「伝説の名演奏」として、現在でも語り継がれているのがこの録音です。
1981年8月14日に逝去した、「オーストリア音楽総監督」カール・べーム(1894-1981)(後述参照)を悼んで開催された演奏会(1982年5月3日 ミュンヘン国立歌劇場)で、カルロス・クライバ-(1930-2004)が、バイエルン国立管弦楽団を指揮した演奏が「ライヴ録音」されたものです。
当時の新聞評でも、「一生忘れられない演奏会のひとつ」と「熱狂的」に採り上げられ、「日本盤」発売時にも、「ここでカルロス火を吹いた!」と評された、まさに、「鮮烈のライヴ」です。
「血湧き肉躍る」ような、「最終楽章」の「驚くべきテンポ(の速さ)」に注目が集まりましたが、それでも「破たん」のない、オケの「名技性」によって、それまで、演奏機会も少なく、「目立たない曲」とされて来た「交響曲第4番」に、一気に「脚光」が当たった瞬間でもありました。
もちろん、カルロス・クライバ-自身もまた「然り」です。
上掲の録音の「絶大な評価」を受け、その「演奏」は、東京・人見記念講堂(昭和女子大学)での「来日公演」でも「再現」されました(映像は、1986年5月19日の「追加公演」より)。
こちらは、ヨーロッパの「名門」、アムステルダム(現「ロイヤル」)・コンセルトへボウ管弦楽団を振ったもので、これも「名演奏」として挙げられるでしょう(1983年10月)。
オケの、その「いぶし銀」の音色にも「注目」です!!
これまでの記事
「記念サイト」もありました...。
さて、昨年は、「楽聖」ベートーヴェン(1770-1827)の「生誕250周年」でした。
また、「12月16日」は、事実上の「誕生日」でもありました(その翌日、「17日」に、「洗礼」を受けています)。
今回は、まさに「新春」に相応しい、この曲で行ってみたいと思います。
「交響曲第4番 変ロ長調 op.60」(1806)。
前回、ベートーヴェンの、「偶数番」の交響曲、「第8番 へ長調」を採り上げましたが、今回も、その「偶数番」の「名曲」です。
(参考)前回の記事 「交響曲第8番 ヘ長調 op.93」
1804年、「交響曲第3番 変ホ長調 op.55 "英雄"」を完成後に、ベートーヴェンが新たに書き始めた交響曲は、実は、「第5番 ハ短調 op.67 (「運命」)」(1808年完成)でした。
しかしながら、当時のベートーヴェンの「創作の興味」としては、「オペラ」の方に向いて来ていたようで、そのためもあって、この年に「完成」となった作品は「意外」なほど少なく、当然、その「新しい交響曲(現在の「第5番」)」も、完成することはおろか、書き進められることもなかったようです。
「最終的」に「フィデリオ」(1814年完成 op.72)と呼ばれることになる、ベートーヴェンが「唯一」完成させたそのオペラは、当初は、「原作」に沿って、「レオノーレ」というタイトル(ベートーヴェン自身は、このタイトルに、とても「愛着」があったようです)で作曲が進められましたが、「苦労」の末、その「第1稿」が1805年秋に「完成」となり、「10月15日」には「初演」となる予定でした。
ところが当時、ウィーンには、ナポレオン(1769-1821)率いるフランス軍が迫って来ており、その「初演」も、「11月20日」に「延期」となりました。
しかし、「11月13日」にウィーンは「占領」され、何とか行なわれたその演奏会でも、観客の大半が、「ドイツ語」を理解しない「フランス軍兵士」であったために、「大失敗」に終わったということです(「原作」は、実は、「フランスの作品」なのですが...)。
このオペラ「レオノーレ(フィデリオ)」は、その後、友人たちの勧めにより、「改作」されることになりましたが、それでも「成功」には至らず、最終的に「大成功」となったのが、「1814年」の版であり、着手からは、何と、「10年後」のことでした...。
この「レオノーレ(フィデリオ)」を作曲中の1805年3月に生まれた「歌曲」が、ティートゲ(1752-1841)の詩による「An die Hoffnung "希望に寄せて" op.32」です。
この作品は、「前回記事」(「交響曲第8番」上掲参照)にも書いた、いわゆる「不滅の恋人」の「候補」の1人、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(1779-1821)に捧げられているのですが、当時、その「夫」であったダイム伯爵が「急逝」したことにより、ベートーヴェンは「頻繁」に(ほぼ「毎日」)、彼女の家を訪れていたということです。
また、「手紙」も、数多く残されています。
歌曲「An die Hoffnung "希望に寄せて" op.32」。
歌唱は、世界的テノール歌手、ペーター・シュライアー(1935-2019)です(「譜面付き」でどうぞ)。
参考記事
参考記事その2(この歌曲も、後に「改作」されました)
