生きているかぎり。 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

生きているかぎり。

ごきげんさまです。

断捨離のやましたひでこです。

 

 

 

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久々の金沢駅、空を見上げる。
 

 

 

 

 

 

 

それは、悩みなんてものではなく、

それは、不幸なんてものではなく、

それは、悲劇なんてものでもなく、

 

目の前で、家族の、そう、夫や妻、子ども、父母の命が奪われていくなんて。

 

地獄…

 

 

 

だからね、こんな人々の、

辛苦と困難の7年の軌跡を報道映像で見るにつけ、

 

部屋が散らかる悩みなんて、

住まいが片づかない問題なんて、

 

本当に、いかようにでもして、どうのようにしてでも、自分で解決できること。

 

 

それでも、私たちは、日常のそれに塗れて、命を萎えさせてしまうもの。

 

 

3・11メモリアル。

 

今日は、そんなこと思いおこさせる日。

 

 

今朝のブログに続いて、

震災の6日後、私自身が綴った記事を読んでみる。

 

 

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 誰も責めることなく

 

 

『神とは、高度な自然のメカニズムの実体のことである』 野澤重雄

この植物学者・野澤の言葉を借りるならば、
神とは、高度な自然のメカニズムとは、時として、容赦なく人間に襲い来る。


私たちの小さな幸せなど、家族のささやかな団欒など、斟酌することはない。

生死とは、人知をこえた世界。

人知で、いくら生死を推し量ろうとしても、
人知では、生死の理不尽さを、無念な思いとともに浮かびあがらせるだけ。

津波が、一瞬にして、愛する夫や妻、大切な我が子を奪い去ったかと思うと、
幾日も瓦礫の下にあって、奇跡的に繋がる年老いた命もある。

人知で、いくら生死を推し量ろうとしても、
人知では、生死の摩訶不思議を解釈することはできないだろう。

救出された命が、避難所でこと切れることもある。
健康な命が、決死の覚悟で、危険へと向かうこともある。

生死は、誰のせいでもなく。
生死は、誰も責められるものでもなく。

それでも、私たちは、自分を責めるだろう。
それでも、私たちは、誰かを責めたくなるだろう。
どうして、あの時、助けてあげられなかったのだろうかと。


どうして、あの時、止めなかったのだろうかと。

けれど、私たちには、この「高度なメカニズムの実体」にあらがう術などない。


自分も、人も、責めることなど、無用なこと。

自分は、それを、どれだけ意識して、覚悟して、受け止めて、生きているだろう。


あらてめて、自分に問いかけてみれば、なんとも心許ないけれど。

と同時に、この「高度なメカニズムの実体」にこそ、生かされてる今の自分を思う。


私たちは、生きているかぎり、生きていかなくてはならないのだ。

だとしたら、可能なかぎりの人知を、繰り出そう。
だとしたら、可能なかぎりの人知で、この困難を切り抜けて行こう。

そうですよね、ダンシャリアンとは、覚悟と勇気のある楽天家なのだから。

 

〈2011/03/17〉