こちらは、「1995年6月14、15日」(当時71歳)の、ニューヨーク・カーネギー・ホールでの公演の模様だと思われます。

 

歌い始める前に、「英語」によるナレーションがありますが、歌自体は「フランス語」での歌唱です。

 

 

 

こちらは、「母方の祖国」、アルメニアの首都、エレヴァンでのライヴ映像からです(2015年。当時91歳)。

 

この翌年、2016年6月15日、東京・渋谷の「NHKホール」にて、アズナヴールの公演に「参戦」いたしましたが、これが、私にとっては、「最初で最後」の、「生アズナヴール体験」となってしまいました...。

 

こちらは、「オリジナル録音」です(1963年録音/同年10月発売)。

 

 

こちらは、現在も入手が可能な、「最良」の「日本盤ベスト」です(2枚組)。

 

 

「日本で人気の高い曲」として、日本向けの「ベスト盤」にも収録されています(もちろん、2016年の「日本公演」でも歌われていました)。

 

 

2018年に発売となった「最新の大全集」は、図らずも「追悼盤」ということに...

 

 

こちらは、1997年3月22日、「音楽」に強いテレビ局、「M6(エムシス)」の企画により行われた、フランス・ギャル(1947-2018)の「アコースティック(プライベート)・ライヴ」からのひとコマです。

 

この、「意外」とも思える「コラボ」が「実現」した背景には、この「la mamma "ラ・マンマ"」の詞を書いたのが、フランス・ギャルの「実父」である、ロべール・ギャル(1918-90)であるということもありますが、それにしても、こうした「共演」を、とても「大切にする」という印象もありますね、アズナヴールには...。

 

こちらは、このライヴの「裏側」を記録した、大変「貴重」な映像です。

 

 

 

この曲、「la mamma "ラ・マンマ"」は、アズナヴール自身が録音する前に、この「レ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソン(シャンソンの友)」によって録音されましたが、これは、アズナヴールの姉、アイーダの勧めによるものだと言われています。

 

こちらは、1965年12月16日、テレビ番組にて歌った時の映像です。

 

こちらは、1972年2月5日との表記がありますが、アズナヴール自身と「共演」した映像です。

 

 

こちらは、1980年代に、モンテカルロ(モナコ)において行われたショーのようですが、ここで共演しているのは、エンリコ・マシアス(1938-)。

 

「l'amour c'est pour rien "恋心"」(1964)、「Solenzara "想い出のソレンツァラ"」(1967)など、「大ヒット曲」を数多く持つ、この方も、「日本」でおなじみの「大歌手」です。

 

これまでの記事

 

 

さて、「10月1日」は、「フランス」のみならず、「世界的」にも大変有名な、「大エンターテイナー」、シャルル・アズナヴール(1924-2018)の「命日」となります。

 

 

私自身は、「名前はもちろん知ってはいるけれど、曲はそれほど多くは聴いていない」というのが、「正直なところ」ではありました...。

 

 

しかしながら、「2016年6月15日」、直前に「公演中止」となったジュリエット・グレコ(1927-2020)(グレコも、この時が、「最後の日本公演」のはずでした...)の「代替」として、「大ファン」であるというユトリロさんに誘われ、私は、このシャルル・アズナヴールの「日本公演」に「初参戦」することになったのです。

 

 

その時の記事

 

 

すでに「92歳」という「高齢」で、この時も、「最後の日本公演」ということになってはいましたが、何とも「生命力」を感じさせる「若々しさ」で、このまま、「100歳」まででも続けられるのではないかという印象を、私たちは持ちました。

 

事実、この「最後の」という「宣伝文句」は、「2年後」には「ウソ」のようにもなってしまいましたが、その「2018年」の「日本公演」は、ご本人の「ケガ(骨折)」により、当初予定されていた日程からは「延期」となりました。

 

 

それでも、「見事な復活」を果たして、「日本」へとやって来たアズナヴール...。

 

 

この、「変更された日程」では、私はどうしても都合がつかず、やむなく「キャンセル」となりましたが、「このこと」が、後々、「大きな後悔」のもととなることに...。

 

 

9月17日に「東京」、19日には、「大阪」での公演を「大成功」させてフランスへと戻ったアズナヴールでしたが、その「直後」である10月1日に、「自宅の浴室」にて、「亡くなられた」ということです...。

 

 

アズナヴール逝去の記事

 

 

「翌年」にも、パリやブリュッセルなどで、「95歳記念ライヴ」を開催する予定だったということですが、この「日本公演」が、「生涯最後の公演」ということになってしまいました。

 

 

「あの日」から、もう「3年」です...。

 

 

今回は、特に「日本で親しまれた曲」とも言われる名曲、「la mamma "ラ・マンマ"」(1963)について書いてみることにしましょう。

 

 

この「la mamma "ラ・マンマ"」というタイトルは「イタリア語由来」であり、また、このタイトル(邦題)にもかかわらず、アズナヴール自身も「ママ」(「マ・マー」と書く方が「近い」かも...)と発音しているようですから、もはや、この表記では「古い」のかも知れませんが、もう、「半世紀以上」も親しまれている、「歌」と「タイトル」ですから、あえて、「このまま」にしておきたいと思います。

 

 

詞を書いたロべール・ギャル(1918-90)という方は、あのフランス・ギャル(1947-2018)の「実父」ということになります。

 

 

