天国の書
神によって創造された、秩序、場所、目的に対する
被造物への呼びかけ
第6巻(7)
神のはしためルイザ・ピッカレータ
神の意志の小さな娘
目 次
【 7 】
◆1904年8月14日
十字架の試練が魂を打ちのめすほど、魂は輝きを増す。
◆1904年8月15日
魂にとっての憂鬱は、植物にとっての冬のようなものである。
教会の勝利はそう遠くない。
◆1904年8月23日
イタリアでも懲罰が下される。
◆1904年9月2日
神だけが心に入り込み、御心のままに支配する力を持っている。
司祭が自ら行動しなければならない新しい方法。
◆1904年9月7日
罪を犯さないことへの注意が、罪への悲しみを埋め合わせることができる。
◆1904年9月8日
落胆は他のどんな悪徳よりも魂を殺す。
勇気は魂を蘇らせ、魂ができる最も称賛に値する行為である。
◆1904年9月9日
魂が平和の深みから出るとすぐに、神の神聖な領域から出て行く。
平和は、魂が神のために神を求めるのか、それとも自分自身のために神を求めるのかを明らかにする。
◆1904年9月13日
真の献身とは、自分の意志を絶えず犠牲にし続けることで、これは魂が神のために行なう絶え間ない傾注という殉教である。
◆1904年9月26日
恵みのランプ。
イエスの受難の中で受けたすべての苦しみは三重だった。
◆1904年9月27日
人が生まれながらに備わっている資質は、人間を善の道に導く光である。
イエスが最も喜ばれるのは、自発的な犠牲である。
J.M.J.
父と子と聖霊の御名によりて。
1904年8月14日
十字架の試練が魂を打ちのめすほど、魂は輝きを増す。
しばらく私が苦しんでいると、祝福されたイエスがお出でになり、私に言われました。
「娘よ、鉄は叩かれれば叩かれるほど輝きを増します。たとえ鉄に錆がなかったとしても、打撃は鉄を輝かせ、埃を寄せ付けません。だから、その鉄に近づく者は誰でも、まるで鏡のように、簡単に自分の姿を映し出すことができます。魂についても同じです。十字架の試練が魂を打ちのめせば打ちのめすほど、魂はより輝きを増し、どんな小さなことでも埃まみれになることはなく、魂に近づく者は誰でも、まるで鏡のように、自分自身を映し出すことができます。そして、当然のことですが、鏡である魂は、顔が汚れているかいないか、美しいか醜いかを示し、その役目を果たします。それだけでなく、私自身も彼女の中に自分を反映させることに喜びを感じています。そして、私が魂の中に私の姿を映し出すのを妨げるような塵やその他のいかなるものも見出さないので、私はますます魂を愛します。」
1904年8月15日
魂にとっての憂鬱は、植物にとっての冬のようなものである。
教会の勝利はそう遠くない。
今朝、私は、魂全体が憂鬱に満たされ、抑圧されているように感じました。祝福されたイエスは、私をあまり苦しまないようにしておられたようですが、私がとても苦しんでいるのを見て、こう言われました。
「娘よ、なぜそんなに憂鬱なのですか? 憂鬱は、植物にとっての冬のようなもので、葉を剥ぎ取り、花や実を結ばないようにします。春の陽気と暖かさが訪れなければ、植物は衰弱し、枯れてしまうでしょう?これこそ魂にとっての憂鬱です。それは、魂から神聖な新鮮さを奪い、美徳を再び緑に変える雨のようなものです。憂鬱は魂が善を行なうことを出来なくし、もし魂が善を行なうとしても、魂は美徳からではなく、ほとんど必要に迫られて善を行ないます。もし魂が聖なる喜びで自らを奮い立たせなければ、憂鬱は魂の恵みへの成長を妨げます。春の雨は非常に短時間で植物を成長させますが、このままでは枯れてしまうでしょう。」
主がこのように語られている間、私は教会全体、修道者が経験しなければならない戦争、他者から受けなければならない戦争、そして各組織の戦争が一瞬のうちに見えました。大混乱になったようです。また教皇は、教会や司祭らの状態を秩序あるものにするためにも、この混乱状態にある社会のためにも、ごく少数の修道者を用いるように思われました。
私がこれを見ていると、祝福されたイエスが言われました。
「教会の勝利はまだ先だと思いますか?」
「ええ、確かに。こんなに滅茶苦茶になった多くの物事を誰が整えられるのでしょう?」
