今回の記事は、こちらの記事にて紹介した曲と「関連性」があることから、その「リブログ」としています(「元の記事」もぜひご覧ください)。

 

こちらは「オリジナル録音」です(1992年6月12日発売)。

 

 

こちらは、1992年6月22日、パリ10区にあるジャズ・クラブ、「New Morning」にて行なわれたライヴからの、大変「貴重」な音源となります。

 

この「6月22日」は、「結婚記念日」でもありましたが(二人は「1976年」に結婚)、8月2日、ミシェルが「突然の心臓発作」により亡くなったため、「歌唱音源」としては、おそらく、これが「最後」ではないかと思われます。

 

 

こちらは、上掲の「オリジナル録音」をもとに作られた動画ですが、二人の「これまで」が映し出された「記録映像」でもあり、大変「興味深い」ものでもあります。

 

 

こちらは、ミシェルの死後、自身も「乳がん」という「危機」を乗り越え、当初、「2人」で立つ予定でもあった「ベルシー」(現「アコー・アリーナ」)のステージに、フランス・ギャルが1人、その「ミュージシャン」とともに立った、まさに「復活」のライヴ映像からです!! (1993年9月)

 

 

こちらも同じく1993年の映像で、テレビ放送からのものですが、「ゲストボ―カル」として、ロックオペラ「スターマニア」(1988-89年版)で「ジギィ」役、次いで、「ジョニー・ロックフォール」役を務めたルノー・アンソン(1963-)の姿も見えます(もう一人、「女性」の方は誰でしょう。確認が出来ません)。

 

 

 

 

 

かつては、「日本盤」(CDのみ)も発売されていました。

 

 

 

現在「入手可能」な、手ごろな「2枚組ベスト」。

 

 

フランスが「ひとり」でステ―ジに上がった、1993年9月、「ベルシ―」公演の「ライヴCD」です。

 

 

こちらはその「DVD」。

 

 

 

これまでの記事(ミュージカル「RESISTE」についての記事も「こちら」から)

 

 

(参考)「スターマニア」がテーマの記事一覧

 

 

 

最新の「リメイク版」、「スターマニア 2022」公式サイト(フランス語)  

 

*「現在」(2024年1月)も上演中です。

 

 

(参考)「ダニエル・バラボワーヌ」がテーマの記事一覧

 

 

 

さて...

 

 

「1月7日」は、フランス・ギャル(1947-2018)の「命日」でした。

 

 

また、そのちょうど「1週間後」である「1月14日」は、「弟も同然」と言える、ダニエル・バラボワーヌ(1952-86)の「命日」でもあり、私にとっても、まさに、「特別な1週間」です。

 

 

フランス・ギャルと言えば、日本ではほぼ、「1960年代のアイドル」としてのイメ―ジしかないようにも思われますが、本国では、「結婚した1970年代後半以降の方が有名」なのをご存じでしょうか。

 

 

あらためて書きますと、「アイドル」としてはもはや、成功する道が見い出せなかった1973年の夏、自ら運転する車のラジオから流れて来た、「attends-moi "僕を待ってて"」という曲を聴いたフランス・ギャルが、その歌を歌っていた「本人」である、「シンガ―ソングライター」で、「音楽プロデューサー」でもあったミシェル・ベルジェ(1947-92)のもとへ、話を聞きに行ったことが、その「始まり」でした。

 

 

ミシェル・ベルジェ「attends-moi "僕を待ってて"」(1973)

 

 

 

 

 

このアルバムジャケットからも想像が出来るように、当時、ミシェル・ベルジェもまた、「突然の失恋」により、心に「痛手」を負っていました。

 

 

 

フランスが当時歌うはずだった「新曲」について、「意見」を求められたミシェル・ベルジェは、

 

 

「君は、つまらない歌を歌いすぎているよ」

 

 

と、「バッサリ」...。

 

 

もちろん、フランスは「いい気がしなかった」のですが、それまで、このように言ってくれる人もいず、「親身」となって話を聞いてくれたミシェルに、逆に「好感」を持つことになりました。

 

 

そうして、「意気投合」した二人は、さっそく、その「協力関係」が始まったのです...。

 

 

 

その当時の、「出会いの模様」を、フランス・ギャルが振り返った番組の映像ですが、実に「ご機嫌」な様子ですね。

 

 

上の映像の最後の方でも紹介されていますが、フランスに捧げられたという、ミシェルの1983年(=出会って10年)の曲、「(tu es ma )lumiere du jour "君は僕の陽の光"」についての映像を見つけましたので、載せておきたいと思います。

 

こちらがその「オリジナル録音」です(1983年2月17日発売)。

 

 

 

 

 

 

こちらも、大変「貴重」な映像です。

 

フランスの大ヒットアルバム、「Babacar "ババカー (セネガルの赤ちゃん)"」が発売された1987年以降の、「二人の歩み」の記録です。

 

 

 

「動画」にもあるように、1991年、二人で「カンボジア」を訪れたことが、フランスの「回想」による写真集、「Michel Berger HAUTE FIDELITE」(ミシェルの「没後20周年」である、2012年に発売)でも語られています。

 

(この「カンボジア訪問」が、「la petite de Calmette "カルメットの少女"」という「名曲」を生み出しました)

 

 

 

上掲の動画に登場する曲です。

 

「toi sinon personne "あなたでなければ"」(1992)

 

 

そしてこの曲...

