今回の記事は、「前回」のこちらの記事とも「大きな関連性」を持っているため、その「リブログ」といたします。

 

こちらは、「20世紀最高のベートーヴェン弾き」として「その名」を残した、南米チリ出身で、今年「生誕120周年」を迎えた偉大なマエストロ、クラウディオ・アラウ(1903-91, 「6月9日」がその「命日」でした...)による「名演奏」。

 

1977年(ベートーヴェンの「没後150周年」)、当時の西ドイツの首都ボン(「ベートーヴェン生誕の地」)にて行なわれた、「ベートーヴェンフェスト(フェスティバル)」からの映像です。

 

 

こちらの曲、「アンダンテ・ファヴォリ へ長調 WoO 57」(1803-04)は、もともと、この「ピアノソナタ第21番」の「第2楽章」として作曲されたものでした。

 

しかし、「それでは曲が長くなり過ぎる」と、ある友人から指摘され、最初は、大変「気に入らない」様子だったということですが、「熟考」した結果、「納得」したベートーヴェンは、この曲を外し、「現行」のように、終楽章「ロンド」への「序奏」の形となる、短い「アダージョ(・モルト)」へと「変更」したということです。

 

それでも、この曲は単独で「人気」を博し、ベートーヴェン自身の「愛奏曲」ともなっていたため、1807年にあらためて出版された際、ベートーヴェン自らが、「アンダンテ・ファヴォリ」(「お気に入りのアンダンテ」)と名付けたということです。

 

 

続いてこちらは、アルフレート(アルフレッド)・ブレンデル(1931-)の、最後の「ピアノソナタ全集」から(1993年4月録音)。

 

同様に、「アンダンテ・ファヴォリ」もどうぞ(もちろん「収録」されています)。

 

 

 

 

こちらは、「2種類」の「ワルトシュタイン・ソナタ」の演奏を、「譜面付き」で。

 

 

「アンダンテ・ファヴォリ」は、ケンプ(1895-1991)、アラウ、リヒテル(1915-97)、ブレンデル、シュナーベル(1882-1951)、モイセイヴィッチ(1890-1963, ウクライナ・オデーサ出身)の、「計6種」の録音を、やはり「譜面付き」でどうぞ。

 

 

 

テーマが「ベートーヴェン」のこれまでの記事。

 

 

「記念サイト」もまだあります...。

 

 

 

さて...

 

 

「久々のクラシック曲」ということで、前回、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37」(1796-1803)について書き、続けて、「ピアノソナタ」のジャンルからも書くつもりで、「どの曲にしようか...」と考えていたところなのですが、「とあるコメントのやりとり」(笑)から、それは、意外に「あっさり」と、決まることにもなりました...。

 

 

(参考)「とあるコメントのやり取り」の場...(セーニョさん...スミマセン...笑)。

 

 

 

もっとも、今回のこの曲、「ピアノソナタ第21番 ハ長調 op.53 "ワルトシュタイン"」(1803-04)ももちろん、もともとの「候補のひとつ」ではありましたが、「直接的なきっかけ」となったのは、やはり、上掲のように、「コメントのやり取りがあったから」でした。

 

 

 

この曲、「ピアノソナタ第21番 ハ長調 op.53 "ワルトシュタイン"」は、クラシック音楽のファン、特に、ベートーヴェン(1770-1827)をよく聴かれる方には、もはや説明は「不要」かと思われますが、「何らかの理由」によって(=ベートーヴェン自身が意図したものではなくても)「タイトル」が付けられ、「よく知られている曲」のひとつでもあるのです。

 

 

そうした曲を、よく「3大ピアノソナタ」などという言葉で「表現」している例を、「CD」などでよく見かけますが、それがベートーヴェンの場合には「×2」(6曲)でもあって、「タイトル付きピアノソナタ」としては、今回の「ワルトシュタイン」(正式な「ドイツ語読み」で、「ヴァルトシュタイン」とも)の他に、次の5曲が、大変「有名」です。

 

 

 

ピアノソナタ第8番 ハ短調 op.13「悲愴」(1798-99)。

 

ダニエル・バレンボイム(1942-)による「名演奏」です。

 

 

ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 op.27-2「月光(幻想曲風ソナタ)」(1801)。

 

クラウディオ・アラウによる名演奏で、1970年(ベートーヴェン生誕200周年)の「ベートーヴェン・フェスト」(当時の「西ドイツ」の首都ボンにて開催)の映像から。

 

 

ピアノソナタ第17番 ニ短調 op.31-2 「テンペスト」(1801-02)。

 

残念ながらすでに「引退」されていますが、ポルトガル出身の名ピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(マリア・ジョアオ・ピリス)(1944-)による「名演奏」です。

 

 

ピアノソナタ第23番 へ短調 op.57「熱情」(1805)。

 

やはりアラウの、1970年の「ベートーヴェン・フェスト」での映像から。

 

 

この曲についての記事

 

 

 

ピアノソナタ第26番 変ホ長調 op.81a「告別」(1809-1810)。

 

