逝去を伝えるニュ―スです(2023年12月30日)。
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「黄金時代」であった、「チーム・ペンスキー」(2000-2003)での「相棒(チームメイト)」、エリオ・カストロネベス(1975-)によるコメントです(「英語」)。
また、上掲の記事にもあるように、「X (旧「Twitter」)」でも、当時の、本当に多くの「ライバル」たちが(もちろん、「友人」とも言い得ます...)、「追悼メッセージ」を送っています。
その中から、「代表」して、マイケル・アンドレッティ(1962-)、そして、エイドリアン・フェルナンデス(1963-)のものをどうぞ...。
マイケル・アンドレッティ
Devastated and shocked by the loss of Gil de Ferran. Gil was a great competitor and even better friend. My prayers are with Angela, Luke, Anna and all of Gil’s loved ones. Gone too soon. Rest in peace, Gil, you will be missed. pic.twitter.com/ajNb16qvkE
— Michael Andretti (@michaelandretti) December 30, 2023
エイドリアン・フェルナンデス
Dear Gil @GdeFerran we raced many years together starting back in 1989 to the time we were fighting for the Championship in 2000. I always admired you and respected you inside and outside the race track. My friend, you will be greatly missed, my condolences go out to your… pic.twitter.com/yJfkrjVrx0
— Adrian Fernandez (@AdrianF007) December 31, 2023
(エイドリアン・フェルナンデスは、後述する2000年の「CART」において、まさに、「シリ―ズ・チャンピオン」をかけて、最後まで戦った「ライバル」でした)
さて...
2月のある日、「ニュ―ス検索」をしていたところ、本当に、「ひょんなこと」から、「インディカー」の話題を目にすることとなったのですが、それは、私が「夢中」になって見ていた頃の、その「ヒーロー」のひとり、マイケル・アンドレッティ(1962-)に関する話題でした。
「こちら」ですね。
これは、マイケルのチ―ムが、本格的に「F1参戦」に乗り出したところ、「却下された」という「ひどいニュ―ス」だったのですが(マイケルは、これまでも、「F1」には「冷遇」されている...)、それよりも、「還暦」を過ぎたその姿の方に「ビックリ」したというのが「正直なところ」でした。
本当に久しぶりに、マイケル・アンドレッティの名(姿)を目にして「懐かしい」と思い、「じゃあ、他のドライバーたちはどうだろう」と検索をしてみたところ、何と、このジル・ド・フェランが、「年末」に亡くなっていたというではありませんか!!
...私としては、「最も尊敬しているドライバーのひとり」でもあることから、「年末」とはいえ、これほどの「重大ニュース」を見落としていたとは何たる「不覚」!!
そして、このニュ―スを「見つけた」その時点でもう、「1ヶ月以上」も過ぎていたことから、この記事を書く「タイミング」にも、本当に「悩み」ました。
(本当は、すぐにでも書かなくてはいけなかったのに!!)
亡くなったのは、「突然の心臓発作によるもの」ということだそうですが、もう、「まだ若い」なんてものじゃないですよ。
何しろ、私とは、たったの「3つ」しか歳の離れていない、「56歳」(1967年生まれ)ですからね。
本当に、「衝撃」以外の何ものでもありません...!!
(私には、ミシェル・ベルジェの、やはりあの「突然死」をも思い起こさせる...。
「コ―ス」で亡くなることはなかったのに、まさか、こんなに「真っ先」に逝ってしまうなんて...)
5月の「インディ500」の頃まで「待とう」かとも思いましたが、それではやっぱりたまりません。
このタイミングで書こうと思います...。
ジル・ド・フェランは、その「名前」からも想像が出来るように、「フランス系」(パリ生まれ)ではありますが、「ブラジル」で育ったため、私も、彼が「フランス語」で話すのはまったく聴いたことがなく、主に「英語」、そして、地元「ブラジル」のテレビに対しては、やはり、「ブラジル(ポルトガル)語」で話していたようです。
ジル・ド・フェランと言えば「インディ500ウィナー」(2003年)、そして、その「インディカーシリ―ズ」の「象徴的な存在(アイコン)」としても知られていますが、2003年の「インディ500」、その「ハイライト映像」もアップされています。
当時所属していた「チーム・ペンスキー」ともども、まさに、「黄金時代」でした。
(「最強の相棒」であるエリオ・カストロネベスとの「1-2フィニッシュ」で、「スパイダーマン」とも呼ばれたそのエリオとともに、「フェンス」によじ登るパフォーマンスをやってのけたのが、とても「印象的」でした...)
「インディ500で勝つ本当の意味」
F1チ―ム「マクラーレン」の「スポーティング・ディレクター」に就任したこの当時、フェルナンド・アロンソ(1981-)の、「インディ500」再挑戦に関連してのインタビューです。
(2019年1月16日公開)
こちらも、その、2019年の「インディ500」参戦に関して、コメントしている映像です。
(2019年4月11日公開)
(参考)アロンソが「初参戦」し、佐藤琢磨(1977-)が、「日本人」として「初の優勝」を遂げた、2017年の「インディ500」についての記事
また同年、このような、「ポッドキャスト」の番組も配信されました。
(2019年6月27日公開)
ちなみにこちらは、ジル・ド・フェラン自身の、「インディカーシリーズ」(2002-2003)での「全勝利集」です。
2002年第7戦「パイクス・ピ―ク」
2002年第13戦「ゲ―トウェイ(セントルイス)」
2003年第4戦「インディ500」
2003年第9戦「ナッシュビル」
2003年第16戦(最終戦)「テキサス」
「NTT INDYCAR SERIES」公式サイト(英語)
「モ―タ―・スポ―ツ」がテ―マの記事一覧
ここまでは、「インディカーシリーズ」について見てきましたが、ジル・ド・フェランと言えば、私にとっては、何と言っても、「CART(チャンプカー)」の時代です。
現在ではもう、「インディカーシリ―ズ」に吸収され、「消滅」してしまいましたが、もともと、「アメリカン・(オ―プンホイ―ル・)レ―シング」と言えば、この「CART」のことなのです!!
