天国の書 第6巻(8) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第6巻(8)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 8 】

 

1904年9月28日

  自分を抑えることは、王国を手に入れることよりも価値がある。

 

1904年10月17日

  神性を見出すためには、キリストの人間性と、キリストの大いなる意志そのものと一つにならなければなりません。

 

◆1904年10月20日

 互いに噛み合う司祭たち。

 

◆1904年10月25日

 「言葉」とは、顕現、対話、神と人間との結合を意味する。

 もしみことばが受肉していなかったら、神と人を結び付ける手段は他にはなかっただろう。

 

◆1904年10月27日

 ルイーザは、正義が人々を罰することができるように、正義のために少しの空白を形成するために、苦しむことなく残っている。

 

◆1904年10月29日

 恩寵の連鎖は忍耐強い業と結びついている。

 すべての悪は忍耐力の欠如にひそんでいる。

 

◆1904年11月13日

 被造物は自由意志がなければ、決して神の愛に値することはなかっただろ

う。

 

◆1904年11月17日

 魂はいかにしてイエスの糧となるのか。

 

◆1904年11月18日

 地上におけるイエスの天国とは、イエスの神性に住まいを与える魂たちのことである。

 

◆1904年11月24日

 与えるために、そして受け取るためには、意志の合致が必要である。

 

 

 

 

J.M.J.

父と子と聖霊の御名によりて。

 

 

 

1904年9月28日

自分を抑えることは、王国を手に入れることよりも価値がある。

 

今朝、私の最も甘美なイエスが来られなかったので、とてもつらい時間を過ごしました。私は自分を無理やり抑え込みながら、自分に言い聞かせました。

 

「私は何のためにここにいるの?自分を押しつぶし続けることに何の価値があるの?」

 

そんなことを考えていると、主が閃光のように現れ、私にこう言われました。

 

「自分を抑えることは、王国を手に入れることよりも価値があります。」

 

そして主は姿を消しました。

 

 

 

 

 

 

1904年10月17日

神性を見出すためには、キリストの人間性と、キリストの大いなる意志そのものと一つにならなければなりません。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、神性を見出すためにはキリストの人間性というベールを通して行動することが必要です。あたかもキリストの意志と魂の意志が一つであるかのように、キリストを喜ばせるためだけに、キリストの人間性、キリストの意志そのものと一体となって行動することです。すべてをキリストに向け、魂の行うすべてのことにおいてキリストを呼び、あたかもキリスト自身がキリストの行動そのものをするかのように、キリストのやり方で行動することです。そうすることで、魂は神と絶えず結びついていることに気付きます。事実、キリストにとって、その人間性は、神性を覆う一種のベールに他なりませんでした。それゆえ、これらのベールの中で活動することによって、魂は、すでに神と共にある自分に気が付くのです。キリストの最も聖なる人間性を通して行動することを望まずにキリストを見つけようと願う者は、皮の無い実を見つけたいと願う人のようなもので、それは不可能です。」

 

 

 

 

1904年10月20日

互いに噛み合う司祭たち。

 

今朝私は自分の外に出て、沢山の小さな犬が互いに嚙み合っている道路の真ん中にいることに気付きました。そしてこの道の先には、それらが互いに噛み合っているのを見ている修道者がいました。彼はそれらの声を聞き、悩み、自然な視力で物事を見ていました。一方、彼は物事を深く吟味することもなく、真理を知るための超自然的な光も持たずに話していました。

 

そうこうしているうちに、私は、ある声を聞きました。

 

「この人たちは互いに噛み合っている司祭たちです。」

 

その修道士は、司祭たちが噛みついているのを見ている、神の助けを欠いている訪問者のようでした。

 

 

 

1904年10月25日

「言葉」とは、顕現、対話、神と人間との結合を意味する。

もしみことばが受肉していなかったら、神と人を結び付ける手段は他にはなかっただろう。

 

いつもの状態で、とても苦しんだ後、主が来られました。私は彼を見るやいなやこう言いました。

 

