天国の書 第5巻(中) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第5巻(中)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

 

【 中 】

 

◆1903年6月6日

イエスは彼女が見捨てられた苦しみの中でどのように振る舞うべきかを教える。

 

◆1903年6月15日

被造物は創造、贖い、聖化の神の御業をいかにして自分の内に保つことができるのか

 

◆1903年6月16日

魂がより愛おしく、より美しく、より魅力的で、より神と親密になるのは、神だけを喜ばせるために忍耐強く努力することである。

 

◆1903年6月30日

至聖なる御母は、内なる眼差しをイエスに向け続ける方法を魂に教える。内なる魂の美しさ。

 

◆1903年7月3日

もし魂が現世でイエスに完全に身を捧げるなら、イエスはその死に際してご自身を捧げ、魂を煉獄から免除してくださいます。

 

◆1903年8月3日

魂が自然的なものを自分から取り除けば除くほど、超自然的で神聖なものをより多く身につけるようになる。

 

◆1903年10月2日

イエスと結ばれた人は、イエスの生命そのものの中で成長し、イエスが贖いにおいてなさった接ぎ木を発展させ、イエスの人間性の木に枝を増やします。内的な魂と外的な魂。

 

◆1903年10月3日

イエスは至聖なる秘跡の中だけでなく、イエスの恩寵の中にある霊魂たちの中においても、ご自身の命をこの世で続けておられる。

 

◆1903年10月7日

生贄の魂は、人類を修復し、励まし、保護しなければならない人間の天使である。

 

 

 

 

1903年6月6日

イエスは彼女が見捨てられた苦しみの中でどのように振る舞うべきかを教える。

 

窮乏と苦しみの苦い日々を過ごした後、今朝、私は赤ん坊のイエスを腕に抱いて、自分の外に出ていることに気が付きました。イエスを見るやいなや、私は言いました。

 

「ああ、親愛なるイエスよ、どうして私を放っておかれたのですか?せめて、この見捨てられた状態と苦しみの中で、私がどのように振る舞わなければならないかを教えてください。」

 

そして彼は

「娘よ、5つの栄唱を唱えることによって、あなたの腕、足、そして心にある苦しみをすべて、私の肢体の苦しみと共に捧げなさい。そしてそれを被造物が絶えず犯す心の働き、歩み、悪い欲望を償うために、神の正義に捧げなさい。そして、棘によって引き起こされた私の痛みと、私の肩の痛みに、3つの栄唱を唱え、それを結び付け、人間の三つの力を満足させるためにそれを捧げなさい。それらはもはやその中に私の姿を認識することができないほど傷つけられたものです。そしてあなたの意志を常に私に結び付け、私を愛する姿勢を絶え間なく保ち続けるようにしなさい。あなたの記憶を、あなたの中で絶えず鳴り響く鐘とし、私があなたのためにしたこと、苦しんだこと、そして私があなたの魂にどれほど多くの恵みを与えたかを思い出させ、私に感謝し、私に報いるようにしなさい。感謝の気持ちは神の宝を開く鍵なのだから。あなたの知性は何も考えないようにしなさい。そして神以外の何ものにも心を奪われないように。そうすれば私はあなたの中に再び私の姿を見出し、他の被造物からは受け取れない満足を味わうことがでるでしょう。なぜなら、もし犯罪が続くものであるならば、満足も続かなければならないからです。」

 

そして私はこう付け加えました。

「ああ、主よ、私はなんとひどい人間いなってしまったのでしょう。私はさらに貪欲になってしまったのです。」

 

そして彼は

「娘よ、恐れることはありません。魂が私のためにすべてを行なう時、彼女が取るすべてのもの、食べ物そのものでさえも、私は彼女があたかも私の苦しむ体を爽やかにしているかのように受け取ります。そしてそれを彼女に与える者は、あたかも私に与えるかのようにみなします。もしそれらがもらえなかったら、私は痛みを感じるでしょう。しかしあなたが疑いを取り除くために、彼らがあなたに食べ物を与え、あなたがそれを取る必要性を感じるたびに、あなたは私のためにそれをするだけでなく、付け加えるのです。『主よ、私はあなたの苦しんでいる体を私の中で癒したいと思います。』」

 

そう言いながら、主は少しずつ私の内面に消えていき、私はもう主を見ることも話すことも出来なくなりました。私は悲しみのあまり、再び主を見つけるために、自分自身をバラバラに引き裂こうと思いました。それで私は、主が閉じこもっていた私の内部の一部を引き裂き始め、私は彼を見つけました。そして私は大きな悲しみと共に言いました。

