こちらは、チリ出身の偉大なマエストロ、クラウディオ・アラウ(1903-91)による名演奏です。

 

1970年、当時の西ドイツの首都ボン(「ベートーヴェン生誕の地」)にて行なわれた、「ベートーヴェンフェスト(フェスティバル)」からの映像ですが、これほど「見事」な生演奏にも、なかなか「出合うことがない」と思えるくらいの「素晴らしさ」だと思います。

 

「20世紀最高のベートーヴェン弾き」として、「その名」を残したクラウディオ・アラウ...。

 

その「命日」は、「6月9日」のことでした...。

 

 

「ピアノのマエストロ(巨匠)」、「ベートーヴェン弾き」ということであれば、この方の名も、挙げないわけにはいかないでしょう...。

 

ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)は、ベートーヴェン「直系」の流れをくむ「偉大なピアニスト」であり、「作品そのものに語らせる」という、言ってみれば、「現代的奏法」を「確立」した方であるとも言えます。

 

何と、ベートーヴェンの「命日」(3月26日)が「誕生日」というバックハウス...。

 

そうしたところにも「運命」のようなものが感じられます。

 

こちらは、「2回目の全集」からのもので、この曲は、1959年10~11月の録音となっています。

 

 

 

「ドイツ人ピアニスト」を「父」に持つ、ウクライナ出身のスヴャトスラフ・リヒテル(1915-97)も、「20世紀最高のピアニスト(マエストロ)」のひとりです。

 

その、「力強いながらも詩的な演奏」は、「現在」においても、「語り草」となっているほどです。

 

 

「N響音楽監督(退任後、「桂冠(名誉)指揮者」の称号も)」を務めたことで、「日本」でも広く知られているウラディーミル・アシュケナージ(1937-)。

 

現在は、「指揮者」、「ピアニスト」とも、「現役を引退」してはいますが、やはり、「現代最高の名演奏家のひとり」であると言うことが出来ると思います。

 

 

 

現ウクライナ・オデーサ出身、エミール・ギレリス(エミール・ヒレリス)(1916-85)もまた、「偉大なピアニスト」のひとりです。

 

「譜面付き」の演奏がありましたので、ぜひどうぞ!!

 

 

「第1楽章」だけなのが「残念」ではありますが、やはり「ピアニストのマエストロ」であるアルフレート(アルフレッド)・ブレンデル(1931-)の「最後(3回目)」となった「ピアノソナタ全集」から...。

 

この曲は、1994年2月の録音となっています。

 

 

 

テーマが「ベートーヴェン」のこれまでの記事。

 

「記念サイト」もまだあります...。

 

 

 

さて...。

 

 

「6月9日」は、南米チリ出身の、ピアノの偉大なマエストロ、クラウディオ・アラウ(1903-91)の「命日」ということもあり、彼の最も「得意」とした、「代表的なレパートリー」でもある、「ベートーヴェン」(1770-1827)(今年はやはり、「没後195周年」...)をテーマに、記事を書いてみたいと思いました。

 

 

今回の曲は、「変化球」ではなく、「ストレート」に「超有名曲」で「恐縮」なのですが、「ピアノソナタ第23番 へ短調 op.57 "熱情"」(1805)としてみました。

 

 

 

「クラシックの記事」としても大変「久しぶり」ですので、どうかよろしくお願いいたします...。

 

 

 

イタリア語で「熱情」を意味する、「アパッショナータ(appassionata)」というタイトル(「通称」)でも知られているこの曲は、やはり、ベートーヴェン自身が、その「耳(聴力)の異常」から、あの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年10月、「静養先」のハイリゲンシュタットにて)を書いたのち、それがまるで「デトックス効果」であったかのように、「革新的な名曲」を「立て続け」に世に送り出していた、いわゆる「中期」(「傑作の森」)を代表する、その「最高傑作」のひとつとして「名高い」ものです。

 

 

参考記事(再掲)

 

 

 

「交響曲第3番 変ホ長調 op.55 "英雄"」が「完成」した「1804年」には、ベートーヴェンは、「劇音楽」の作曲の方に目が向いていたようですが、それと「並行」して、やはり、「ピアノ曲」、「交響曲」の「新作」にも「着手」していました。

 

 

最終的に、「フィデリオ」(1814年完成 op.72)として知られている、ベートーヴェンが「唯一」完成させた「オペラ」は、当初、「原作」に従い、「レオノーレ」(ベートーヴェン自身は、このタイトルに、とても「愛着」があったようです)のタイトルで、この1804年に作曲が始められました。

 

 

「英雄」に引き続いて、この「フィデリオ(レオノーレ)」の作曲と「並行」する形で書き始められた「交響曲」は、実は、「第5番 ハ短調 op.67 ("運命")」(1808年完成)でもあったのですが、筆が進むことはなく、「中断」したままとなったため、結局、この1804年に完成した曲は、意外なほど、「少なく」もなってしまったようです...。

 

 

関連記事

 

 

 

その「フィデリオ」のスケッチに、「混ざる」ような形で「発見」されている、「もうひとつの曲想」こそが、この「熱情ソナタ」のものだと言われており、こちらは、そのまま書き進められ、翌1805年4月18日には、「完成の目途」を知らせる「手紙」も書かれ(「出版社」宛て)、「夏頃」には完成したと見られています。

 

 

ベートーヴェンの「代表的な曲想」を表す言葉として、「運命の動機」というものがあることは、ご存知の方も「多い」のではないかと思います。

 

 

そう、あの、「ジャジャジャジャーン」ですよね...(笑)。

 