「みことばは肉となり、私たちの間に住まわれた。」

 

そして祝福されたイエスはこう付け加えました。

 

「みことばは肉をとりましたが、肉のままではありませんでした。彼は変わらずにいました。そして『みことば』が『言葉』を意味し、言葉以上の影響力を持つものがないように『言葉』は顕現、対話、神と人間との結合を意味します。ですから、もしみことばが肉体をとらなかったら、神と人を結び付ける手段は他になかったでしょう。」

 

そう言って、イエスは姿を消しました。

 

 

 

1904年10月27日

ルイーザは、正義が人々を罰することができるように、正義のために少しの空白を形成するために、苦しむことなく残っている。

 

いつもの状態でいる時、私はとても動揺していました。それは、私の唯一無二の善がほぼ完全に取り上げられていたからというだけでなく、自分が外にいることに気付いたとき、まるでイタリアが他の国との戦争に巻き込まれているかのように、人々が多くの犬のように互いに殺し合っているのを見たからです。多くの兵士が出征していくのが見えましたが、群衆が群衆を呼び、犠牲者が出ると、さらに多くの兵士が招集されました。私がそれほどの抑圧を感じていたかは誰にも分かりません。ほとんど苦しみを感じなかったのでなおさらです。だから私は嘆き悲しみ、自分に言い聞かせました。

 

「なぜ生きているのでしょう? イエスはお出でにならず、苦しみは欠けています。私の最も大切で切っても切れない伴侶、イエスと苦しみは私のもとを去りました。それなのに私は生きているのですか? この二人がいなければ私は生きていけないと思っているほど、二人は私にとって切り離せない存在でした。それなのに、私はまだ生きている? おお、神よ、なんという変化、なんという苦痛、なんという言いようのない苦しさ、なんという前代未聞の残酷さでしょう! あなたは他の魂をあなたなしで置き去りにされましたが、決して苦しみなしにしたわけではありません。このような不名誉な侮辱をあなたは誰にもお与えになりませんでした。私だけのために、私だけのために、このとてもひどい平手打ちは用意されたのです。この懲罰に値するのは私だけですが、とても耐えられません。でもそれらは私の罪の懲らしめにすぎません。というよりむしろ、もっとひどい目に遭うのが相応しいのです!」

 

その時、主は閃光のように現れ、威厳をもって私に言いました。

 

「どうしたのですか、こんなことを言うなんて。私の意志は、すべてにおいてあなたにとって十分なものです。もし私があなたを神聖な領域から追い出し、私の意志の糧を与えなかったとしたら、それは懲罰となります。それに、正義が人々に罰をあたえるために、少しの空白を作るためには、あなたがしばらく苦しまないでいることが必要なのです。」

 

 

 

1904年10月29日

恩寵の連鎖は忍耐強い業と結びついている。

すべての悪は忍耐力の欠如にひそんでいる。

 

私がひどく苦しんだ後、祝福されたイエスが少しだけお出でになり、こう言われました。

 

「娘よ、魂が何か善を行なおうとするとき、たとえそれがアヴェ・マリアを唱えることであっても、恩寵はその善を行なうことに同行します。だからもし魂が善を行なうことに忍耐強くないなら、それは魂が受けた賜物に対する尊敬も配慮も持っておらず、恵みそのものを馬鹿にしていることをはっきり示しています。今日は賛成だが、明日は違う——このようなやり方には、どれほどの悪が封じ込められていることでしょう。

 

『好きだからやっています。』

『善いことをするには犠牲が必要だ。やりたくない。』

 

それは、ある紳士から贈り物を受け取った人が、今日はそれを受け取ったが、明日はそれを送り返してしまうのと同じことです。その紳士は、彼の善良さのゆえに、もう一度それを送りますが、しばらく保管した後、その贈り物を自分の手元に置いておくのにうんざりして、再びそれを手放します。さて、あの紳士は何と言うでしょうか?

