イエス様との対話 -2ページ目

「霊の安らぎの場を見出すには」

おはようございます。
今朝は、「霊の安らぎの場を見出すには」という短いメッセージの抜粋を送ります。

***
なかなか甘美な休息に入れず、思いを落ち着かせるのに苦労していて、何をしてもうまくいかないなら、
そういう時は、がむしゃらに舟をこぐのをやめて、帆を張って主に押していただくべきだ。

イエスは今以上に、あなたに安らいでほしい。
だから、懸命に努力しているのに願っている成果が見えないなら、
もしかしたら、すべてをやめて、主に代わっていただかなければならないのかもしれない。
そうすれば、主は必要だとご存じの成果を与えることができるから。

この安らぎの場は、肉体的な行動よりも、むしろ心と霊に関係している。
だから、何よりも心と霊にフォーカスしなさい。
主に心を留め、主の言葉と御霊の上にしっかり足をつけ、いったん霊と心が主に集中したなら、あとはおのずとついて来る。
そうすれば、瞑想や主との静かなひとときを過ごすためにあなたが肉の内でするどんな働きや行動も祝福される。
あなたはイエスを第一に置いたからだ。

「静まることを学びなさい」というのも、そもそも自分の霊を鎮めることを学ぶことによって霊的に適用すべきものだ。
まず、穏やかな霊に入ること、すべてが穏やかで主に信頼している、安らぎに満ちた 場に入ることを学ばなければならない。
霊の動きを止め、主ご自身と、主の霊の真理、美にフォーカスしなさい。
それから、主の静けさ、知恵、愛に耳を傾けなさい。

あなたの霊の静止させ、落ち着かせると、肉体的な行動や態度にも影響する。
霊が行動を支配するようになるのだ。精神状態もはるかに落ち着く。
霊が安らいでいると、心拍でさえ安定する。
これは、あなたがするすべてに良い影響を与え、より良い成果をもたらす。

・・By デービッド・B・バーグ
***

アーメン。
主が、安らぎと平安とによって、一日を守ってくださいますように。


詩篇4:6「み顔の光を照されるように」:イエス様による解説

詩篇 4篇 6節
多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」と。

愛するイエス様
おはようございます。
この詩篇の解説をお願いします。
アーメン

<<イエス様の解説>>
多くの人は確かにそう祈る。
「どうか、わたしたちによいことが見られるように。」
「わたしたちに、よいことがあるように・・」と。
しかしその先を祈る人は少ない。
「主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」

わたしの目は、全地にあまねく、すべてを見ている。
しかし自らの意思で、わたしの顔を向けてほしいと望み、
自分の道をわたしにさらけ出すことと
ただ単に、自分の道がわたしに隠されてはいないということを知ることとは、
違いがある。

「あなたの顔をわたしに向け、わが道を照らしてください。」
それは積極的な公開の宣言だ。
あなたの心の思いと道を、わたしの前に積極的に開け広げることだ。
それは部屋においてある植物を、日の当たる場所に置くことのようだ。
植物は、日の光を存分に浴び、その元気を取り戻す。

「良いことが見られるように」となるためには、
人は、自らの自由意志によって、わたしの光の前に出なくてはならない。
「あなたの顔をわたしに向け、わが道を照らしてください。」と祈らなければならない。

「自分は動きたくない」というわけにはいかない。
日当たりの良くない場所におかれた観葉植物に、
蛍光灯で光を当てるなら、もちろん、何も光がないよりは良い。
また、反射光であっても、昼間に部屋の片隅に届くわずかな光で、
その植物はなんとかかろうじて生きることもできることはできる。
しかしそれは、その植物にとっては、
「良いことが見られるように」というレベルではない。
そのためには、自分の置かれた場所から動かされることにゆだねなければならない。
わずかな光しか届かない部屋の片隅から、窓際の日当たりの良い場所に移されることを、
自ら呼びもとめなければならない。
「あなたの光を、わたしの上に輝かせてください。」と、求めることが必要だ。

