天国の書 第7巻(7) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第7巻(7)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 7 】

 

1906年10月31日

  魂は苦しみが増すたびに、自分の中にもう一つの王国を手に入れることができる。

 

1906年11月6日

 神の意志に生きる魂の信仰と希望。

 

1906年11月9日

 受難について黙想し続けることの価値。

 

1906年11月12日

  魂は時の中でイエスに住まいを与え、イエスは永遠の中で魂に住まいを与える。

 

◆1906年11月14日

  十字架は天の御国の境界を広げる。

 

◆1906年11月16日

 宗教的な犯罪と世俗的な犯罪の違い。

 

◆1906年11月18日

 内面的な精神とまっすぐな意志のない行いは魂を肥大化させる。

 

◆1906年11月20日

  従順は魂に神の強さを伝える。

 

◆1906年11月28日

  イエスと共に活動することの価値。

 

◆1906年12月3日

 魂の甘美と平安。

 

 

 

1906年10月31日

魂は苦しみが増すたびに、自分の中にもう一つの王国を手に入れることができる。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがお出でになり、私にこう言いました。

 

「娘よ、魂が苦しむ苦しみのひとつひとつが、魂が自分自身に対して獲得するもう一つの制圧です。実際、苦しみの中での忍耐は支配であり、自らを制圧することによって、苦しめば苦しむほど、より多くの支配権を獲得します。魂が天の王国を拡大し、永遠のいのちのために莫大な富を手に入れることに他なりません。だから、あなたの苦しみが増えるたびに、魂の中にもう一つの王国が増え、『美徳の王国と、栄光の王国に匹敵する恵みの王国』を手に入れると考えなさい。」

 

 

 

1906年11月6日

神の意志に生きる魂の信仰と希望。

 

私はいつものように祈っていました。—— 何をするにしても、まるで主と共に、主ご自身の御心で行っているかのように。私は使徒信条を唱えていましたが、自分でも気づかないうちに、イエス・キリストの信仰によって、多くの不信仰を償い、すべての人に信仰の賜物を与えることを望んでいると言っていました。その時、主は私の内面で動き、こう言われました。

 

「あなたは間違っています。私には信仰も希望もなかったし、それらを持つことも出来ませんでした。なぜなら私は神そのものであり、私は愛だけであったからです。」

 

「愛」と聞いて、私は愛だけになれることがとても心地よかったので、私は注意も払わずに、さらにくだらないことを話しました。

 

「主よ、私もあなたのようになりたいのです。すべては愛で、他には何もないように。」

 

主はこう付け加えました。

 

「これが私の目標であり、私がしばしば完全な諦めについてあなたに語るのは、このためです。なぜなら、私の意志の中に生きることによって、魂は最も英雄的な愛を獲得し、私自身の愛で私を愛するところまで到達するからです。魂はすべての愛となり、すべての愛となることで、私と絶え間なく触れ合います。だから魂は私と共にあり、私の中にいて、私のために私の望むことをすべて行なってくれます。また魂は、私の意志以外のものを何も動かさず、望ます、その意志には永遠なるもののすべての愛が封じ込められ、魂自身も封じ込められたままとなります。このように生きることによって、魂は信仰と希望をほとんどなくします。なぜなら、神聖な意志の中に生きるようになると、魂はもはや信仰と希望とのつながりを感じなくなるからです。魂は神の意志の中で生きているので、もし魂が神の意志を見いだし、それを自分の食べ物にしているとしたら、魂は何を信じなければならないのでしょうか?もし魂が神の外ではなく、神の中に生きることによって、すでにそれを所有しているのだとしたら、魂は何を望まなければならないのでしょうか? それゆえ、真の完全な諦めは、魂が神を確実の所有するための確かな予定の印なのです。 分かりましたか?よく考えてみなさい。」

 

私はまるで魔法にかけられたかのようにその場に留まり、自分に言い聞かせました。

 