こちらも同様に、1970年のクラウディオ・アラウの名演奏でどうぞ。

 

 

この曲についての記事

 

 

 

以上の曲の他にも、「第24番 嬰へ長調 op.78 "テレーゼ"」(1809)や、「第25番 ト長調 op.79 "かっこう"」(1809)のように、時に「タイトル」が付けられている(こともある)曲がありますが、それらは、「よく知られている曲」とは言い難く、「規模」も、とても「小さなもの」となっています。

 

ただし、「第29番 変ロ長調 op.106 "ハンマークラヴィーア"」(1817-19)は、「4楽章制」による、大変規模の大きな「大傑作」であり、こちらは時に、「後期5大ソナタ」(「第30~32番」の「後期3大ソナタ」に、「第28番」、「第29番」を「加えた」時の「呼び方」)のひとつとも、呼ばれることがあります。

 

 

 

今回の曲、「第21番 ハ長調 op.53 "ワルトシュタイン"」(1803-04)のこの「タイトル」も、「献呈」された「伯爵」の名に由来するもので、特に正式に、ベートーヴェン自身が付けたタイトルというわけではありませんが、その「献呈の辞」が、楽譜にも記されていることから、「通称」として、広く知られているものです。

 

 

ベートーヴェンは、ウィーンでの「多忙な毎日」の中で、その、日に日に衰えゆく「聴力」に悩まされながらも、1802年5月には、「静養」も兼ねて、近郊の「ハイリゲンシュタット」に滞在し、作曲を続けることになりましたが、「10月」にはついに、その地にて、あの、「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれることにもなったのです...。

 

 

(再掲)参考記事:「ハイリゲンシュタットの遺書(全文)」と、その「解説」

 

 

 

しかしもちろん、ベートーヴェン自身が、これで、「自ら命を絶った」という事実はありません。

 

 

この「遺書」は、ベートーヴェンの死後「すぐ」の、「1827年3月」に発見され、同年10月に「公表」されたもので、ベートーヴェン自身は、この「遺書」を書いたことを機に、その「病気」を乗り越え、再び、「音楽とともに歩み続ける人生」を選んだ、いわゆる、「デトックス」の役割を果たしたとも言えるものだったのです。

 

 

この、「ハイリゲンシュタット」後のベートーヴェンは、「傑作の森」(ロマン・ロランによる)とも呼ばれるくらいの「創造力の爆発」により、「中期」の「偉大な作品」を、次々と残していくことになります。

 

 

「前回記事」の「ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37」(1796-1803)ももちろんそうした1曲でしたが、「発表」されたその演奏会(1803年4月5日)の「直後」から書かれたと見られる、「ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調 op.47 "クロイツェル"」も、翌1804年にかけて完成された、「交響曲第3番 変ホ長調 op.55 "英雄"」もみな、今回の「ワルトシュタイン・ソナタ」と、「近い時期」に書かれた作品です。

 

 

そしてこの「ワルトシュタイン・ソナタ」は、ヴィルヘルム・フォン・レンツ(1809-83)により、「ピアノのための英雄交響曲」とさえ呼ばれているのです...。

 

 

 

1803年8月、ベートーヴェンのもとへ、思いもよらない「大きなプレゼント」が、パリの「エラール社」からもたらされることになりました。

 

 

当時、「最大のパトロン」のひとりでもあった、リヒノフスキー侯爵(1761-1814)を介してのその「贈りもの」とは、「68鍵」という「広い音域」を持ち、「ペダル」も「完備」という「最新型ピアノ」で、これが、ベートーヴェンのその「創造力」を大いに「刺激」し、その後の「大傑作の誕生」につながったのです。

 

 

しかし、その「最新型ピアノ」で書かれた「新作ソナタ」が、「リヒノフスキー」や「エラール」というタイトルにならなかった「理由」は、こちらの記事に書いてありました。

 

 

おなじみ、「おやすみベートーヴェン」より。

 

 

 

この記事にも書かれているように、ワルトシュタイン伯爵(1762-1823)は、ベートーヴェンにとって、「大恩人」とも言える人物です。

 

 

1788年1月の終わり、ボンのブロイニング家で知り合うことになったワルトシュタイン伯爵は、若きベートーヴェンの才能を称賛し、当時、大変「貴重」でもあった、「シュタイン」製の「新商品」ピアノを贈り、「パトロン」となりました。

 

その後、1792年11月、ハイドン(1732-1809)に見い出され、ついにウィーンへと旅立つことになった際にも、ワルトシュタイン伯爵は、次のような言葉で、ベートーヴェンを送り出しています。

 

 

 

「たゆまぬ鍛錬によって受けたまえ。

 

モーツァルトの精神を、ハイドンの手から!!」

 

 

 

「真新しいピアノ」を目の前にして、ベートーヴェンには、「若かりし頃」のこの「思い出」が、「色鮮やか」によみがえってきたのでしょう。

 

 