 

「ああ、主よ、どうして私を置き去りになさるのですか?あなたなしでは私の命は成り立ちません。あなたなしには魂だけでなく肉体も完全に打ち砕かれ、あなたの欠乏の苦痛の激しさに絶えることができません。今ここで死んでしまうのではないかと思えるほどです。私の唯一無二の慰めは死です。」

 

しかしそう言っている間にイエスは私を祝福し、再び私の内面に引きこもられました。

彼は消えて、私は自分の中にいる自分に気が付きました。

 

 

 

1903年6月15日

被造物は創造、贖い、聖化の神の御業をいかにして自分の内に保つことができるのか

 

いつもの状態でいたので、どうして私の目の中に愛するイエスが見えたのか分かりません。私が驚いていると、主はこう言われました。

 

「娘よ、私を傷つけるために自分の感覚を使う者は、私のイメージを自分の中で歪めます。それゆえ罪は魂に死を与えます。魂が本当に死ぬからではなく、神聖なものすべてに死を与えるからです。もし彼女がその感覚を使って私を賛美するなら、私はこう言うことができます。『あなたは私の目であり、私の耳であり、私の口であり、私の手であり、私の足です。』これにより、彼女は私の創造的な仕事を自分の中に保つことができます。そして、もし彼女が私を賛美するために、他の人々のために苦しみ、満足させ、修復するなら、彼女は私の贖いの業を自らの中に保つのです。そして彼女が自分の中で私のこれらの業を完成させるにつれて、私の聖化の業が再び立ち上がり、すべてを聖別し、彼女の魂の中に保存します。実際、私が創造、贖い、聖化の業において行ったすべてのことに対して、私は魂に私の活動そのものへの参加を授けました。しかしすべては魂が私の働きに対応しているかどうかにかかっています。」

 

 

 

1903年6月16日

魂がより愛おしく、より美しく、より魅力的で、より神と親密になるのは、神だけを喜ばせるために忍耐強く努力することである。

いつもの状態が続いていましたが、気づくと自分の外にいて、苦味でいっぱいの杯と杖を手にしている赤ん坊のイエスが見えました。するとイエスは私に言われました。

 

「娘よ、世界が私に飲ませ続けている苦い杯を見なさい。」

 

そして私は

「主よ、あなたが一人で苦しまないように、それを私と分かち合ってください。」

 

それで主は私にその苦味を少し飲むようにと与えてくださいました。そして手に持っていた杖で私の心臓を突き刺し、穴を開けると、そこから私が飲んだ苦みの小川が流れでました。しかしそれは甘いミルクに変わり、赤ん坊の口に入り、赤ん坊はすっかり甘く爽やかになりました。それから主は私にこう言われました。

 

「娘よ、私が魂に苦難の苦味を与える時、魂が私の意志に従い、私に感謝し、それを贈り物として私に捧げるなら、彼女にとっては苦難であり、苦しみですが、私にとっては、それは甘さと爽やかさに変わるのです。しかし私を最も喜ばせ、私に喜びを与えるのは、魂が活動しようが苦しもうが、ただ私を喜ばせることに専念し、それ以外の目的や見返りを求めないことです。しかし、魂をより愛おしく、より美しく、より魅力的なものとし、神聖な存在とより親密なものとするのは、魂がこのような振る舞い方を忍耐強く続けることであり、それが不変の神とともに、不変のものとするのです。実際、今日彼女が何かをし、明日はしなかったら、あるときは彼女はある目的を持っていて、またあるときは別の目的を持っているとしたら、今日は神を喜ばせようとし、明日は被造物を喜ばせようとしたら、今日は女王、明日は最も惨めな僕というイメージです。今日はおいしいもので栄養を摂り、明日は汚物で栄養を摂ります。」

 

しばらくしてイエスは姿を消しましたが、少しして戻って来て、こう付け加えられました。

 

「太陽はすべての人のためにありますが、すべての人がその恩恵を享受できるわけではありません。同じように、神聖な太陽はすべての人にその光を与えますが、誰がその有益な効果を享受するのでしょうか?真理の光に目を開いている人です。他のすべての人は、たとえ太陽にさらされていても、暗闇の中に留まります。しかし、私を喜ばせることに全力を注ぐ者こそが、この太陽のすべての満ち足りた恵みを真に味わい、受け取るのです。」

 

 

 

1903年6月30日

至聖なる御母は、内なる眼差しをイエスに向け続ける方法を魂に教える。

内なる魂の美しさ。

 

私は自分の外にいたとき、女王なるお母様を見かけ、彼女の足元にひれ伏して言いました。

 