だからこう祈りなさい。

主よ。
わたしの影にあなたの光を輝かせてください。
もし必要であるのなら、今のわたしの置かれている状況を変えてください。
わたしがその変化に抵抗しないように助けてください。
あなたが最善を知っておられることに信頼する信仰をわたしにお与えください。
あなたのみ顔の光が、わたしの心の隅にも届きますように。
あなたの顔の光が、わたしの上に照されるようにしてください。
そのときわたしは知ります。
あなたはわたしの道をまっすぐにし、
わたしの道に良いもの、良いことを置かれることを。
その故に、わたしのたましいはあなたを褒め称えます。

****
イエス様の名前で、この祈りを祈ります。
アーメン。


豊かな収穫の約束・・Weddingメッセージ

おはようございます。

10月2日にいただいたイエス様からのWeddingメッセージです。
独身の方は、「結婚」の部分を、たとえば友人との関係とか、家族との関係、
あるいは、仕事上のことなど、ご自分に当てはまる状況に置き換えてお読みください。

***イエス様からのメッセージ***

おめでとう愛するものたちよ。
「収穫の秋」の、この結婚式は象徴的だ。
あなたたちの結婚は、多くのすばらしい収穫を刈り取るようになるだろう。

しかし「収穫」は、突然、得られるのではないことも覚えていなさい。
畑を耕し、肥料を入れ、種や苗を植える。そして雑草を抜き、害虫を駆除する。
収穫にいたるまでは、長い時と多くの労働が注ぎ込まれる。

結婚もそれと似ている。
とても多くの時間と関心、労力や犠牲を注ぎ込む必要がある。
しかしその価値はある。その価値は計り知れない。
そのために費やすすべてのものを、遥かに勝って余りある。

だからこの大いなる収穫を一瞬たりとも疑ってはいけない。
来る日も来る日も、結婚生活の成長を見守りなさい。
作物の成長のように、あなたたちも毎日、より強くより大きく成長していく。

もちろん雑草を取り、害虫を駆除しなければならないときもある。
剪定、しかもかなり大胆な剪定が、必要な作物もある。
それらは豊かな収穫のために、必要不可欠な作業だ。

完璧な結婚はただ単にありえない。 どの夫婦にも問題がある。
結婚関係が、成長どころか後退しているように見えるときさえあるかもしれない。
そんなときでも、決してあきらめてはいけない。 二人の成長を疑ってはいけない。
それは草取りや剪定をしているときであり、
そのことによって、より豊かに実を結ぶようになるのだから。

だから問題があったとしても、喜びなさい。
それを通して、あなたたちはより強められるからである。
だから喜びなさい。
そして夫婦としての成長を見守る毎日を、楽しみなさい。

見よ。 大いなる豊かな収穫が、あなたたちのために約束されている。


ず~ず~しい祈り(ヘブル4:15,16)

おはようございます。

よくメールなどで、祈りのリクエストをいただくことがあります。
「わたしは、こんなに弱いし、悪いし・・・
 そんなわたしが祈るなんてず~ず~しいのでは・・・」
と感じることってありますか?

主の御言葉にはこうあります。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。
罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、
はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 (ヘブル人への手紙 4章15、16節)

主は、わたしたちの弱さを理解してくださいます。
だから弱いままでいいのです。
はばかることなく主の恵みの御座に近づく・・
だから、ず~~ず~~しくっていいのです。
ただ、そんなにも弱く、悪い、わたしたちをあわれみ、愛してくださる主の恵みを
心から感謝することだけでいいのです。

だから悩みや問題で押しつぶされそうなとき・・
というか、そんなところまでいく前に、ちょっとした小さな問題のうちに・・
主の恵みの内に、ず~~ず~~しく、祈りによって、心を主に注ぎだしましょうよ。

主の御座に近づくとき、主は、満面の笑顔で迎えてくださいます。

ハレルヤ!