 

ミシェル・ベルジェ「le paradis blanc "白い天国"」(1990)

 

 

 

 

 

この曲についての記事(「歌詞対訳」も載せています)

 

 

 

「フランス・ギャル逝去」を伝える、2018年1月7日13時の「ニュース」です(「France 2」)。

 

 

こちらが、パリの「モンマルトル墓地」にある、ミシェル・ベルジェとフランス・ギャル、そして、「難病」のため早逝したその娘、ポ―リ―ヌ(1978-97)の「墓」となります。

 

 

 

 

1976年に結婚してから、長年、「二人三脚」で、フランス音楽界の発展に「貢献」してきたこの二人ですが、実はこの時、「ア―ティスト」としても、「夫婦」としても、「危機」にあったということです。

 

 

フランス・ギャルは、1987年のアルバム、「Babacar "ババカー (セネガルの赤ちゃん)"」の「大成功」の後、「引退」を考えていたようですが、それが、二人の関係を悪化させる「発端」ともなったようです。

 

 

ミシェルにとって「最後」ともなってしまった、今回の曲、「jamais partir "決して立ち去らないで"」を含む、1992年のアルバム「double jeu」(日本でのタイトル「最後のデュエット」)も、「意見の相違」から、その録音には、かなりの時間を費やしてしまったということです。

 

 

あまり「ネガティヴ」な情報は、極力書きたくはありませんが、そうした「困難」の末に生まれたこのアルバムがまた、「至高の出来」ともなっていることから、あえて今回、書くことにいたしました。

 

 

(ザ・ビートルズのアルバム、「Let It Be」制作についてのエピソードを思い出しますね...)

 

 

 

ミシェルの死後、フランスは「乳がん」を発症しますが、その時のことを、次のように話していました。

 

 

「mon cancer etait la concretisation de mon mal interieur」

 

(私のがんは、私の中にあった悪の現実化でした)

 

 

 

それを思うと、フランスが、その後もミシェルの音楽を「大切」にした「理由」が、何となく「分かる」というものです。

 

 

 

今回の曲を選ぶに至っては、私自身も、大変「苦労」しました。

 

 

 

「悩み」ました。

 

 

 

新年早々、大変「暗く」て、「重い」ニュ―スが相次いだからです。

 

 

 

そうした中で、やっと思いついたのが「この曲」だったのですが、みなさまは、どう感じられることでしょうか...。

 

 

 

それでは以下に、その曲、「jamais partir "決して立ち去らないで"」の歌詞を載せておくことにいたしましょう。

 

 

 

今回の「訳詞」も、1998年に発売された「日本盤CD」に掲載の、西川知余子さんのものを、そのままお借りしています(「名訳」です!!)。

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

それではまた...。

 

 

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jamais partir  決して立ち去らないで

 

meme d'une region si lointaine

qu'il se peut

que jamais l'homme ne l'atteigne

meme de ces points infinis

lumineux

on dit qu'un jour ils s'eteignent

si tout disparait

 

人が決して到達しない

かも知れない

遠く離れた地方でさえ

発光している

無数の点でさえ

ある日 明かりを失うという

何もかもが消えてなくなったら

 

meme si tout doit toujours finir bien

l'avenir n'a qu'a revenir demain

retenir un peu le plaisir dans nos mains

juste le temps de se souvenir au moins

il ne faudrait 

jamais partir

jamais partir

jamais partir

 

たとえ常にすべて うまく締めくくるべきだとしても

未来は明日戻ってくればよい

私たちの手の中の楽しみを つかの間 引き留めておけばよい

せめて思い出すだけの時間

そこまでしなくてよいはず

決して立ち去らないで

決して立ち去らないで

決して立ち去らないで

 

personne ne saura etre sans savoir devenir

quelqu'un sera la peut-etre pour se souvenir

que j'etais la

que c'etait toi

 

そうなる術を知らずに、そう在る人はいないだろう

たぶん思い出そうと 誰かがそこにいるはずだ

私がそこにいたことを

それはあなただったことを

 

meme si de nos horizons derisoires (illusoires tu peux dire)

tout nous parait provisoire

meme si les silences profonds des miroirs

taisent les secrets de notre histoire

si tout disparait

 

たとえ私たちの取るにたりない (幻の、と言ってもよい)視界からは

すべてが仮そめに見えても

鏡たちの深い沈黙が

私たちのことを秘密にしたまま

何もかもが消えてなくなったら

 

meme si tout doit toujours finir bien

l'avenir n'a qu'a revenir demain

retenir un peu le plaisir dans nos mains

juste le temps de se souvenir au moins

il ne faudrait 

jamais partir

jamais partir

jamais partir

 

たとえ常にすべて うまく締めくくるべきだとしても

未来は明日戻ってくればよい

私たちの手の中の楽しみを つかの間 引き留めておけばよい

せめて思い出すだけの時間

そこまでしなくてよいはず

決して立ち去らないで

決して立ち去らないで

決して立ち去らないで

 

(daniel-b=フランス専門)