「それどころか、それは近いことをあなたに告げます。強い衝突は必要ですが、そのため私は、時間を短くするために、宗教的なもの、世俗的なものを問わず、すべてのことを一緒に許します。そして、この衝突のまっただ中に、すべての大きな混沌の中に、善良で秩序ある衝突があるでしょう。しかし、そのような苦悩の状態では、人は自分たちが失われているかのように見えるでしょう。そのために、私はあなたを苦しめ、彼らに多くの恵みと光を与え、彼らが悪を認識し、真理を受け入れるようにします。それでも彼らが私の言うことを聞かないなら、私はあなたを天国に連れて行きます。そうなれば、事態はされに深刻になり、そして待望の勝利までは、もう少し長引くことになるでしょう。」
1904年8月23日
イタリアでも懲罰が下される。
今朝、私は祝福されたイエスをほぼ完全に失って、最も苦しい時を過ごしました。しかし戦争のまっただ中、人々が殺され、包囲されている町の中で、自分が自分の外にいることに気がつきました。そしてそれはイタリアも同様でした。なんて恐ろしかったでしょう!あまりに悲惨な光景から自分を遠ざけたかったのですが、至高の力が私を釘付けにしたので、それは出来ませんでした。
それが天使なのか、聖人だったのか定かではありませんが、誰かが言いました。
「かわいそうなイタリア、戦争によってどれほど傷つくことだろう!」
これを聞いたとき、私は怯えるどころか、自分の中にいることに気が付きました。私のいのちであるお方をまだ見ていないのに、それらの光景ばかりが頭の中に浮かび、自分の死が近付いているのだと感じました。その時、かろうじて主の腕が見え、主は私にこう言われました。
「イタリアで何かが起こるのは間違いありません。」
1904年9月2日
神だけが心に入り込み、御心のままに支配する力を持っている。
司祭が自ら行動しなければならない新しい方法。
いつもの状態でいた私は、重苦しさばかりを感じ、自分の哀れな状態がすべて悪魔の仕業かもしれないという恐怖も加わり、魂と肉体が焼かれている気がしました。それから、主がほんの少しだけお出でになり、私に言われました。
「娘よ、なぜそんなに悩んでいるのですか? もしすべての悪魔の力が集結したとしても、魂が自らの意志で彼らを心の中に入れない限り、心の中に入り込み、それを支配することは出来ないことを知らないのですか? 神だけが、心の中に入り込み、お望みになるままに支配する力を持っているのです。」
「主よ、あなたが私からいなくなるとき、なぜ私は魂と肉体が焼かれるのを感じるのでしょうか?これは私の魂に入り込み、このように私を苦しめている悪魔の息吹ではないのですか?」
「その逆です。聖霊の息吹が絶えずあなたの中に吹き込まれ、あなたを常に燃え立たせ、主への愛のためにあなたを焼き尽くすのです。」
この後、私は自分の外にいることに気が付き、教皇が私たちの主の助けられながら、司祭が自らを律すべき新しい方法、つまり、何をしなければならないか、何をしてはならないか、何処にいってはならないかについて書いているのが見えました。そして自分に従わないものには罰則を設けました。
1904年9月7日
罪を犯さないことへの注意が、罪への悲しみを埋め合わせることができる。
私が心配していたのは、ある本で、挫折した召命がこれほど多いのは、罪に対する絶え間ない悲しみの欠如にあると読んだことがあったからです。そして私はこのことについては考えず、ただ祝福されたイエスのこと、そしてイエスに来ていただく方法だけを考え、それ以外のことは何も考えないので、自分はなんて悪い状態にあるのだろうと考えました。そして私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスがお出でになり、私にこう言われました。
「娘よ、罪を犯さないように注意することが、悲しみを埋め合わせることになります。また、たとえ後悔していたとしても、それにもかかわらず罪を犯したのであれば、その後悔はむなしく、実を結びません。一方、罪を犯さないことに絶えず注意を払うことは、悲しみの代わりになるだけでなく、魂が罪に陥らないように特別な方法で魂を助ける恵みを絶えず後押しし、魂を常に清め続けます。だから、私を少しも傷つけないように気を配り続けてください。」
1904年9月8日
落胆は他のどんな悪徳よりも魂を殺す。
