天国の書 第7巻(8) | それゆけだんごむし!ーカトリック

それゆけだんごむし!ーカトリック

マリア様が大好きなカトリック信者です。

外国のサイトより
神のはしためルイザ・ピッカレータ 
被造界における神の王国
「天国の書」
「主イエス・キリストの受難の24時間」
「神の意志の王国における聖母マリア」
「ラウンドの祈り」などを紹介しています。

 

    

天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第7巻(8)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 8 】

 

1906年12月6日

  イエスは魂の行動を見るために隠れる。

 

1906年12月15日

 神の意志がすべてのものをどのように含んでいるか。

 

1907年1月3日

  真の信頼は魂の中に神の生命を再現する。

 

1907年1月5日

 真の聖性とは、私たちに起こるかもしれないあらゆることを、神の愛の特質として受け入れることである。

 

◆1907年1月10日

  自分の好みの弊害

 

◆1907年1月13日

  イエスは人間性をやり直すために、ご自分の人間性において苦しむことを望まれた。

 

◆1907年1月20日

  最も偉大な神聖さとは、神の意志の中に生きることである。

 

◆1907年1月21日

  常にイエスを愛する者は、イエスの機嫌を損ねることはできない。

 

◆1907年1月25日

 懲罰。彼女は無人の都市を見る。

 

◆1907年2月20日

  恵みとの交流が途絶える。

 

 

 

1906年12月6日

イエスは魂の行動を見るために隠れる。

 

ほとんど完全な窮乏状態で、しかも閃光か影のように主がやって来るだけなのですが、私は自分の中でこうつぶやいていました。

 

「私のいのちの命よ、どうして来てくださらないのですか?ああ、あなたは私になんと残酷なことをなさるのでしょう!私の言葉に耳を貸さないなんて、あなたの心はどれほど硬くなったのでしょう。あなたの約束はどうなったのですか? あなたの愛よ、あなたは私を不幸の淵に置き去りにして、どこに行かれたのですか? それでもあなたは私を決して捨てないと約束してくださいました。あなたは私を愛しているとおっしゃいましたが、今は?今は?あなたはあなたを本当に愛しているかどうかを知ることができるのは、その人の不変性からであり、もし不変性がなければ、人はこの愛に頼ることはできないと私におっしゃいました。それなのに、どうしてあなたのいのちを形作らない私にそれを求め、私のいのちであるあなたがそれを否定するのはどういうわけですか?」

 

ですが誰が私の虚言のすべてを語ることができるでしょうか。長すぎます。

 

そうしていると主は私の内面で動き、私を支えるために腕を上げ、私にこう言われました。

 

「私はあなたの中にいて、あなたの行いを見るために、さらにあなたの内に隠れます。私は約束においても、愛においても、不変においても、何一つ怠っていません。もしあなたが不完全であるなら、私はあなたに対して完全さをもってそれを行ないます。」

 

そしてイエスは姿を消しました。

 

 

 

1906年12月15日

神の意志がすべてのものをどのように含んでいるか。

 

いつもの状態を続けていた私は、主の窮乏のために、これまで以上に憤りを感じていました。ある瞬間、私は神の意志に吸い込まれるような感覚を覚え、自分の内面がすべてなだめられ、自分自身を感じなくなりました。しかし神の意志はすべてにおいて、たとえ主の窮乏のなかでさえ、神聖な意志だけが存在しています。私自身、自分に言い聞かせるように言いました。

 

「この神聖なる意志は、自分自身のことを忘れさせ、神聖なる意志をすべてに流れ込ませるような、なんという強さ、なんという魅惑、なんという磁力を秘めているのでしょう。」

 

その瞬間、主は私の内面に入り、こう言われました。

 

「娘よ、神聖な意志は、魂にふさわしいすべての味と風味を一緒に含む唯一の滋養のある食べ物です。魂は自分の好物を見つけ、なだめられます。魂の欲望は食べ物を見つけ、ゆっくりと自分を養うことだけを考え、何も望まずに形成されます。魂の欲望には他に向かうべきものはありません。なぜなら、満足する食べ物を見つけたからです。魂の意志は他に何もありません。なぜなら魂が自分を苦しめていた意志から離れたからです。そして、魂の幸福を形作る神の意志を見つけました。魂は貧しさから抜け出し、人間ではなく、神聖な豊かさを手に入れました。要するに、魂の内側のすべては、その食べ物、つまり、それ以上進むことが出来ないほどに占領され、夢中になっているその細工を見つけるのです。実際、魂はこの食べ物と細工にあらゆる満足を見出す一歩で、やるべきこと、学ぶべきこと、楽しむべき新しいことに気づきます。そして重要ではない分野から、主要な分野を学び、常に学ぶべきことがあります。魂は小さなものから大きなものへと、ある味から他の味へと移り、そして、この神の意志の環境の中で、常に何か新しいものを味わうことができるのです。」

 

 

 