 

『彼が私の贈り物に敬意を払っていないことがわかります。彼が貧乏になったり、死んだりしたら、私はもう彼とは何も関りたくありません。』

 

すべては——すべては、忍耐をもって行動することに繋がっています。私の恩寵の連鎖は、忍耐強い行いと結びついています。だから、もし魂が何度か逃げ出せば、この鎖を断ち切ることができます。——そして、それが再び繋がると誰が魂に保証できるでしょうか?私の計画は、自分の仕事を忍耐強く結び付ける人のよってのみ成し遂げられます。完璧さ、神聖さ、すべて——すべてがひとつになっています。しかし、もし魂が途切れ途切れであれば、途切れ途切れの熱病のように、魂が忍耐することなく活動することは、神聖な計画をむなしくし、魂の完全性を打ち消し、その聖性を失わせるにです。」

 

 

 

1904年11月13日

被造物は自由意志がなければ、決して神の愛に値することはなかっただろう。

 

いつもの状態を続けるにつれて、私の最も聖なる唯一の善の、ほとんど[完全な]窮乏と沈黙のために、私の苦い思いはますます増してきます。すべては逃げ出す影と閃光です。私は押しつぶされ、朦朧となり、もはや何も理解できません。なぜなら、光を秘めたお方は私から遠く離れていて、光を放ちながらも、やがて前よりも暗くなる閃光のようだからです。私に残された唯一無二の遺産は、神のご意志です。

 

そうやって、ひどく苦しんだ末に、もうこれ以上は絶えられないと感じました。イエス少しの間お出でになり、私に言いました。

 

「娘よ、私は人であり神であったので、私の人間性は、すべての罪、懲罰、失われた魂を見ることが出来ました。私の人間性はすべてを一点で捉え、罪を滅ぼし、魂を救おうとしました。私の人間性は受難の一日だけでなく、すべての日に、これらすべての苦しみを自分自身の中に封じ込め、哀れな被造物を救いたかったのです。しかし、私がそうしたいと望み、そうすることができたという事実にもかかわらず————私は被造物の自由意志を破壊することが出来たし、これらの悪の山を破壊することが出来たから——それでも、人間の功徳がなければ、善を行なうと言う本人の意志がなければ、どうなっていたでしょう? 人間はどんな良い影響を残したでしょうか? 人間は私の創造的な知恵にふさわしい対象だったのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。

 

ああ、人間は他人の家にいる異邦人の息子のようなものではなかったでしょうか。他の息子たちと一緒に働かなかった者は、何の権利も相続権も持っていないのではないでしょうか? この息子は、食べたり飲んだりするといつも赤面します。なぜなら、その父親に対する愛を証明するために、自分が好ましい行いをひとつもしていないことを知っているからです。それゆえ、人間は決してその父親の愛に値することはできないのです。つまり、被造物は自由意志がなければ、決して神の愛に値することはなかったのです。

その一方で、私の人間性は、私の創造的な知恵を侵害するものではありません。私の人間性は、私の創造的な知恵を敬っているように、自由意志を敬っています。そして私の人間性は、自らの中に正義の空白を受け入れました。なぜなら、神の正義の空白は、この世の懲罰、地獄、煉獄によって満たされているからです。だから、もし私の人間性が、これらすべてを受け入れているのだとしたら、あなたは、私が人々を罰しないために、私を制圧して、私に苦しみを与えないようにしたいのでしょうか? 娘よ、私に従い、平安を保ちなさい。」

 

 

 

1904年11月17日

魂はいかにしてイエスの糧となるのか。

 

聖体拝領を受けた後、私は、私のような哀れな被造物にご自身を食べ物として与えてくださった主の慈悲深さについて、どうすればこのような大きな恵みに応えることが出来るかを考えていました。そんなことを考えていると、祝福されたイエスが私に言われました。

 