オペラ「レオノーレ」の「失敗」の後、ベートーヴェンは再び、「管弦楽曲」や、「室内楽曲」に向かうことになりました。
1806年の夏は、弟(カスパール・アントン・)カールの「結婚」に関する「トラブル」もあって、「珍しく」、ウィーンを離れることがありませんでしたが、「9月」以降、「短期間」ではあるものの、「後援者」であるリヒノフスキー侯爵(1756-1814)とともに、ボヘミア(現チェコ)にある彼の居城へと、「旅」に出ています。
(ちなみに、リヒノフスキー侯爵とは、「意見の相違」から、この時に「けんか別れ」となったようです。侯爵は、それでも、ベートーヴェンを「支援」しようと試みたようですが、二人の仲が戻ることは、ついにありませんでした。
また、この年に生まれた、弟カールの息子もカールと言いますが、後年、度々「問題」を起こし、「後見問題」で、ベートーヴェンを悩ませ続けたのが、この、「甥」のカールです)
明確な「スケッチ」などは残されてはいませんが、それゆえ、この旅行の期間中に、「一気に書き上げられた」と見られるのが、今回の曲、「交響曲第4番 変ロ長調 op.60」であり、10月中には「完成」したと言われています。
1806年には、他にも、リヒノフスキー侯爵の「義兄弟」でもあった、ラズモフスキー伯爵(1752-1836)に献呈された、3曲の、いわゆる「ラズモフスキー弦楽四重奏曲」(「第7番 ヘ長調」、「第8番 ホ短調」、「第9番 ハ長調」 op.59-1~3)、また、「ピアノ協奏曲第4番 ト長調 op.58」、「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61」といった、「大曲」で「名曲」が、次々と「完成」した時期でもあり、まさしく、「充実していた」と言える1年だったのです。
後のシューマン(1810-56)をして、
「2人の北国神話の巨人(交響曲「第3番」、「第5番」のこと)の間にはさまれた、か弱き(小柄な/美しい)ギリシャの乙女」
と言わしめた、この「交響曲第4番 変ロ長調」...。
ベートーヴェンの「交響曲」が、よく、「奇数番」は「男性的」、「偶数番」は「女性的」と言われることがあるのは、実は、この「第4番」以降のことであり、1802年に完成された、「交響曲第2番 ニ長調 op.36」(「第3番 "英雄"」のひとつ前の作品)は、この例には「当てはまらない」と、私は思います。
その「交響曲第2番」を、「N響首席指揮者」として、日本でもおなじみの、パーヴォ・ヤルヴィ(1962-)の指揮、ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団(DKB)の演奏でどうぞ。
今回の曲、「交響曲第4番」に、先述のヨゼフィーネに対する「想い」が、「どこまで」関係しているのかは分かりませんが、「第1楽章第1主題」から、明らかに「喜び」が感じられ、「英雄」とも「運命」とも異なった、「明るさ」と、「優しい響き」で、曲全体が彩られていることは間違いありません。
それでいて、決して「弱々しい」というわけでもなく、ベートーヴェンらしい「力強さ」に、心を「躍らされる」こともまた、「確か」なのです。
ですから、「新春にお届けしたい曲」として、この曲を選びました。
曲の「形式」としては、前作の「英雄(交響曲第3番 変ホ長調)」での「革新的」な書法からは、いったん「後退」したような、「古典的書法」に戻った感じもしますが、「曲想」としては、「次の時代(ロマン派)」に進んだような、そんな印象も受けます。
(参考)「交響曲第3番 変ホ長調 op.55 "英雄"」(1804)の記事
また、この曲のオーケストラ編成は、「フルート」が1本少ないだけで、ベートーヴェンの交響曲の中でも「最小」であり、そうしたところからも、先述のような、「ギリシャの乙女」という形容がされているようです。
それでは、この「第4番」の「歴史的名演奏」を、いくつか挙げてみることにいたしましょう。
私の持っているCDでは、前回の「第8番」と「カップリング」となっている、ハンガリー出身の偉大なマエストロ、ジョージ・セル(1897-1970)が、手兵のクリーヴランド管弦楽団を指揮した、1963年の録音です。
そのセルを、「とても尊敬していた」というのが、この、「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-89)。
こちらも、「手兵」のベルリン・フィルとの名演奏でどうぞ。
「オーストリア音楽総監督」とも呼ばれた偉大なマエストロ、カール・べーム(1894-1981)指揮、ウィーン・フィルの名演奏(1972年9月)でもお聴きください。
こちらの「全集」は、「SACD」によるものです。
というわけで、今回は、ベートーヴェンの「交響曲第4番 変ロ長調 op.60」(1806)をお届けいたしました。
それではまた...。
(daniel-b=フランス専門)