勇気は魂を蘇らせ、魂ができる最も称賛に値する行為である。
いつもの状態を続けていても、私の愛すべきイエスはおいでになりませんでした。ひどく苦しんだ後、私はすっかり落胆し、その朝、主はまったく来てくださらないのではないかととても恐れました。その後、主はほんの少しだけお出でになり、私にこう言われました。
「娘よ、落胆は他のどんな悪徳よりも魂を殺すということをしらないのですか?それゆえ、勇気、勇気なのです。なぜなら、落胆が人を殺すのと同じように、勇気は人を蘇らせ、魂がなしうる最も称賛に値する行為だからです。なぜなら、落胆を感じながらも、その落胆から勇気を奮い起こし、自分を取り戻し、希望を抱くからです。そして自分を取り戻すことによって、魂はすでに神の中で自分が再創造されていることに気付くのです。」
1904年9月9日
魂が平和の深みから出るとすぐに、神の神聖な領域から出て行く。
平和は、魂が神のために神を求めるのか、それとも自分自身のために神を求めるのかを明らかにする。
いつもの状態を続けていた私は、愛すべきイエスの不在に不安を感じていました。そして私がひどく苦しんだ後、主がお出でになり、こう言われました。
「娘よ、魂が平和の深みから抜け出すとすぐに、神聖な領域から抜け出し、悪魔の領域か人間的な領域のどちらかに身を置くことになります。魂が神のたまに神を求めるのか、自分のために神を求めるのか、神のために働くのか、被造物のために働くのかを明らかにするのは、唯一平和だけです。実際、魂が神のためにそれを行なうならば、魂は乱されません。神の平和と魂の平和が一体となり、平和の境界線が魂の周囲に広がり、あらゆるものが平和に変わります。戦争そのものさえも変わるといえます。しかし、もし魂が乱されるなら、それが最も神聖なものであっても、それは結局のところ、神のためではなく、自分自身のため、あるいは人間的な目的のためであったことを示しています。だから、気分が落ち着かないときは、実際になにがあるのか、少し自問してみなさい。それを滅ぼせば、平和を見出すことができます。」
1904年9月13日
真の献身とは、自分の意志を絶えず犠牲にし続けることで、これは魂が神のために行なう絶え間ない傾注という殉教である。
いつもの状態で、ひどく苦しんだ後、主は私の心を御手の中で握り、私を抱きしめておられるのが見えました。そして私をじっと見つめながら言いました。
「娘よ、魂が私に意志を捧げたとき、魂はもはや自分の好きなことを行なう自由がありません。そうでなければ、それは真の献身とはいえません。一方、真の献身とは、自分の意志を捧げた方に絶えず捧げ続けることです。そしてこれは、魂が神のために行なう絶え間ない傾注の殉教です。今日はどんな苦しみにも身を捧げ、明日は離れる殉教者について、どう思いますか?あなたは彼には殉教に対する真の気質を持っておらず、いつか自分の信仰を否定することになるでしょうと言うでしょう。だから私は、自分の意志を私の望むようにさせず、今はそれを私に捧げ、今は離れる魂に言いましょう。
『娘よ、あなたは私のために自分を犠牲に捧げて殉教する気はありません。なぜなら、真の殉教は継続することにあるからです。 あなたは自分を放棄し、従順していると言うかもしれないが、殉教者ではない。そしていつの日か、あなたは私から離れ、すべてを子供の遊びに格下げしてしまうかもしれません。』
だから注意しなさい。そして私が望むように、あなたを自由に使えるようにしておきなさい。」
1904年9月26日
恵みのランプ。
イエスの受難の中で受けたすべての苦しみは三重だった。
いつもの状態で過ごしているとこんな声が聞こえてきました。
「ここにランプがあります。そのランプに近づくと、小さな炎を好きなだけ灯すことができます。そしてこれらの小さな炎は、ランプの周りに栄誉の冠を作り、それを灯した人に光を与える役割を担っています。」
私は自分自身に言いました。
「なんて綺麗なランプでしょう。常に光と力に満ち溢れているので、他の人に彼らが望むだけの光を与えても光に乏しくなることなく、あるがままの姿であり続けます。誰がそれを持っているかは誰にも分かりません!」
そんなことを考えていると誰かがこう言うのが聞こえました。