1907年1月3日

真の信頼は魂の中に神の生命を再現する。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少し見え、イエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、もし人が多くを恐れるなら、それは人が自分自身に多くを頼りにしている証拠です。というのも、自分の中に弱さや惨めさしかないことに気づかない人間は自然に、そして当然のように恐れるからです。 一方、何も恐れないなら、それは人が神に頼っている証拠です。なぜなら、神に頼ることによって、人の惨めさや弱さは神の中に吸収され、人が神聖な存在に動かされていると感じるとき、もはや行動するのは人ではなく、魂の中にいる神だからです。 それならば人は何を恐れることができるのでしょうか? それゆえ、真の信頼は魂の中に神聖な生命を再現するのです。」

 

 

 

1907年1月5日

真の聖性とは、私たちに起こるかもしれないあらゆることを、神の愛の特質として受け入れることである。

 

すべてについて呵責を感じ、すべてが罪かもしれないと恐れる魂について読んだとき、私はこう考えていました。

「それで私は?なんていい加減なのでしょう! 私も主を傷つけないように気を配るために、すべてが罪かもしれないと思いたい。」

 

それから、祝福されたイエスがお出でになられたとき、私にこう言われました。

 

「娘よ、これはナンセンスであり、魂は聖性の道にとらわれたままです。真の確かな聖性とは、自分に起こるかもしれないこと、あるいは自分がしているかもしれないことを何でも受け入れることであって、それが無関心なことであっても、神の愛の特質として、ちょうど、食べ物を美味しいと感じるか不味いと感じるときと同じように受け入れることです。その楽しみを食べ物に生み出しているのはイエスであり、楽しみの中の愛の特質であり、物質的なものにも喜びを与えるほどに魂を愛しておられると考えなさい。嫌悪感の中にある愛の特質、それは魂が悔い改めて自分と似たものにさせるために、魂に嫌悪感を抱かせ、魂が神に捧げることのできるコインを授けるほど、魂を愛しておられると考えなさい。辱められても、高められても、健康であっても、病弱であっても、貧しくても、裕福であっても、神の愛の特質なのです。呼吸、視力、話し方…、すべて、すべてを愛する特質。そして魂がすべてを神の愛の特質として受け取らなければならないのと同じように、すべてを神の愛の特質として神に返さなければなりません。ですから、魂は神の愛の波を受けなければならないし、自分の愛の波を神に捧げなければなりません。ああ、この愛の波はなんと神聖な浴槽なのでしょう! それは魂を浄化し、聖別し、魂が気付かないうちに昇華させます。それは地上よりも天国の生活です。これこそ私があなたに求めているものです。罪と罪の思いはあなたの中に存在してはなりません。」

 

 

 

1907年1月10日

自分の好みの弊害

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、被造物は自分の好みに執着するあまり、私は自分の贈り物を自分の中に封じ込めることを余儀なくされています。実際彼らは与え主に執着する代わりに、私の贈り物に執着し、私の贈り物を偶像崇拝し、与え主を侮辱しています。だから、自分の好みを見つけたら、行動する——というより、行動せず、ただ自分の好みを満足させるだけなのです。旨味がなければ何もしません。つまり、自分の好みは被造物の中で第二の人生を形成するのです。しかし、惨めな者たちよ、あなたたちは自分の好みが存在するところに、たとえ神聖なものであっても神の好みはほとんど存在しないことを知らないのです。だから、私の賜物、恵み、恩恵を受けるとき、魂はそれらを自分のものとして利用し、自分の好みにしてはなりません。むしろ、それらを神聖な味として保ち、主をより愛するために用い、まさにその愛のためにそれらを犠牲にする準備が出来ていなければなりません。」

 

1907年1月13日

イエスは人間性をやり直すために、ご自分の人間性において苦しむことを望まれた。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスが一瞬お姿をお見せになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、私がどれほど魂を愛しているか! よく聞きなさい。人間の本性は脱落し、屈辱を受け、栄光と復活の希望もありませんでした。だから私は、自分の人間性において、あらゆる屈辱を味わいたいと思ったのです。 特別な方法で私は被造物の人間性をやり直し、永遠の命に命と誉れと栄光に満ちて再び甦らせるために、私は裸にされ、鞭打たれ、私の肉が鞭の下でズタズタに引き裂かれ、私の人間性がほとんど失われてしまうことを望みました。私がしていないことを、これ以上何ができるでしょうか?」

 

 

 

1907年1月20日

最も偉大な神聖さとは、神の意志の中に生きることである。

 

二人の聖女の生涯を読み、一人は苦しみを切望し、もう一人は小さくなりたいと切望していたので、私はどちらを真似するのがよいかと心の中で考えていましたが、どうにも決められず、まるで妨げられているように感じました。ですから、自由になるために、主を愛することだけを考えるために、私は自分にこう言い聞かせました。

 

「私は神を愛し、神の聖なる意志を完璧に行なうことだけを切望したいのです。」

 

そのとき、主が私の心の中でこう言われました。

 