そのために、この「ピアノソナタ」は、「ワルトシュタイン伯爵」に捧げられ、その「献呈の辞」から、「ワルトシュタイン・ソナタ」として、広く知られるようにもなったのです...。

 

 

 

この、実に「型破り」とも思える曲想は、「未来志向」だともとらえられます。

 

 

「最後」となったピアノソナタ、「第32番 ハ短調 op.111」(1822)でも、その「第2楽章 アリエッタ」では、「スウィング(ジャズ)」とも称されるくらいの「リズミカル」な「変奏」(「第3変奏」)が現われ、もはや、「そのように聴こえなければ、その演奏は失敗」とまで言われるくらいですが、要するに、ベートーヴェンが書いていたのは、

 

 

 

「100年以上も未来の音楽」

 

 

 

だということです。

 

 

今回のこの「ワルトシュタイン・ソナタ」にしても、第1楽章の「第2主題後半」は、また新たな主題かとも思うくらいの「目まぐるしい」動きを見せていますが、これが、私が昔聴いた「第1印象」では、まるで「ミュージカル」の「テーマ曲」のような感じにも聴こえて、この曲が、「1800年代初頭」に書かれたものだとはとても思えなかったのです。

 

今思うと、シューベルト(1797-1828)の最晩年の「ピアノソナタ第20番 イ長調 D.959」(1828)の「第1楽章」でも、「第1主題」でも「第2主題」でもない、まったく「新しい」主題が「提示部終結部(コデッタ)」に現われたかと思うと、そのまま、それが「展開部の主役」に「成り代わって」もいましたし、やはり「ベートーヴェン的」と言われる、「ピアノソナタ第17番 ニ長調 op.53, D.850」(1825)も、その「オーケストラ的」な曲想が、今回の曲に「少し似ている」とも感じました。

 

それはそれで、「ベートーヴェンの影響」と言うことも出来るかとは思いますが、いずれにしても、そのベートーヴェンも、まだハイドンやモーツァルト(1756-91)の影響の残る「この時代」に、これほどの「革新的な曲」を書いていたことに、あらためて「驚かされ」ます。

 

 

 

「第2楽章」は、最初にも挙げているように、もともと、「アンダンテ」が予定されていました。

 

 

しかし、「それでは曲が長くなり過ぎる」との指摘を受け、心ならずも「再考」したところ、「たしかに...」と「納得」したようで、いかに「型破り」なベートーヴェンと言えども、ここは「おとなしく」(「当時の考え方」を受け入れ)、「曲の入れ替え」を行ないました。

 

 

結果、「第3楽章」への短い「イントロドゥツィオーネ(導入部分)」となる、「アダージョ・モルト」に「変更」となりましたが(このことから、「2楽章のソナタ」と見られることもあります)、元の「アンダンテ」でも、ほとんど「違和感がない」くらい、「ぴったりマッチする」と思うだけに、少し「残念」な気も、「現在の視点」から言うと、「感じる」と思いますね(むしろ、この「アンダンテ」の方こそ、「印象」に残る...)。

 

 

事実、ベートーヴェン自身も、やはり「この曲(アンダンテ)」を「捨て切る」ことが「出来ない」くらい「愛着」があり、「ワルトシュタイン・ソナタ」からは4ヶ月遅れて、やはり1805年、「ピアノのためのアンダンテ」という「別作品」として出版しました。

 

 

その後、1807年に、「ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社」から刊行された版で、「アンダンテ・ファヴォリ(お気に入りのアンダンテ)」(WoO 57)に「改題」となりましたが、これは、「弟子」でもあった、カール・チェルニー(ツェルニー)(1791-1857)も話している通り、「ベートーヴェン自身の愛奏曲であり、人気もあった」からだということです。

 

 

こちらも、「おやすみベートーヴェン」より(「アンダンテ・ファヴォリ」)。

https://ontomo-mag.com/article/playlist/oyasumi182-20200614/

 

 

 

そして、「第3楽章」は、まさに、「壮麗なフィナーレ」となります。

 

 

ベートーヴェンの生まれた地方の「民謡」を「素材」として用いているという説もありますが、何か、「高山」(あるいは、「山々が連なるさま(=大パノラマ)」)を思わせるような「雄大」な響きもありますし、フランスなどでは、「朝に太陽が昇って行くさま」にたとえて、「Aurore(オロール)」とも呼ばれているそうです。

 

 

参考記事

 

 

 

私には、ここにも、「シューベルトの精神」を感じることが出来るのですが(まさに、先述の「イ長調」や、「ニ長調」ソナタの「終楽章」の「手本」...)、シューベルトが、そこまで「深く」、ベートーヴェンの音楽に聴き入り、「尋常ならざる想い」で、それを「引き継ぐ」ことを「決意」したことが、本当に「痛い」ほど、「分かった」気もするというものです。

 

 

今回、あらためてこの「ワルトシュタイン・ソナタ」を聴いてみたことで、「そのこと」についての「理解」が、さらに「深まった」ような印象を受けたと思いました。

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

それではまた...。

 

 

(daniel-b=フランス専門)