17年 | 東日本大震災福幸支援チーム“だんね~座”のブログ

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だんね~座には、20代~40代の比較的若い30名ほどのメンバーがいます。福井から被災地に福と幸を届けようと、また福井でも出来ることを探しながら、楽しみながら活動しています▽^・^▽





阪神淡路大震災から、今日でもう17年が過ぎた。



当時、京都の大学に通っていた僕は、

住んでいたアパートのベッドの中で大きな揺れを感じた。

夜更かしばかりし朝早い時間に起きることなんてほとんどなかった僕でさえ、

その揺れの大きさには驚かされ、一瞬で目が覚めたものだ。



しばらくして揺れが収まった。

家具の位置が多少ずれたりはしたものの、被害は全く受けなかった。

僕は安心し、再び眠りについた。



数時間後、二度寝から目を覚ました僕は、いつもの習慣でまずテレビをつけた。

映し出される映像からようやく、神戸が信じられないことになっていることに気が付いた。

どのチャンネルを回しても、映し出されるのは神戸の惨状ばかりだった。
(阪神大震災の時も、テレビコマーシャルはACばかりでした。)



大学はちょうどテスト期間中で、学内の掲示板には、

神戸在住の学生に対する試験の延期の措置を伝える案内が貼られていた。


大学の試験は2週間。

その間、僕の頭の中は試験のことでいっぱいだったが、

周りの状況は少しずつ変わっていった。


まず目についたのが、街頭で募金募金活動をする人たちの姿だった。

僕が住むアパート近くの駅でも、高校生が募金活動をするようになった。

高校生の募金活動は連日続き、

いつしか僕は、募金をしたくなった。

被災地神戸のためにという思いもあったが、

募金をしている高校生のために、という思いもあったのだ。



僕は何度か素通りを繰り返した。

数日たったある日、募金をしたいという気持ちが恥ずかしいという思いを上回り、

僕は生まれて初めて硬貨ではなくお札を募金箱の中に入れた。

たった¥1,000-ではあるが、当時の僕にとってはそれだけでも結構勇気が要ることだった。

¥1,000-という金額がもったいなかったわけではない。

募金箱にお札を入れるというその行為自体が、なんだか恥ずかしく思えていたのだ。



震災から日が経つにつれ、

神戸で不足しているものが徐々に分かるようになってきた。

その中の1つが水だった。

神戸で早々に営業を再開したお店でも、水はなかなか手に入らないようだった。

京都のスーパーや量販店でも、水を大量に買う人の姿をよく見かけるようになった。

おそらく、神戸にいる家族や知人に届けるためにだと思う。


2週間のテスト期間が終わると、もう2月になっていた。

僕は大学の頃演劇をやっており、所属していたサークルでは、

活動の一環として子ども相手に劇を見せるというボランティアもやっていた。

ちょうどその頃、浄土宗のとあるお坊さんが、

神戸の小学校で子ども対象のボランティアをしよう!

