言葉を覚えるのは、早い方だったと思う。
読んだり書いたりで苦労した覚えがない。
特に教えられた記憶もないのだが、保育園時代にはすでに黙読を始めていて、ちゃんと意味も分かっていたので先生たちが驚いていた、という話も聞いた事がある。
物語の筋は分かる。登場人物の感情も分かる。ちゃんと手がかりが何処そこに書いてある。流れを読んでさえいれば、主人公以外の人物が何故そんなことをしたのかも読み取れる。
でも、現実はそうは行かない。
分からないことだらけ。
混乱して立ち尽くしていると、子どものこと、容赦ない攻撃がすぐに来る。
外から見ると、無表情に立っているだけなので、何を考えているかまるで分からない、気味の悪い子ども、だったのかもしれない。

今だから分かること。
実際のところ、自分の感情というものの在り処が自分でもまるで分からなかった。
大学で、発達心理学の講義を受け、すとんと納得のいくことがあった。
生まれたての子どものころは快・不快のみだった感情が、少しずつ分化して、嬉しい、悲しい、怒り、喜びなどの感情を獲得していくという。
私の感情の動きは、ずいぶんと長い間、快・不快の段階にいたようだ。
だから、
「どう思う?」
と聞かれるのが一番苦手だった。自分が何を考え、どう感じているのか、まるで分からない!
言葉は早くから知り、意味も分かっていたが、実感したことがなかったので、自分が感じてもいないことは、形だけでも作文に書くこともできない。
本を読むのは好きだったし、それなりにのめりこんで読んでいたのだが、その感想を書けといわれても、途方にくれてしまう。ただ単に物語りに同化しているだけで、私の感情なんて何処にもないのだから。
読書感想文を描いているときの私はいつもそんな風だった。
隣の子の作文を横から覗きこんでみると、
「感動しました」
と書いてある。

感動!
言葉は知っているが、感動するということがどういうことなのか、知らない。だからそんな言葉は使えない。「美しい」という言葉は知っている。でも、花を見て美しいと「感じる」ことが当たり前だとは分からない。
もしかしたら他の子どもたちは、大人たちが「花は美しい」というのを聞いて、鸚鵡返しに「花は美しい」といっていたのかもしれない。そうしてそういうものだ、と納得していたのか。
でも、私にはそんな簡単なことすらできなかった。
「美しい」と感じることがどういうことか分からないのだから、
「きれいだねえ」
と話しかけられても、うんといえない。どう返していいのか分からないので、黙っている。
やっぱり言葉の面でも、変わっている子、と言われるしかなかった。