「本当に人はこんなところにまでたどり着けるの⁉」と、私は疑って言いました。「もしかしたら神は私が何をするのかを見るために私を誘惑し、私にもっとくだらないことを言う場を与え、私のプライドがどこまで達するのかを見せたかったのでしょう。しかし、くだらないことを話すのは良いことです。少なくとも誰かが彼に何かを言わなければなりません。そして、人を死から生へと甦らせる主の声を聞くと言う恵みをいただけます。」そして他にどんなくだらないことを言えるか考え続けました……。その瞬間、主が再び動かれ、こう付け加えられました。

 

「私を誘惑しようとしているのはあなたであって、私ではありません。それに私の真理を疑うのはやめなさい。」

 

そして主は沈黙しました。

 

私は混乱し、主が私に言われたことを考え続けました。しかし、誰がすべてを語ることができるでしょう?これらは表現することができないものです。

 

 

 

1906年11月9日

受難について黙想し続けることの価値。

 

いつもの状態に戻った私は、主の受難について考えていました。そうしているうちに主がお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、私の受難について絶えず黙想し、それに対する悲しみと、私に対する憐れみを感じる人は、私をとても喜ばせ、私の受難の道のりにおいて私が受けたすべての苦しみが慰められたかのように感じます。そして常に受難を黙想することで、魂は継続的な食べ物を準備することができるようになります。この食べ物には様々なスパイスや風味があり、それが様々な効果を生み出してくれます。ですから、私の受難の道のりで、彼らが私を縛るために縄と鎖を加えたとしても、魂は私を解放し、私を自由にしてくれます。彼らは私を軽蔑し、唾を吐きかけ、私を辱めましたが、魂は私に感謝し、唾から私を清め、私を敬ってくれます。彼らは私を裸にし、鞭打ちましたが、魂は私を癒し、私に服を着せてくれます。彼らは私に茨の冠をかぶせ、私を王と嘲り、私の口を胆汁で苦しめ、十字架につけましたが、魂は私のすべての苦痛を黙想し、私に栄光を冠し、私を王として敬い、私の口を甘美で満たし、私自身の行いの記憶である最もおいしい食物を私に与えてくれます。そして、私を十字架の釘から解放し、心の中で私を再びよみがえらせてくれます。そして、魂がそうするたびに、私はその報いとして、魂に新しい恵みのいのちを与えるのです。魂は私の食べ物であり、私は魂の継続的な食べ物になります。ですから、私を最も喜ばせることとは、私の受難について絶えず黙想することなのです。」

 

 

 

1906年11月12日

魂は時の中でイエスに住まいを与え、イエスは永遠の中で魂に住まいを与える。

 

いつもの調子で、私は祝福されたイエスにこう言いました。

 

「ああ、私はどんなにあなたを愛したいと望み、あなたにもっと愛されたいと願っていることでしょう!」

 

そして主は私の内面でこう言われました。

 

「私はあなたを愛しているので、決してあなたから離れることはありません。そして私は絶えずあなたの中に住んでいます。」

 

そして私は

 

「私の中に住んでくださるあなたのご厚意に感謝しますが、私はそれだけでは満足できません。あなたの中に住むことが出来れば、さらに満足し、安心できるでしょう。」

 

そして主は

 

「ああ、わが娘よ、やがてあなたは私に住まいを与え、そして永遠に私は住まいをあなたに与えましょう。そして、あなたの中に住まわれる方が、あなたの住まいを堅固なものとし、どんな危険からも遠ざけてくださる力を持っていることを確信し、満足しなさい。」

 

 

 

1906年11月14日

十字架は天の御国の境界を広げる。

 

ああ、主の窮乏のために、私はどれほどもがき苦しんだことでしょう!それから長い時間が経った後、主はふとお姿を現し、私にこう言いました。

 

「娘よ、完全な諦めが予定説の確かな印であるなら、十字架は天の御国の境界を広げるものです。」

 

そして主はあっと言う間に姿を消しました。

 

1906年11月16日

宗教的な犯罪と世俗的な犯罪の違い。

 

いつもの状態でいるとき、私は司祭や修道者が犯した多くの罪と、そのために祝福されたイエスが感じた大きな悲しみを見ました。驚いて私は言いました。

 

「私の愛しい命よ、宗教的な人々があなたを傷つけるのは事実ですが、世俗的な人々はもっとあなたを怒らせるように私には思えます。しかし、あなたは前者に対して、後者よりも大きな悲しみを示されるようです。あなたは第一の者がしていることのすべてに目を向けますが、第二の者がしていることには目を向けないようです。」