詩篇4:5 イエス様による解説

おはようございます。

詩篇4:5
義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。

この聖句からいつも連想するのが以下の聖句です。

ヘブル13:15
わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、
すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。

それらを思いつつ詩篇4:5の解説をイエス様にお尋ねしました。

**イエス様の解説**

賛美することは、正しいことだ。
義のいけにえ=賛美のいけにえ。
つまり、義とは賛美することだ。

あなたに弱さがあってもいい。
間違いだらけでもいい。
もちろん罪をあるだろう。
しかし、それらにも関わらず、わたしのあなたへの愛のゆえに、
わが名をたたえるくちびるの実を捧げるとき、
あなたは「義」とされる。

あなたの周りには問題ばかりみるだろうか?
どうしてこの世の中は、こんなに間違いばかりなのか?
こんなに悲しい事件や理不尽な出来事がどうしていつもあるのか?
「正義」や「公正」はどこにあるのか?
そんな疑問を持っていたとしても、
たとい何がなんなのかわからなくても、
あなたが賛美をするとき、あなたは正しいことをしている。

この世界が良くなることを望むのか?
賛美をしなさい。
問題の解決がみたいのだろうか?
わが名を褒め称えなさい。
自分の弱さを克服したいだろうか?
賛美のいけにえを捧げなさい。
平安と幸福を欲しいだろうか?
わが名をたたえるくちびるの実を、捧げなさい。

たといこの世のすべてがおかしくなったとしても、
もし、あなたが賛美をしているのなら、あなたは正しいことをしている。
たとい、他のすべての人があなたをおかしいと思ったとしても、
いったい何があろうと、わが名を褒め称えるあなたは、わたしにあって義とされている。

もちろん、「義の故に迫害される」こともあるかもしれない。
「こんな状況、こんな状態の中で、
 ただ主をほめよ! なんてほざいても何の役にも立たない!」
そんな非難をされるかもしれない。

喜び、喜べ! 天におけるあなたの報いは大きい。
ノアも、モーゼも、アブラハムも・・・
ダビデも、ヨシャパテも、
バプテスマのヨハネも、ペテロもパウロも・・・
その後のすべての時代のわたしの民は、同じように嘲笑された。

「神を信じても、何の役に立たない。
 神の言葉を証しするあなたたちは愚か者だ。
 ただ、ハレルヤ! で、なんの解決になる!!」

この世にある者たちはそういい続けている。

しかし目を上げて、わが顔を求めなさい。
わが愛にあって、あなたの喜びの声をあげなさい。
わたしの救いの故に、賛美を声をあげなさい。
たといこの世は、それをさげすみ、嘲笑しようと、
あなたが賛美のくちびるを備えているとき、
あなたは正しいことをしている。

だから、賛美の声をあげなさい。
それこそ義のいけにえだからだ。

***

ハレルヤ! 
・・・・
ちょっといろいろなことでめげていました。
すこし元気をもらいました。
イエス様、感謝します。

尖閣諸島問題に関連して・・イエス様からのメッセージ

愛するイエス様

あまり政治的なことには入り込みたくはありませんが、
最近の中国の態度は目にあまります。
主よ、このことについて何かメッセージはありますか?

***イエス様からのメッセージ***

人間の歴史における、わが法則は今も昔も変わらない。

人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。(箴言18:12)
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。(マタイ5:5)

それは個人としてでも、あるいは、団体、社会、国家にも同じように当てはまる。
高ぶるものの高ぶりを恐れてはならない。
それによって思い乱れてはいけない。

わたしが聖書で命じたように、指導者たちのために祈りなさい。
彼らが知恵と謙遜さと柔和さとを備え、
また、同時に確信と良い意味での誇りをもってこのことに当たることができるように
祈りなさい。