 

その、「交響曲第5番」の「主要モチーフ」でもある、「4つの音」による「運命の動機」が、この「熱情ソナタ」にも現われていることに気づくのは、それほど「難しい」ことでも、「時間がかかる」ことでもありません。

 

 

それほど、「一目瞭然」でもあるのです...。

 

 

この「熱情ソナタ」が「出版」されたのは、翌々年である1807年2月のことでしたが(「当初」はなぜか、「ピアノソナタ第54番」と記されていたそう...)、その「献呈」を受けたのは、ハンガリーの貴族で、「劇場主」でもあった、フランツ・フォン・ブルンスヴィック伯爵(1777-1849)...。

 

 

そう、つまり、ベートーヴェンの「永遠の恋人」候補の「最右翼」である、ヨゼフィーネ(1779-1821)の「兄」であり、「もうひとりの候補」でもあるテレーゼ(1775-1861)の「弟」でもある人物です。

 

 

当時、その「夫」である「ダイム伯爵」が「急逝」したことで、ヨゼフィーネに「再接近」をし始めたベートーヴェンではありましたが、やはり、「身分違いの恋」...。

 

 

その恋は、結局、「成就」することはなく、「悲しい結末」ともなってしまいました...。

 

 

参考記事

 

 

 

この曲のタイトル、「熱情」は、1838年に、ハンブルクの出版社クランツが、「ピアノ連弾用(編曲)」の楽譜出版に際して付けたものだということですが、現在では、そのまま、「通称」となって、世界的に「認知」されてもいます。

 

 

 

また、この「熱情」には、「ピアノ教師」でもあった「天才ピアニスト」、マリー・ビゴー(1786-1820)とのエピソードもあります...。

 

 

当時、ベートーヴェンは、この曲の「自筆楽譜」を「持ち歩く」ことが多かったと言われていますが、「スポンサー」のひとりであった、リヒノフスキー侯爵(1761-1814)の城から、ウィーンへと戻る途中に「雨」に降られてしまい、それが「汚損」してしまうという事態に...(よおく分かります...。私にも、「同様の経験」が...)。

 

 

しかし、その「雨に濡れた楽譜」をマリーに見せたところ、彼女は「一読」しただけで、この曲に魅せられ、その場で、「最初」から「最後」まで弾き通してしまったということです。

 

 

大変「感激」したベートーヴェンは、

 

 

「私自身が意図した通りではないけれども、それで良いです。素晴らしいです!!」

 

 

と「絶賛」し、後に、その楽譜を、彼女に「贈った」ということです。

 

 

また、当時、「同様」のエピソードが、ハイドン(1732-1809)にもあったようです...。

 

 

参考記事

 

 

 

ベートーヴェン自身も、この「熱情」については、「愛着」と「自信」を持っていたようで、「ピアノソナタ」の分野では、その後「4年」も新作を書いてはおらず、「第26番 変ホ長調 op.81a "告別"」(1809-11)と同時期に書かれた、規模の「小さい」、「第24番 嬰へ長調 op.78」、「第25番 ト長調 op.79」が、まず、1810年に出版され、再び、「その世界」に戻って来たのです...。

 

 

(参考)「告別」ソナタについての記事

 

 

 

とにかく、「完璧」とも評されるこの「熱情」は、「真のピアニストでなければ、弾くことを許されない」とまで言われている、「超難曲」でもあります。

 

 

この私も、これまでに、実は「1度」しか、この「熱情」を「生」で聴いたことがありません。

 

 

これほどの「超有名曲」でありながら、「演奏家」としても、やはり、「挑むのはプレッシャー」という面があるのでしょうか....。

 

 

(ちなみに、2018年の映画、「羊と鋼の森」の中で、この曲を実際に弾かれていた、「ラインハルト・ゲルツァー」こと、ミハウ・ソブコヴィアクは、ポーランド出身の、「本職」のピアニストです!!)

 

 

 

ベートーヴェンは、1803年8月、パリから届けられた、エラール社による「最新型ピアノ」を「フル活用」して、この「熱情」を書いたと言われています...。

 

 

参考記事

 

 

 

ところで、この「熱情」についての記事を書くならば、ぜひ「引き合い」に出したいと思っていた曲が「こちら」...。

 

 

先に「記事」も書いてはいますが、1818年9月、シューベルト(1797-1828)が、「主要部分」は書き上げながらも、なぜか「中断」したままで「未完」に終わった、それでも、「大変美しい」作品、「ピアノソナタ第11番 へ短調 D.625(+D.505)」...。

 

 

スヴャトスラフ・リヒテルの名演奏でどうぞ。

1979年2月、「来日公演」(東京)からの録音で、私としても、大変「お気に入り」の「曲」、「演奏」です...。

 

 

まったくの「私見」ではありますが、もしかすると、シューベルトの頭の中に、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」の「第1楽章」が浮かんでしまったのかも知れません...(同じ「へ短調」...主部の「トリル」...)。

 

 

この曲についての記事

 

 

 

さて、「こちら」は...。

 

 

「検索」していたところ、「これは素晴らしい!!」と思ったので、記事にも載せて、残しておくことにしました。

 

 

何と、「メタルアレンジ」の「第3(終)楽章」ということですが...。

 

 

「頭が固くない方」は、ぜひ一度お聴きください!!

 

 

(ベートーヴェンはやはり、当時の「ロック・アーティスト」だ!!)

 

 

マッツ・クレップさんと言うのでしょうか。

 

 

とにかく「見事」です!!

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

それではまた...。

 

 

(daniel-b=フランス専門)