 

そして主は

 

「ああ、娘よ、あなたは宗教的な罪と世俗的な罪の違いを理解できません。だからあなたは驚くのです。修道者たちは私に属し、私を愛し、私に仕えると誓い、私は私の恩寵の宝を彼らに託し、秘跡の宝を司祭である他の者たちに委ねました。外見上は私に属しているふりをしていますが、その内面では必要に応じて私から遠く離れます。彼らは私を愛し、私に仕えているように見せながら、私を傷つけ、聖なる者を自分の欲望のために用います。だから私は彼らが私の贈り物と私の恵みを台無しにさせないように、彼らから目を離せないのです。しかし、私の心遣いにも関わらず、彼らは外見上は私を讃えているように見えるものすべてで、大混乱を引き起こすところまでに達しています。この罪はあまりにも重いもので、もしあなたがそれを理解できたとしたら、ショックのあまり死んでしまうでしょう。一方、世俗的な人々は、自分は私に属していない、私を知らない、私に仕えることを望んでいないと宣言します。そのおかげで、まず第一に、彼らは、私を最も不快にさせる偽善の精神から解放されます。ですから、彼らが自ら宣言して以来、私は彼らに私の贈り物を託すことが出来ませんでした。たとえ恩寵が彼らを駆り立て、彼らと戦っても、彼らがそれを望まないので、恩寵は与えられませんでした。それは、他の王たちによって拘束されている奴隷状態に置かれている諸民族を解放するために戦いを挑み、血の力によって諸民族の一部を解放することに成功した王のようなものです。それから彼らを自分の支配下に置き、彼らのためにすべてを与え、必要ならば彼らを自分の住居に住まわせました。それでは彼の機嫌を損ねたら、誰がもっと機嫌を損ねるでしょうか? 彼から遠く離れたままでありながら彼が解放を望んでいる人々でしょうか、それとも彼と共に生きている人々でしょうか?」

 

 

 

1906年11月18日

内面的な精神とまっすぐな意志のない行いは魂を肥大化させる。

 

私はいつもの状態で祝福されたイエスの影しか見えませんでしたが、イエスは「娘よ、もし食べ物をその本質から切り離され、誰かがそれを食べてしまったら、それは何の役にも立たないでしょうが、彼の胃を膨らませるのには役立つでしょう。そのようなものは、内面的な精神のない、まっすぐな意志のない行いと言えます。神聖な本質が空っぽである以上、何の役にも立たず、ただ人を肥え太らせるだけです。それゆえ、彼は益よりも害を受けるのです。」

とだけ言われました。

 

 

 

1906年11月20日

従順は魂に神の強さを伝える。

 

私の哀れな状態は続いており、絶え間ない窮乏のために苦い思いに満ちていますが、同時に平和も満ちています。主が通り過ぎ、私にこう言っているのが見えました。

 

「娘よ、従順はゆるぎない壁であり、魂を堅固にするものです。それだけでなく、揺るぎない存在であるためには、強くてたくましくあることが必要であり、従順は神の強さを伝えるものです。それが持つ神聖な力の前では、すべては弱いものです。従順は何でも動かすことが出来ますが、何ものもそれを揺るがすことはできません。」

 

そして主は消えました。

 


 

 

1906年11月28日

イエスと共に活動することの価値。

 

憐れな状態が続けていると、かろうじて祝福されたイエスを見ました。主は私が息をすれば、私の中に主の呼吸を感じることができるように、ご自分のすべてを私に変えてくださいました。私が片方の腕を動かすと、主の腕が私の腕の中で動くのを感じ、ほかのすべての部分もそうでした。そうしているうちに主はわたしに言われました。

 