「娘よ、私が被造物のために私自身で食べ物をつくったように、被造物も自分自身を私の食べ物にすることが出来ます。魂の思考、愛情、望み、傾向、心臓の鼓動、ため息、愛、すべてにおいて、すべてを私に向け、魂の内面のすべてのものを私の糧に変えなくてはなりません。そして私は、魂を神格化し、自分の中のすべてを置き換えると言う私の食べ物の真の実りを見て、私は魂で、つまり、魂の思考で、魂の愛で、その他のすべてのもので、自分自身を養うようになります。このようにして、魂は私にこう言うことができます。『あなたがご自身を私の食べ物とし、私にすべてを与えるに至ったように、私も自分をあなたの食べ物としました。あなたに捧げるものは何も残っていません。なぜなら、私のすべては、すべてあなたのものだからです。』」

 

というのも、イエスはご自身を私たちの食べ物にしてくださるほどの過剰な愛を注いでおられるにもかかわらず、私たちはイエスに食べ物を与えず、空腹のままにしてしまうからです。

 

 

 

1904年11月18日

地上におけるイエスの天国とは、イエスの神性に住まいを与える魂たちのことである。

 

私がいつもの状態でいると、愛すべきイエスがほんの少しだけお出でになり、私に言いました。

 

「娘よ、私が地上に来たとき、私の天国は私の人間性であり、天には多くの星、太陽、月、惑星、そして広大な大地があり、すべてが秩序正しく配置されているのが見ることができました。同じように、私の天国である人間性、つまり、すべてが秩序である天上の姿は、内側に宿る神性の秩序、すなわち、美徳、力、恩寵、知恵などを輝かせるものでした。さて、私の復活の後、私の人間性の天国が天に昇ったとき、私の神性に住まいを与える魂たちの中で地上の私の天国は存在し続けることになっていました。私はその中に住まうことで、私の天国を形成し、そこからまた、内部に含まれる美徳の秩序を輝かせるのです。被造物が創造主に天国を貸すなんて、なんと光栄なことでしょう!しかし、なんと多くの人がそれを拒否することでしょう!そしてあなたは——私の天国になりたいとは思いませんか? そうだと言ってください。」

 

そして私は

「主よ、私はあなたの血の中に、あなたの傷の中に、あなたの人間性の中に、あなたの美徳の中に認められることだけを望んでいます。私をあなたの天国となるように認めてください。そして誰からも認められないようにしてください。」

 

主は私の提案を認めてくださったようで、姿を消しました。

 

 

 

1904年11月24日

与えるために、そして受け取るためには、意志の合致が必要である。

 

あらゆる苦しみと、虐げられている、善良なイエスが血を流しておられるのを見た私は言いました。

 

「祝福された主よ、私はどうなりますか?私のすべての悪の治療薬として、少なくとも一滴の御血を私に与えてくださろうとは思われないのですか?」

 

そして主は私に言いました。

 

「娘よ、与えるためには、与えなければならない者の意志と、受け取らなければならない者の意志が必要なのです。そうでなければ、もし誰かが与えたいと思っていて、もう一方が受け取りたくないとしたら、たとえ最初の人が与えたいと思っていいても与えることが出来ません。同様に、一方が与えようとしなければ、もう一方は受け取ることができません。それには意志の合致が必要なのです。ああ、私の恩寵は何度窒息させられ、私の血は拒絶され、踏みにじられたことでしょう!」
 

主がそう言われている間、私はすべての人々が甘美なイエスの御血の中に群がっているのを見ました。しかし、多くの者は、私たちのすべての宝と私たちの悪に対する治療薬が封じ込められたその御血の中に留まることを望まず、そこから出て行くでしょう。

 

 

 

第6巻(9)に続く

 

 

ヨハナ通信

 

 

 

 

 

 

相変わら変な文章で申し訳ありません。

きちんとした翻訳は日本でこの本が出版されるのを待ちましょう!

どこかの出版社で出版してくれないかな~(ToT)/

 

 

「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

日本では4巻までしか発行されていないので、これはその続きになります。

外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

こちらになります↓

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