(2001年には、この「CART」をテ―マにした映画、「ドリヴン」も公開されています。
また、この年、私自身も、「ツインリンクもてぎ」での「公式戦」を、実際に見に行っています。
この当時は、まさに「実力伯仲」の時代であり、誰が「チャンピオン」になってもおかしくはない時代でもありました...)
この頃はまだ、見始める「前」のことでしたが、1996年の第10戦「クリーヴランド(バーク・レイクフロント・エアポート)」での、アレッサンドロ(アレックス)・ザナルディ(1966-)との「名勝負」です。
(ジル・ド・フェランは、これで「CART2勝目」です)
このコ―スは、信じられるかな、何と「空港」です!!
しかも当時は、「定期便」も発着しており、一時的に「封鎖」の上、その「滑走路」と「誘導路」を組み合わせて、「コース」としていました(「分類」としては、CART名物「ストリートコース」ということになるのですが...)。
先述のように、2001年は、「ツインリンクもてぎ」(栃木県)まで、この「CART」の「公式戦(第5戦)」(5月19日決勝)に足を運んでもいます(しかし何と、当時の「宿泊地」は「浦和(現「さいたま市」)」で、そこから「電車」で通っていました...)。
決勝前日に行なわれた「公式予選」も見に行っていますが、この日は、「パドックパス」により、「マシン」や「ドライバー」を、本当に「間近」に見ることが出来ました。
中でも、前年に「シリーズチャンピオン」となったこのジル・ド・フェランは、「オーラ」が全然違いましたね...(あまりにも「偉大」で、本当に、「大きく」も見えました)。
(当時の実況アナが、「顔がデカい」と言っていたことも思い出されますが...笑)
本当に「温厚そう」なジル・ド・フェランですが、「予選時の裁定」を「不服」として、「抗議」していたその姿には、「闘志」も感じられました...。
(あんなに「感情を露わ」にしたのは、本当に珍しかった...)
「♪ハア~CART名~物~ストリート・コ~ス~♪」(笑)
なんて歌ってる場合でもありませんが、この年、「ランキング1位」に返り咲いた、第18戦「ヒューストン市街地コース」での「優勝」。
この後、ジル・ド・フェランは、「2年連続シリーズ・チャンピオン」にも輝いています。
(このコ―スは、「角ばって」いて、たとえば、「ゲ―ム」でも、本当に「走りにくい」レイアウト...)
こちらは、「CART(チャンプカー)」(1995-2001)での「全勝利集」です。
1995年第17戦(最終戦)「ラグナセカ」
1996年第10戦「クリ―ヴランド」
1999年第8戦「ポ―トランド」
2000年第5戦「ナザレス」 *チーム・ペンスキー「100勝」達成!!
2000年第8戦「ポ―トランド」
2001年第17戦「ロッキンガム(イギリス)」
2001年第18戦「ヒューストン」
(追記)何と「雪」のため、「決勝」が「5月27日」に延期となった、2000年の「第2戦(→第5戦) ナザレス」(当初の開催予定は、「4月9日」)。
ここで、この年加入のジル・ド・フェランが見事「優勝」し、このところ、「低迷」が続いていた「チーム・ペンスキー」に、1997年以来となる、「チーム100勝目」をもたらしたのでした!!
(このコ―スは、「変則的なショート・オーバル(「トライ・オーバル(Tri-Oval)」)」で、その「レイアウト」は、「おむすび型」と形容されていました)
ジル・ド・フェラン自身は、惜しくも「リタイア」となっていますが、こちらの「2000年第11戦ミシガン500」(7月23日)は、「CART史に残る最高の名勝負のひとつ」(ファン・モントーヤVSマイケル・アンドレッティ)として知られています。
嬉しいことに、「公式」にアップされました!!
(「舞台」となった「ミシガンスピードウェイ」は、1周2マイルの「スーパー・スピードウェイ」で、1周の「平均速度」も、おおよそ「350km/h」超という世界です...)
そして、「レイアウト」もよく似ている、2000年「最終戦」の舞台、「カリフォルニア・スピードウェイ(フォンタナ)」での「公式予選」において、ジル・ド・フェランは、「世界最速記録」となる、「241.428mph(=388.537km/h)」で、「ポールポジション」を獲得しました。
こちらは、その「決勝」の模様ですが、「降雨」のため、何と「日没サスペンデッド」となり、その翌日にレースが再開されるという、「異例」の事態となりました。
1日置いたため、「エンジントラブルが続発」という「荒れた展開」となり、「完走」も、わずか6台ということになりましたが、その中で「生き残った」ジル・ド・フェランが、見事、「シリーズ・チャンピオン」の座を手にしたのです。
度重なる「ピンチ」を切り抜け、「最後の最後」で「シリーズ・チャンピオン」に輝いたその姿は、とても「感動的」でもありました。
そうしたこともあって、私は、このジル・ド・フェランの「大ファン」になったのでした...。
「タイヤ」をいたわる「クレバーな走り」ながら、時には、「大胆さ」でも魅了してくれたジル・ド・フェラン...。
日本の自動車メーカー、「ホンダ」「トヨタ」のエンジンで走り、特に「ホンダ」とは、「深いつながり」もありました。
あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。
合掌...。
ジル・ド・フェラン(1967.11.11-2023.12.29)
(daniel-b=フランス専門)