「私の最愛の娘よ、私があなたとどれほど緊密な絆で結ばれているかを見なさい。完全に一つとなり、私に留められています。これこそ私があなたに望む姿です。そして苦しむときや祈るときだけそうしなければならないと考えるのではなく、むしろ、いつも、いつもです。もしあなたが動くなら、もしあなたが呼吸するなら、もしあなたが働くなら、もしあなたが食べるなら、もしあなたが眠るなら—— すべて、すべて、あたかもあなたが私の人間性の中でそれを行なっているかのように、あなたの働きが私から来ているかのように、あなたは皮以外のなにものでもないように。あなたの仕事の皮がひとたび壊されれば、人は神聖な仕事の実りを見出すでしょう。そしてこれは、人類全体の利益のために、私の人間性が人々の中心で生きているかのように行なわなければなりません。実際、あなたがすべてのことを、たとえ最も無関心な行為であっても、私から命を受け取るというこの意図をもって行うとき、あなたの行為は私の人間性の功徳を受け取ります。なぜなら、私は人間であり神であったので、私の呼吸の中にすべての人間の呼吸が含まれていたからです。身振り、行動、思考…。私はすべてを自分の中に封じ込めました。だから私は彼らを聖別し、神格化し、修繕しました。だから、あなたのすべての働きを私から受け取るという行為の中ですべてを行なうことによって、あなたもまた、すべての被造物を自分の中に受け入れ、封じ込めるようになり、あなたの働きはすべての人の善のために拡散していきます。それゆえ、たとえ他の人々が私に何も与えなくても、私はあなたからすべてを受け取るのです。」

 

私は馬鹿げたことばかり話しているようです。これらは内面のことなので上手く言えません。頭の中にあるままに書きたいのですが、書くことが出来ません。一滴の光を浴びても、100滴の光が逃げていくようです。黙っていた方がよかったのかもしれませんが、いずれにせよ、すべては神の栄光のためでありますように。

 

 

 

 

1906年12月3日

魂の甘美と平安。

 

祝福されたイエスがお出で下さらなかったので、私はとても苦しい思いをしました…。それだけでなく、私の内面には落ち着きを失いそうになるような、ある種の動揺がありました。ああ、神よ、なんという痛みでしょう!これに比べれば、他のすべての苦しみは影にすぎません。いえ、むしろ爽やかです。あなたの窮乏だけが痛みと言う名前を与えることが出来ます。

 

さて、私がそわそわしていると、主は私の内面から出て来て、私にこう言われました。

 

「どうしたのですか?落ち着きなさい、落ち着きなさい。私はここにいます。あなたと共にいるだけでなく、あなたの中にもいます。そして私は、この落ち着きのない心を望んでいません。私について語られていることがあなたについても語られているように、あなたのすべてが甘美で平安でなければなりません。 私の内には乳と蜜しか流れておらず、蜜の甘さ、乳には平安が流れています。私はそれらに満たされ、浸されているので、私の目から、私の口から、そして私のすべての作品から溢れ出るほどです。 そして、もしあなたが同じようでないなら、私はあなたに名誉を傷つけられたことになります。 なぜなら、すべての平安と甘美を備えておられるお方があなたの内に宿っておられるのに、あなたは憤りや落ち着きのない心の影をわずかでも見せることによって、私を敬わないからです。 私はこの甘美さと平安をとても愛しているので、たとえそれが私の名誉と栄光に関わる大きなことであったとしても、私は決して憤慨するような、暴力的で、激しい作法は望まないし、決して認めず、むしろ甘美で平和な作法を望んでいます。 実際、甘さだけが心を鎖のように縛り、それを解くことができないようにするのです。それはまるで張り付いた石のようなもので、それらを放すことが出来ず、こう言わざるをえません。『この魂には神の指がある。そうでなければ、私たちは行動できないからです。』 そして、もし私が憤慨するような態度を好まないなら、被造物でさえそれを好まないでしょう。 もし人が、たとえ神のことであっても、甘美で平和的でない態度で話したり、扱ったりするなら、それはその人の情熱がきちんと整っていない証拠です。 自分の秩序を守らない人は、他人に命令することはできません。だから、私の名誉を傷つけたくないのなら、甘美と平安でないものには気を付けなさい。」

 

 

(8)に続く…

 



ヨハナ通信

 

天国の書「第7巻」もう2回の更新で終わる予定です。

その後、引き続き「第8巻」を始めます。

目標は「第36巻」までです!! 遠い~(T_T)/~~~

 

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

Nos com prole pia, benedicat Virgo Maria.

 

 

 

 

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