「灯火は恩寵であり、神がそれを所有しておられます。それに近づくことは、善を行なおうとする魂の善意を意味します。なぜなら、人は恩寵から引き出そうと思えば、いくらでも引き出すことが出来るからです。形成される小さな炎は、神に栄光を帰すと同時に、魂に光を与える様々な美徳なのです。」
そしてこの後、祝福されたイエスにほんの少しお会いしました。そしてイエスは私にこう言われました。
「娘よ…」
(そしてこれは、私たちの主が一度だけでなく、三度も茨の冠をかぶせられたことを考えていたからです。 茨の冠が再び打ち込まれると、すでに頭の中に刺さっていた茨が、さらに深く突き刺さります。
そして私はこう言いました。
「私の甘美なる愛よ、なぜあなたはこの痛ましい殉教を三度も受けようとなされたのですか?私たちの邪悪な考えの代償は一度だけではたりなかったのでしょうか?」)
…そこでご自身を現わしてイエスは言われました。
「娘よ、茨の冠は三重だっただけでなく、私が受難の中で受けた苦痛のほとんどすべては3倍でした。庭での3時間の苦しみは3倍でした。彼らは3種類の鞭で私を鞭打ちました。彼らは三度私を裸にし、夜間、早朝、真昼に、三度も死刑宣告を受けました。三度、十字架の下に倒れました。釘は三本でした。私の心は三度血を流しました。一度目はゲッセマネの園での孤独のとき。二度目は私が磔刑に処せられたとき。十字架上で強く引っ張られたので、私の身体はすっかり脱臼し、私の心臓は内部で砕かれ血が流れ出ました。そして三度目は私の死後、私の脇腹が槍で切り裂かれたときです。十字架上での苦悩の3時間は、3倍の苦しみでした。もしすべてを深く考えようと思ったら、ああ、いくつの『三重苦』を見つけることができるでしょうか!そしてこれは偶然ではなく、すべては神のご意志によるもので、御父に帰すべき栄光を完全なものとし、被造物が御父に負うべき償いと、被造物自身のために善を勝ち取り、それを彼らにもたらすためでした。実際、被造物が神から受けた最大の恩恵は、神に似せて創造され、知性、記憶、意志という三つの力を与えられたことであり、被造物が犯す罪にはこの三つの力が結びついていないものはありません。だから魂は、自分の中にある美しい神聖な姿を汚し、醜くし、贈り主を傷つけるために恩恵を使います。そして私は、被造物の中にこの神聖な姿を回復させ、被造物が神に負うべきすべての栄光を神に捧げるために、私の知性、記憶、意志のすべてをもって、御父にふさわし栄光と、被造物に必要な善の両方を完全なものとするために、特別な方法で『三重苦』に従ったのです。」
1904年9月27日
人が生まれながらに備わっている資質は、人間を善の道に導く光である。
イエスが最も喜ばれるのは、自発的な犠牲である。
いつもの状態でいると、私は祝福されたイエスがわずかに人々を懲らしているように見えました。私がご自身をなだめるように主に祈ると、主は私にこう言いました。
「娘よ、人間の恩知らずは恐ろしいものです。私が人間に与える秘跡、恵み、啓示、援助だけではなく、私が人間に与えた天性の資質そのものは、すべて人間が幸福を見出すために、善の道を歩ませるために仕える光です。しかし、人間はこのすべてを闇に変え、自分の破滅を求めながら『自分の善』を求めていると言います。これが人間の状態なのです。これ以上の盲目と恩知らずがあるでしょうか? 娘よ、この時代に被造物が私に与えることの出来る唯一の安堵と喜びは、私のために自発的に自らを犠牲にすることです。実際、私が彼らのために捧げた犠牲はすべて自発的なものだったので、私のために犠牲を捧げる意志を見つけたところはどこであろうと、彼らのためにしたことへの報いを受けたように感じます。だから、私を安心させ、私に喜びを与えたいなら、私のために進んで自分を犠牲にしなさい。」
第6巻(8)に続く
ヨハナ通信
相変わら変な文章で申し訳ありません。
きちんとした翻訳は日本でこの本が出版されるのを待ちましょう!
どこかの出版社で出版してくれないかな~(ToT)/
「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。
日本では4巻までしか発行されていないので、これはその続きになります。
外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘
こちらになります↓
みなさんに神様の祝福がありますように