「1960年代」においては、その、「娘」であるフランス・ギャルの「サポート(マネージャー/プロデュース)」を「主な仕事」としてはいましたが、むしろ、この「la mamma "ラ・マンマ"」の詞を書いたことで知られていると言った方が良さそうですね。

 

 

この詞は、ロべールが、亡くなったばかりの母親に対する「オマージュ」として書いたものと言われています。

 

 

ロべールは、この詞に「曲」を付けてくれる人を探していたということですが、ある日、アズナヴールの作った、この「哀感あふれるメロディ」に「出合った」ということです。

 

 

「ママが危篤だ」という知らせを聞いて、遠路はるばる駆けつけてきた家族たち。

 

中には、「勘当されたも同然」の者までいる様子...。

 

その「最期の時」を、優しく「見守る」、「祈り」にも似た「名曲」です。

 

 

1997年、テレビ局「M6(エムシス)」の企画で、アズナヴールとの「共演」が「実現」したフランス・ギャル(上掲参照)は、次のように話していました。

 

 

「"ラ・マンマ"を、シャルルと歌った時、私は、再び、幼い少女に戻ったの。

私たちの周りには、(たしかに、)この詞を書いた父や、その"きっかけ"となった祖母の魂がいることを感じたわ...」

 

 

 

この作品は、「英語」、「イタリア語」、「スペイン語」など、「多くの言語」に訳され、歌われています。

 

 

「英語版」は、レイ・チャールズ(1930-2004)の歌でお聴きください。

 

こちらは、アズナヴール自身による「イタリア語版」です。

 

 

以下に、この「la mamma "ラ・マンマ"」(「オリジナル」のフランス語版)の歌詞を載せておくことにいたしましょう。

 

 

それではまた...。

 

..........................................................................................................................................................................................

 

la mamma  ラ・マンマ

 

ils sont venus

ils sont tous la

des qu'ils ont entendu ce cri

elle va mourir, la mamma

ils sont venus

ils sont tous la

meme ceux du sud de l'Italie

y a meme Giorgio, le fils maudit

avec des presents plein les bras

tous les enfants jouent en silence

autour du lit ou sur le carreau

mais leurs jeux n'ont pas d'importance

c'est un peu leurs derniers cadeaux

a la mamma

 

彼らはやって来た

みんながそこに集まった

「ママが危篤だ」という

あの叫びを聞きつけて

彼らはやって来た

みんながそこに集まった

イタリアの南の方から来た人たちもいるし

ろくでなしの息子、ジョルジオまでもが

両手いっぱいに、「みやげ」を抱えてやって来た

子どもたちはみんな、静かに遊んでいた

ベッドの周りや、床の上で

それは、大したことではないけれども

子どもたちからの、ちょっとした、最後の贈りもの

ママ(おばあちゃん)への

 

on la rechauffe de baisers

on lui remonte ses oreillers

elle va mourir, la mamma

Sainte Marie pleine de graces

dont la statue est sur la place

bien sur vous lui tendez les bras

en lui chantant Ave Maria

 

みんながキスをして、ママを温める

枕も直してあげる

ママは危篤だ

恵み深い

聖母マリア様の銅像が広場に立っている

もちろん、マリア様は手を差し延べてくださいますよね

(私たちは、ママのために)「アヴェ・マリア」を歌いながら

 

Ave Maria

y'a tant d'amour, de souvenirs

autour de toi, toi la mamma

y'a tant de larmes et de sourires

a travers toi, toi la mamma

 

「アヴェ・マリア」を...

たくさんの愛と、思い出がある

ママ、あなたの周りには

たくさんの涙と、微笑みもある

ママ、あなたを通して

 

et tous les hommes ont eu si chaud

sur les chemins de grand soleil

elle va mourir, la mamma

qu'ils boivent frais le vin nouveau

le bon vin de la bonne treille

tandis que s'entassent pele-mele

sur les bancs, foulards et chapeaux

c'est drole, on ne se sent pas triste

pres du grand lit et de l'affection

y a meme un oncle guitariste

qui joue en faisant attention

a la mamma

 

太陽の照り付ける道で

男たちはみな、とても暑い思いをした

「ママが危篤だ」という声を聞きつけて

彼らは、冷えたワインの新酒でのどを潤す

良質な畑で育ったブドウのワインだ

その間、長椅子には、スカーフや、帽子が

ごちゃまぜになって積み上げられていた

おかしなことに、「悲しみ」は感じない

大きなベッドのそばで、愛情に包まれて

ギタリストの叔父も

ママに気を配りながら

ギターを弾いていた

 

et les femmes se souvenant

des chansons tristes des veillees

elle va mourir, la mamma

tout doucement, les yeux fermes

chantent comme on berce un enfant

apres une bonne journee

pour qu'il sourie en s'endormant

 

そして女たちは、通夜の悲しい歌を

思い出しながら

「ママが危篤です」と

とても密やかに、その眼を閉じて

子どもをあやすように、女たちは歌う

良い一日を過ごした後で

微笑みながら、眠りにつけるようにと

 

Ave Maria

y'a tant d'amour, de souvenirs

autour de toi, toi la mamma

y'a tant de larmes et de sourires

a travers toi, toi la mamma

 

「アヴェ・マリア」を...

たくさんの愛と、思い出がある

ママ、あなたの周りには

たくさんの涙と、微笑みもある

ママ、あなたを通して

 

que jamais, jamais, jamais

tu ne nous quitteras...

 

いつまでも、いつまでも、いつまでも

私たちのもとを離れないで...

 

(daniel-b=フランス専門)