また中国の指導者たちのためにも祈りなさい。
彼らにも知恵と謙遜さが与えられるように祈りなさい。
目先の利益を得ようとすることで、より重要な平和や国家間の協調を見失わないように、
彼らのために祈りなさい。

また人々のためにも祈りなさい。
国家間のいざこざによって、個人的なレベルまで影響されないように、
日本、中国、両方の人々のために祈りなさい。

一般の人々とは、少数の影響あるものたちによって簡単に操作される。
わたしがエルサレムに入城したときに、「ホザナ」と叫んだその同じ群集が、
その一週間後には、わたしに向かってつばきを吐き、「彼を十字架に架けよ」と叫んだ。
群集、人々というものは、そのようにすぐに操られてしまう。
しかしだからといって、個人的なレベルでのいさかいに発展しないように心から祈りなさい。

そしてたとい何人かの群集が、あるいは多くの群集が、
政府や国家の操作によって、互いに憎しみあうような最悪の状態が発生したとしても、
わが名を知る民よ、わたしと共に祈ってほしい。
「父よ、お許しください。 彼らは自分が何をしているのか知らないからです」と。

そしてわが名を知る民よ。
わが顔も求め、常に、信頼していなさい。
この世とその中にいる肉なる者が何をしようと、
わが計画は成就する。
たとい一時的には、最悪の状態と思えるようなことが起ころうとも、
それさえも、ゲッセマネの時、あるいは、十字架の時のようなものだ。
この世の貪欲な者たちが何をしようと、わたしの計画をとめることはできない。
わが永遠への計画は、大いなる復活へとつながるからだ。

だからわが民よ。 恐れてはならない。 また思い乱れてもいけない。
これはまだ終わりではない。 ほんの始まりにすぎない。
残念だか、真実を告げなければならない。
物事はさらに悪くなっていくだろう。
それは、この世とその中に住む者たちが、
真理に対する愛を捨て去ってしまったからだ。
真理を捨ててしまったら、何が残るか知っているだろうか?
そう、偽りしか残らない。 (第二テサロニケ2:10-12)

わざわいなるかな。
自分が危害を加えられていないのに、他に危害を加えようとするものは。
わざわいなるかな。
平和の道を見失う国々は。
わざわいなるかな。
貪欲によってその心を肥やすものたちは。
見よ。 あなたたちが、わが怒りの杯を受けるときが来る。
その日、その時が、いつ来るのか、あなたたちは知らない。
しかし、人は自分が撒いたものを刈り取るようになる。
それは国々についても同じだ。

しかし貧しいもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、
憐れみ深いもの、平和を作り出すものたちよ。
あなたたちに幸いあれ。

たといこの世の国々がその貪欲と悪の故に、わが怒りの杯を受けるようになったとしても、
あなたたちの上には、義の太陽が昇り、その翼には癒しの力が備わっているだろう。

あなたたちはその貧しさは、あなたたちの保護となるだろう。
悲しむものは、慰められ
柔和なものたちが、結局は、地を受け継ぐようになるからである。
あわれみ深い人たちは、自分もあわれみを受け、
心の清い人たちは、わたしの父の顔を見るであろう。

だからわが民よ。
平和のために祈りなさい。 
平和のために、貧しい者たちのために、悲しむ者たちのために祈りなさい。
それによって、その祈りのゆえに
人々は、この世の中に、わが民、わが子ども達がいることを知るだろう。

***

第一テモテ2:1
そこで、まず第一に勧める。
すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、
願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。

マタイ5章
5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

***

アーメン。 共に平和のために祈りましょう。


主にあって喜ぶ・・出張礼拝3

おはようございます。

19日には、また中国人の友人宅での出張礼拝をしました。
2歳のお子さんはお昼ねをしていましたので、
さっちゃんときーくんも礼拝に参加できました。

今回は、ピリピ4:4-7でした。
4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、
あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、
あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

