Weblogなんて、とっても恥ずかしいけど -4ページ目

コマの回るがごとく

全編英語率90%くらいの会議に参加しました。

・・・・・・・・・。
マヂデスカ?!というくらい、英語が出てきませんでした!
話されている内容は、大筋理解できるんだけど、クチから一切の
英単語が出てきません。ええ、「Yes」だの「Yep」の一言さえも!

なんということでしょう。
あれだけペラっとしゃべることができていた日々は、一体何だった
というのでしょう。

筋肉も、建物も、血液も、大よそ存在する何もかもが、循環させて
いないことには、錆付き、廃れていくことを、改めて知らされた日でした。

私のたった数十年ぽっちの経験からの結論からすると、
人生というか、生きていく、ということは、「バランスが取れていること」
ということになっています。但し、静止している状態としてのバランス、
ではなく、止むことなく動く様が、遠目から見ると、大よそバランスが
取れているように見える、というようなものです。(ちょっと説明不足)

と、書きながら、小学校の校長先生が「コマの回るがごとく」と表現
していたことを思い出しました。とは言っても、その時は「人生について」
などというテーマではなかったように思うのですが。毎週だったのか、
全校生徒が講堂に集められ、会のはじまりの前に、5分だったか何分
だったか、必ず黙祷する決まりになっていました。「取りあえず」で目を
つぶるだけの私でしたが、校長先生は、こんな風に説明していました。

「ただ目をつぶってじっとしていればいい、というものではない。
 それは、コマの回るがごとくでなければならない。
 禅僧を見よ。彼らは、激しい内証や内省の感情を前にしながら
 ”無”にならんとしているのだ。
 彼らは完全にまぶたを閉じているのではない。
 光が入るか入らないかの寸での状態で目を閉じているのだ」

とかなんとかというような内容でした。つまり、コマは回っている時、
静止しているように見えるけれども、実際は、激しく回転することで
静止しているように見える。完全に止まったコマは、ただ、そこに
横たわって停止しているだけなんだ、とかなんとか。

もう数十年も前の話なんで、細かいことは覚えてませんが、それを
今更になって思い出すなんて、その時は気づかなかったけれど、
良い先生だったのかもしれません。

陸軍のエライ人だったか何かで、とても厳しい校長先生でした。
私も先生を見習って、もう少し自分に厳しくいかないとダメです。

3ヶ月が経過しました

ようやく、正社員雇用の日を迎えました!

とは言え、その日を迎えるまでに、自分の上長などの監督者との
やり取りや、周囲とのコミュニケーションで、大よそ、どのような結論に
なるのかを予測することはできるのですが。

ともあれ、よかったです。
とは言え、ようやく第一のスタートラインに立ったわけで、これからは、
”クビにならないよう”に、きちんと成果を出していけるようにしなければ
なりません。

そう、いつでも私の背後からは、
「クビになるぞー」
「収入が途絶えるぞー」
「収入が下降するぞー」
「老後はどうするのー」
「ちゃんと養えるのかー」
などなどのプレッシャーが追いかけてきます。

心配しすぎかもしれませんが、こうしたプレッシャーに追われる感覚は、
あまり深刻にならない限り、それほど悪いものでもありません。

やはり、これまでとは環境が違います。
と、いうことは、やり方もいろいろと組み換えをしなければならない、
ということ。まだまだ慣れないことも多く、よく理解できないことも多く、
あまり好きになれなそうなことも中にはあったりしますが、反面、
メリットも感じられ、試行錯誤は続きそうですが、一旦逓減しかけていた
モチベーションが、ゆっくりと(もちろん上下する平均値をとって、という
ところですが)逓増していきそうな感覚があります。

まずは、やれることをちゃんとやるだけです。

「僕は、○○を通じて、人をハッピーにしたいんです」

前職の会社の仕事関連で、特にこの数年間、とってもとっても
お世話になった方に、転職のご挨拶へ。

まだ試用期間は終了していないけど、そこそこの時間が経過して、
「○○へ転職しました」と言ってもおかしくない時期になってきただろう、
という判断と、「今は、△△という仕事をしています」と、未だによく
わからないデカイ組織の中での自分の仕事の位置づけを、さらっとは
説明できるようになってきた、という判断と、そして、新しい会社でも、
何らかの接点は成立するだろうか、というほんのちょっとの下心と。

数ヶ月ぶりにお会いしたその方は、話していても、時々眠り込んでしまう
んじゃないかとこちらが思うほど、疲れている様子が手にとるように
わかって。この数年間、それこそ二人三脚じゃあないけど、同じ会社の
社員同士か?というくらいにやりとりをして、退職時に会社から支給されて
いた携帯電話の履歴を消そうとしたとき、その方からの着信だか、その方
への発信だかが、500という数を超えていて、その数は、もちろんダントツの
一位で、自分の家族や親族、プライベートでやりとりをする相手との通話
回数を、遥かに凌駕していて。

そういう間柄で、その方が日々、仕事の時間をどのように消化している
のか、全部は知らないけど、なんとなくは知っている状況で。具体的な
割合は分からずとも、その方の、少なからずの時間を占めている仕事の
領域が広がっていくきっかけに、自分も少なからず関わっていて。

自分も関わったその仕事でなくとも、その方の、何でもちゃんとやろうと
する生真面目なその性質上、どんな仕事であっても、結局は仕事を
抱え込んでしまって、いつも疲労困憊になっていたのかもしれないけど。

よく、インタビュー記事なんかで、
「僕は、○○を通じて、人をハッピーにしたいんです」
っていうのがあるけど、なんか、胡散臭いとも思ってしまう。

お前は、それを通じて、人がハッピーになったかどうか、ちゃんと
確認しにいったか?むしろ、そのことを通じて、その人が大変になって
たら、お前はどう落とし前つけんだよ!

・・・なんて、そんなことばっかり言ってたら、一歩も前に進めなくなるし、
そういう前向きな働きかけ自体がまるでないのは大問題だし、全部の
人が、同じタイミングで同じようにハッピーになることなんて、そもそも
ヒトの価値観だとか環境だとか、何やかやが違うワケで、ゼロかイチか、
という話しでもないし。というのは、頭ではわかっている筈なんだけど、
目の前にある現実は、理屈なんかより遥かに強いインパクトがある。

10代のはじめ頃あたりからか、ずーっと気になっていること。
「ヒトの価値観は、果たしてひとつになるのか」
「ひとつの価値観が成立するとして、それは果たしてハッピーなのか」
「そもそもヒトは、ハッピーを目指しているのだろうか」

・・・まずは、自分自身がその迷路にはまって出れなくなることがないよう、
気持ちを切り替えなくてはなりません。