時、役人となっていた朱寿昌は、安定した役人の仕事を辞め、妻子までも捨てて、自分の血でお経を書き、「母に会わせたまえ」と天へ祈りました。すると、秦に母がいると告げられ、遂に母に会えたという。

 

中国二十四孝 郭巨
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。

 

中国二十四孝 董永
幼くして母親を失った董永は、残された父親をよく世話する孝行息子であった。やがてその父親も亡くなりましたが、父の葬式の費用がないため、自分の身を売ってお金を作り、葬儀をしました。その後、董永は借金を返すために貸主の家に赴く途中、1人の婦人と出会って夫婦となりました。婦人はわずか10日の間に百疋の絹を織り上げ、夫の借金をたちまち返済してしまいました。婦人は借金を返し終えると、自分が天の織女で、董永の深い孝養ぶりに感心した天帝の命によって下界に降り、董永の借金の返却を助けるよう言われたことを告げ、天に帰っていったという。

 

中国二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。

 

中国二十四孝 ゆ黔婁
ゆ黔婁は南朝斉の人で、孱陵の県令になっていました。しかし、着任して10日も経たないうちに胸騒ぎがして、県令を辞めて家に帰りました。父親は寝込んでおり、ゆ黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、苦ければ治り、甘ければ治らないと教えられました。ゆ黔婁は舐めてみると、甘かったので父の死を悟り、北斗七星に「我が命に替えて父親の病を治してください」と祈り続けました。願いは聞き入れられ、父親も自身も無事に過ごしたという。

 

中国二十四孝 田真・田慶・田廣
田真・田慶・田廣の三兄弟は、両親が亡くなった後、親の財産を三等分しました。庭先に紫荊樹という花も咲き乱れる一本の木がありました。三兄弟はこの木をも三等分しようと夜に話し合いました。翌朝に木を切ろうと庭に出てみると、昨日まで繁っていた木が枯れていました。急に枯れたのを見て、田眞は「草木にも心があって、三等分に切ろうというのを聞いて枯れたのだ。人として、この木の心をわきまえなければならない」と言って、結局切らずにおくと、木はまた元通りに見事に繁ったといいます。

 

本殿

 

右面の胴羽目:中国二十四孝 漢文帝  (食べ物を持ってきている人たちの内、左側の人は髪型から男性)
漢文帝は、初代皇帝である高祖劉邦の皇子で、幼名を恒といい、母親に孝行でした。恒は自ら毒味をした上で母に食事を運んでいたといいます。兄弟も多くいましたが、彼ほど仁義に厚く孝行な皇子はなく、そのため臣下の者たちは彼を皇帝として推薦しました。皇帝となった彼は漢文帝を名のり、孝行の道を知る彼の治世は、豊かで民衆も住みやすい時代になったといいます。

 

背面の胴羽目:中国二十四孝 剡子
剡子 には、年老いた両親がおり眼を患っていました。鹿の乳が眼の薬になると聞き、 剡子 は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入りましたが、そこへ猟師が本物の鹿と間違えて 剡子 はを射ようとしました。 剡子 は「私は本物の鹿ではありません。 剡子 と言う者で、親ために鹿の格好をしているのです。」と話しました。猟師は驚きながらも非常に感心し、 剡子 は難を免れました。 剡子 は鹿の乳を手に入れ、親孝行をする事が出来ました。

 

左面の胴羽目:中国二十四孝 陸績  (子供の足元にあるのが蜜柑だろう)
陸績は6歳の時に陸績は父に連れられて袁術という太守を尋ねました。袁術は陸績におやつとして蜜柑を与えました。陸績はその蜜柑を3つ懐に入れて、帰ろうとしたところ、袖から蜜柑がこぼれてしまった。袁術は「陸績君、蜜柑をひそかに懐にするのは卑しい振る舞いだぞ」と言うと、陸績は「家に持ち帰って母に食べさせたかったのです」と言い訳をした。袁術はこれを聞いて「幼いのに親孝行な子供である」と褒め称えたという。

 

右面の脇障子:中国二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

 

左面の脇障子:中国二十四孝 楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったということです。

 

コメント:本殿の胴羽目などの彫刻はあまり良くありませんが、玉垣の彫刻は素晴らしい出来でした。

 

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