この聖句は、この朝のメールでも何度も紹介していますね。
「主にあって」・・・いつも喜びなさい。
この世界では、とても喜べないようなことは沢山あります。
どんなに「喜ばなくっちゃ」と自分に言い聞かせても、とても喜べない・・ということが・・
ここで大切なのは、「主にあって」と言う部分です。
心と思いが、その御子を与えてくださるほど愛してくださっている神に向かうのなら・・
そして、すべての物事を益としてくださる主の約束に留まるのなら、
「主にあって」・・喜ぶのです。 (ローマ8:28、32)

自分の理解にあってではなく、
感情にあってでもなく、
状況にあってでもなく・・

主にあって・・喜びなさい。

「いつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」
中華料理のお碗やお皿によく「喜喜」という漢字が書いてあります。
「中国で、この漢字を見るとき、ぜひ、このピリピ4:4を思い出してください。」
とお話ししました。

「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」

***
アーメン!
主に感謝です。
「主にあって」 喜びましょうね。
良い一日をお祈りします。


「時」にゆだねる・・Weddingメッセージ

おはようございます。

昨日のWeddingのための、イエス様のメッセージを送信します。
わたしも物事をすぐにどうにかしようとする癖がありますが・・・
主は、「時」にゆだねるようにと教えてくださっています。
「時」が解決してくれることって・・よくありますね。

**イエス様からのメッセージ**

おめでとう愛するものたちよ。

多くの年月を経た物には、深い味わいがある。
すべての価値あるものは、「時」によって試される。
「時」は、ある場合には蔵のよう。
静かに、じっくりと熟成をさせる。
「時」は、燃える炉のようなときもある。
その火の中で、陶器は美しい色を放つ芸術品となる。
「時」は、風のよう。
大木の見事な枝は、この風によって形作られる。
すべてのものは「時」の腕の中で、喜び歌う。

あなたたちの結婚を、この「時」のマジックにゆだねなさい。
二人で過ごすすべての「時」は、あなたたちの人生を豊かにする。
あなたたちはその中で、喜び、歌い、共に成長するだろう。
そしてあなたたちの結婚はやがて、
この世界に一つしかない、非常に高価な芸術品のようになる。

だからたとい新婚のときの心のときめきを、
あまり感じることができないときがあったとしても、
がっかりしてはいけない。そしてお互いの愛を疑ってはいけない。
それは蔵という「時」の中で、
ゆっくりと、静かに、より深い愛が熟成するときなのだから。

たとい二人の間で火のような問題を抱えたとしても、決して投げ出してはいけない。
それは陶器が炉の中で焼かれるときのようだ。
その中で、陶器はその鮮やかな色彩を放つようになる。
そのような「時」を通して、
あなたたちの結婚は芸術品のような美しさを持つようになる。

だからこの「時」にゆだねさい。
この「時」を、共に生きる人がいることを、互いに感謝しなさい。
そしてそのすべての瞬間を、二人で喜びなさい。

***

ハレルヤ! 主よ、感謝します。
よい一日をお祈りします。


「再起動」のメッセージ

おはようございます。

昨日、主との時間を取っていたときに、主からいただいたメッセージです。
ひとつのことが終わり、新しい段階にはいろうとしている人もいるかと思います。
おそらくこのメッセージは、そんなかたにも適用できるかもしれません。

***イエス様からの再起動のメッセージ***

新しい時代へようこそ。
古いものは過ぎ去った。 見よ。 わたしはすべてを新しくする。
わが恵みは朝ごとに新しい。

今は、再起動をするときだ。
再起動といっても、以前と同じOSを起動するのではない。
ただ単にもういちどコンピューターをスタートするための「再起動」ではなく、
新しいOSをインストールするための「再起動」である。

しかしそれが機能する前に、いろいろな段階を踏む必要がある。
インストールの途中ではさまざまな設定がされなくてはならない。
それには時間がかかる。
そのすべてがすぐに完了し、新しいOSが即座に使えることを期待してはいけない。
すぐに物事が順調にいかなかったとしても、あまりにも早まってあきらめてもいけない。
ワードやエクセルがまだ使えず、メールも使えないかもしれない。
もちろんだ。 まだ、OSのインストールをしている途中なのだから。
だからその途中で放り出さないようにしなさい。