「そしてあなたを望んでいるのは私の意志です。一粒の麦が土に埋もれて完全に死ぬまでは、再び新しい生命に甦り、他の麦に生命を与えて増えることはできません。同じように、魂が私の意志の中に埋葬され、その意志のすべてを私の意志の中に溶かして完全に死ぬまでは、魂は真の神聖さを含むキリストのすべての徳の高まりを通して、新しい神聖な生命へと再び甦ることはできません。それゆえ、私の意志を、あなたの内面と外面を封印する印としなさい。そしてひとたび私の意志があなたの内に完全に昇華すれば、あなたは真の愛を見出すでしょう。そしてこれこそが、人の目指すことのできる他のあらゆる神聖さの中で最も偉大なものです。」

 

 

 

1907年1月21日

常にイエスを愛する者は、イエスの機嫌を損ねることはできない。

 

いつもの状態に気づいた私は、心の中でこうつぶやきました。

 

「主よ、私がすべてあなたのものとなり、いつもいつもあなたと共にあり、決してあなたから離れることのないようにしてください。しかし、私があなたと共にいる間、私があなたを苛立たせ、あなたを悩ませ、あなたを不愉快にさせるような杭となることをお許しください。しかしそれは、あなたが疲れたり、抑圧されたりしているときにあなたを支え、あなたが他の被造物に悩まされているときにあなたを慰めるために、あなたの中に存在する鞭となるためです。」

 

そうつぶやいているとき、祝福されたイエスが言いました。

 

「娘よ、私を常に愛する者は、常に私と共にあり、決して私を悩ませる杭にはなりません。しかし、私を支え、私を和らげ、なだめる鞭です。実際、真の愛は、愛する者を満足させるものです。それは最愛の人のために表現されます。その上、常に私を愛している者は、決して私を不愉快にすることはできません。なぜなら、愛がその人全体を溶かし入れるからです。魂は、ほんの小さなことで私を不愉快にさせることに気づいてもいないかもしれませんが、しかし、愛のそのものが魂を浄化するという約束を引き受け、常に魂の中に私の喜びを見出すことができるようにしてくれるのです。」

 


 

 

1907年1月25日

懲罰。彼女は無人の都市を見る。

 

私は祝福されたイエスのほとんど絶え間ない窮乏のために、最も苦い日々を過ごしています。主は一瞬お姿を現すだけで、すぐに私の内面の奥深くに静かに隠れてしまい、そのお姿をとらえることさえできません。それで、私が苦しんだ末に、主を会ったとき、主がすっかり苛立ち、虐げられているのを見て、私はイエスに言いました。

 

「せめて教えてください。何があなたをそんなに苦しめているのですか?」

 

そして主は、私を満足させるためだけに、嫌々ながら私に言いました。

 

「ああ、娘よ、あなたは何が起こるか知りません。もしあなたに話したら、あなたは私の憤りを打ち砕き、私がしなければならないことが出来なくなります。だから黙っているのです。ですから、この期間に私があなたに対してとる行動については、気持ちを落ちつけなさい。しかし、勇気を出しなさい。それはあなたにとってとても辛いことですが、しかし、戦士のように寛大な者として、常に生きているがまるで死んだかのように、私の意志の中で泣くことさえせずにそれを行ないなさい。」

 

そう言うと、主は私の内面の奥深くに隠れてしまい、私は呆然となり、主の窮乏のために泣くことすらできませんでした。

 

なので、従うために書きますが、一ヶ月前から現在まで、私は自分の外にいる自分を見つけるだけでした。それは夢かもしれませんが、荒れ果てた場所、閑散とした都市、家々が閉ざされ、誰も歩かない通りを見ているようでした。そして人々の亡骸。これらのことを目の当たりにした私の恐怖は、意識が朦朧としてしまうほどした。私もまた、寡黙で沈黙を守ることで、私の善きイエスに倣いたいと思います。なぜそうなのかは分かりません、私の光であるイエスが何も語られないからです。私はただ従うためだけにこれを書きました。神に感謝。

 

 

 

1907年2月20日

恵との交流が途絶える。

 

それはいつもの沈黙の中で、主と共に、通りすぎるように、そして閃光のように続いています。私は苦い思いで毎日を過ごし、まるでぼーっとしているかのようです。まるで私の内面全体が雷に打たれたかのように、前にも後ろにも動けなくなります。私自身、自分の内面で何が起きているのか話すことができません。なので、それを話すよりは黙っている方がいいと思います。そして今朝、主はほんの少しだけお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、私の恩寵にかなわない者は、盗みをして生きる鳥のようです。同じように、魂は盗みを働いて生きているにすぎません。魂は私の恵みを盗み、生きていながら私を認めず、私を怒らせることさえあります。」

 

そして主は閃光のように消え去り、私は以前より混乱したままでした。

 

(9)に続く…

 



ヨハナ通信

 

天国の書「第7巻」次回で終わる予定です。

その後、引き続き「第8巻」を始めます。

目標は「第36巻」までです!! 遠い~(T_T)/~~~

 

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

Nos com prole pia, benedicat Virgo Maria.

 

 

 

 

私個人の判断で、基本的にフォロワーさんが50人を越え、

またご自分のフォローされている方が50人を越えている方の

フォローは整理させていただいています。

明かにスピリチュアルな方もお断りいたします。

または非公開でのフォローでお願いします。