という計画を進めていることを新聞で知り、

僕達もその活動に参加することにした。



ボランティア初日、僕は15名ほどの仲間とともに、

京都駅からJRの快速に乗り、神戸に向かった。



30分ほどすると、電車は大阪に入った。

しかし、窓からの景色からは震災の影響は全く感じられなかった。

崩れている建物なんて全くなかった。

いつもの日常が広がっているだけだった。

しかし、

電車が大阪駅を過ぎ、川を越え、兵庫県に入ったとたん、

あたりの状況は一変した。



これは、今回の東日本大震災も同じだ。

ほんのちょっとの距離の違いで一変する状況には、

驚きを隠すことは出来ない。



当時、電車では神戸まで行くことは出来ず、

その3つか4つくらい手前にある住吉駅までしか通じていなかった。

僕らがボランティアに向かったのは、

その住吉駅から歩いて10分くらいにある、住吉第三小学校だった。



駅から小学校に向かうのも大変だった。

今にも崩れそうな古いビルの下を歩かねばならなかったからだ。

崩れそうなビルに怯え、上を気にし、頭を守りながら歩くのだが、

足元にも窓ガラスの破片が散らばっており、

雨が降ったわけでもないのにあちこちに水溜りが出来ている。


僕達は住吉第三小学校に向かう途中、

昼食を買うためコンビニに立ち寄った。

これは今回の震災でも同じだが、営業を最も早く再開するのはコンビニである。

コンビニの生命力の強さには本当に驚かされる。

しかし、品揃えは偏りがある。

アダルト雑誌や漫画は比較的新しいものが置かれているのだが、

水・お茶・おにぎりといったものはほとんどない。

飲み物や食べ物がまったくないわけではない。

比較的味が濃い、例えばおしるこだとかココアなどがキムチラーメンとか。

そういったものは売れ残っているのだ。



昼食を買い終えた僕らは、間もなく住吉小学校に着いた。

しかし、すぐには中には入れなかった。

想像を絶する光景が広がっていたからだ。

日常から来た僕らが、非日常の光景が広がっている場に簡単に入れるほど、

図太い神経はその時は持ち合わせてはいなかった。



「僕らなんかが入っていいんかな?」

そう感じたのは僕だけではなかった。

一緒に行った友達も、皆入るのをためらった。

とりあえず入るのはやめ、しばらく周囲を見て回ることに・・・。

30分ほどだろうか、周囲の様子を見て回ったが、

そんなことをしていても意味のない時間が過ぎるだけだ。

そういう現実とようやく向き合うことが出来、

僕らは意を決して小学校の中に入ることにした。



今とは違い、当時はボラセンなどなかった。

避難所となっている学校の入口に、ちょっとした受付があるのだが、

そこには、避難した人を探しに来る人や、支援物資を持ってきた人、

さらには取材入りのメディアなど、

ありとあらゆる大勢の人で混乱を極めていた。


僕らは震災にあった子ども達の“心のケア”の一環として、

劇を披露するのが目的だったが、

そんな場所は与えられるはずもなかった。

グラウンド中央には自衛隊が建てたお風呂のための大きなテントが張り出されており、

そのほかは駐車場、仮設のトイレ、そして炊き出しの場になっている。

校舎内は、被災された人の生活の場となっている。


そんな状況をその時初めて知った僕等は、活動内容の変更を余儀なくされ、

とにかく子ども達と触れ合おうとした。

校舎やグラウンドにいる子ども達に声を書けると、

暇を持て余した子ども達が集まってきた。

その子達とグラウンドの隅でゲームをしたり、本の読み聞かせをしたり、

くだらないおしゃべりをしたり・・・・。



次の週から、僕達は毎週末神戸に向かった。

僕が所属していたサークルは100人ほどの部員がおり、

ボランティアに参加するメンバーは毎週30人を超えた。

多くのメンバーが参加してくれたので、

翌週からは2班に分かれて、別の小学校にも出向くことになった。

どの小学校に出向くかは自分達で探した。



心のケアなんて大それたことを目的としていたけど、

まぁ、実際に出来たことといえば、子守程度だったと思う。



そんな子守程度の活動すら、続けられたのは2月と3月の2ヶ月間だけで、

授業が始まる4月からは、神戸に足を運ぶことはピタッとなくなった。





阪神大震災の頃は、“偽善”という言葉をよく耳にした。

今はこの言葉よりも、“自己満足”という言葉を耳にすることが多い。

まぁ、こうした言葉が使われなくなるよりは、

使われている状況が続くことの方が望ましいのかもしれないという

広い心を今は持ち合わせてはいるが、

そうした言葉が発せられるのは、決まって外野からだと思う自分もいる。



その後、何度か神戸に行った。

自分が足を運んだ場所がどうなったか確認したくて。

しかし、それも次第になくなり、

旅行で神戸を訪れても、そこで震災がおきたことを思い出さなくなることさえある。



阪神淡路大震災が起きた際、僕は確かにボランティアとして活動した。

その事を未だに話すこともある。

そして今、東日本大震災のボランティア活動(みたいなこと)をしているつもりになっている。

20代のころと比べれば自分を強く見せようなんて気持ちは随分と無くなりはしたが、

それでも、何年か後にはこの事を誰かに話すのだろう。



今、僕がこんな活動をしているのは、

被災された方がこれ読み、もしかすると気分を害される方がいらっしゃるかもしれないが、

“被災地のために!”という思いばかりではない。

“仲間とともに活動するのが楽しいから”であるとか、

“新たな事に挑戦したいから”といった思いにも助けられている。

もちろん、ある程度の社会的な責任感も持ち合わせてはいるので、

偽善と言われようが、自己満足と言われようが、

その行為が復興の足しにはなっているはずだという自負もある。

でも、心の何処かに常に、

あの頃の、そしてその後の情けない自分を消し去りたいという思いもあったりもする。