OSのインストールをした経験のある人ならわかるだろうが、
まったく新しいOSをPCに入れるときには、何度も、再起動が必要とされることがある。
ある程度のところまでインストールをしたら、一度、シャットダウンをする。
そしてインストール用の一時的な環境で再起動し、
その環境ではなければできない次の段階へと進む。
そしてその一時的な環境でできること、あるいは、なされるべきことがなされた後は、
またシャットダウンし、再起動する。
そういう手順を何度か繰り返して、初めて新しいOSが使えるようになる。

だからこれから何回かのシャットダウンを経験したとしても落胆してはいけない。
はじめようとしている物事が、期待していたほど前進せず、
何度も最初からやり直さなければならないように思えたとしても、そこであきらめてはいけない。
なぜなら、それは新しいOSのインストールの途中での再起動のようなものだからだ。
今までの経験や努力、そのすべてが無駄になったのではない。
ただ、今までのいわば一時的な「環境」においてなされた前進が、
この次の段階で生かされるようになるための、シャットダウンと再起動だからだ。

そして、これからもいくつもの「再起動」が必要となるだろう。
しかし再起動するたびに、インストールが前進していることを、
信仰によって認め、あきらめず、また、落胆しないで、進んでいきなさい。

そして、日々、わたしにつながっていなさい。

※※※
ハレルヤ!

デボーション【マルコ10:32-34続き】

おはようございます。 昨日のデボーションの続きです。

「主いつもこういわれます。 わたしがあなたと共にいる。
 この最悪の事態でさえも、あなたが想像もしないほどの大いなる勝利につながる。
 だから恐れないで、わたしについて来なさい、と。」

さて実際には、弟子たちはみんなイエス様を捨てて逃げてしまいました。
十字架まで主について行くことのできた人は、一人もいませんでした。

わたしたちも完全に最後まで主についていくことはおそらくできないでしょう。
それでも、主は、わたしたちに抜きで、ご自身が勝利を収められます。
そしてその勝利を、恵みにあって、
「ついて行くことのできなかった」わたしたちに与えてくださいます。

また、「あざけられ、つばきをかけられ、鞭打たれ、殺される」のは、主であって、
弟子たちではなかったことも覚えていてください。

わたしたちにはそんなに大きな試練に耐える力はありません。
しかしたといわたしが弟子たちと同じように、主だけを残して、逃げてしまったとしても、それでも、主は、進んでいかれ、わたしたちに代わってその試練を肩代わりしてくださいます。
そしてその勝利を、それを受けるに値しないわたしたちに恵みによって、与えてくださいます。

さらには、わたしたちは逃げてしまうだけではなく、
むしろ、主を嘲笑した群集の中の1人になっていることもあるでしょう。

「主よ! わたしはあなたが助けてくださると思っていました!
 でも物事は悪い方にばかり進んでいます。
 あなたの約束なんか、もうあてになりません。
 あなたが愛してくれているなんて、もう信じることができません!」

そんな思いを抱いたことは、クリスチャンでも何度かはあるかと思います。
そんな時わたしたちはその群集と一緒になって、主と主の御言葉を、
「あざけり、つばきをし、鞭を打っている」のです。
それでも主は言われます。
「父よ。 お許しください。 彼らは自分が何をしているのかわからないからです。」

そして主は、弟子たちのためだけではなく、
主をあざけり、つばきをし、鞭打った群集やローマ人のためにも
・・つまりわたしたちのため・・十字架を負われました。
そして永遠の命の勝利によみがえり、救いの恵みを与えてくださいました。

やっぱり、主はすごい!! ハレルヤ!!!

***

主の恵みによって、今日一日、支えられますように。
アーメン。