「最も優しいお母様、私はなんと恐ろしい束縛の中にいるのでしょう。私の唯一の善と私のいのちそのものを奪われたのです。私は限界に達していると感じています。」

 

そう言いながら私は泣いていましたが、最も聖なるお母様は、まるで幕屋を開くかのように心の座を開いて、その中から赤ん坊を取り出し、彼を私に与えておっしゃいました。

 

「娘よ、泣かないで。ここにあなたの善、あなたのいのち、あなたのすべてがあります。彼を連れて行き、いつも一緒にいなさい。そして彼と一緒にいるとき、あなたの内なる眼差しを彼に向け続けてください。彼が何も言わなくても、あなたが何も言えなくても恥ずかしがることはありません。ただ自分の内面で彼を見つめ、彼を見ることで、あなたはすべてを理解し、すべてを行ない、すべてを満足させることができるでしょう。これが内なる魂の美しさです。声もなく、知識もなく、魂を惹きつけたり動揺させたりする外的なものはありませんが、魂の魅力のすべて、魂の宝のすべてが魂の内面に封じ込められているので、イエスを見るだけで、魂はすべてを理解し、すべてを行ないます。このようにしてカルワルオの頂上まで歩いていくのです。私たちがそこにたどり着くと、あなたはもはや彼を赤ん坊としてだけではなく、十字架につけられた者として見、そしてあなたは彼とともに十字架につけられたままになります。」

 

そうして赤ん坊を腕に抱いて、最も聖なるお母様とともに、私たちはカリワリオの道を歩きました。歩いていると時々、イエスを私から引き離そうとする人を見つけることがありました。私は最も聖なるお母様に助けを求めてこう言いました。

「お母様助けてください。彼らは私からイエスを奪い取ろうとしています」

 

そして彼女は私にこう答えてくださいました。

「恐れることはありません。あなたが注意しなければならないことは、あなたの心を、あなたの内なる眼差しを神に向け続けることにあります。これは非常に大きな力を持っているので、人間的力も、悪魔と他のすべての力も衰弱させ、打ち負かすことができます。」

 

歩いているとミサが行われている教会を見つけました。聖体拝領のとき、私は聖体拝領を受けるために赤ちゃんを抱いて祭壇に飛んで行き、聖体を拝領しました。ところが、イエス・キリストが私の中に入るやいなや、私の腕から消えてしまい、私は驚きました。それからしばらくして、私は自分の中にいる自分に気が付きました。

 

 

 

 

1903年7月3日

もし魂が現世でイエスに完全に身を捧げるなら、イエスはその死に際してご自身を捧げ、魂を煉獄から免除してくださいます。

 

今朝、私が愛すべきイエスを失ってとても苦しんでいると、突然、イエスが私の内面にご自身を現わされ、私の人格、つまり、私の頭、腕、その他すべてを満たしてくださいました。私がこの様子を見ていると、主はご自分の姿を現されたことの意味を説明するために、私にこう言われました。

 

「娘よ、私があなたたち全員の主人であるのに、なぜあなたがたは自分を苦しめるのですか?魂が私をその心の主人、腕の主人、心臓の主人、足の主人とするようになると、罪は支配出来なくなります。そしてもし魂の中に何か望ましくないことが入り込んだとしても、私が主人であり、魂は私の影響下にあるのだから、魂は絶え間ない浄化の姿勢をとり続け、その何かはすぐに魂の中から出て行きます。さらに私は聖なる者なので、魂が聖なるものでないものを自分の中に留めておくことは難しいのです。さらに魂が現世で自分のすべてを私に捧げたのだから、私が魂の死に際し、私の身のすべてを捧げ、魂を遅滞なく至福の世界へ受け入れることは正義なのです。だから、もし人が完全に私に身を捧げるなら、煉獄の炎は魂とは何の関係もありません。」

 

 

 

1903年8月3日

魂が自然的なものを自分から取り除けば除くほど、超自然的で神聖なものをより多く身につけるようになる。

 

私がいつもの状態でいると、私の愛すべきイエスがほんの少しだけ来てくださり、最も甘美な声を聞かせてくださいました。

 

「魂が自然的なものを取り去れば取り去るほど、超自然的で神聖なものを身につけるようになります。魂が自分への愛を取り除けば取り除くほど、神への愛が深まります。魂が人間科学を知り、人生の快楽を享受することに疲れなくなればなるほど、天国のこと、美徳の知識をより多く得ることができ、苦いものが甘味に変わるように、それらをより楽しむようになります。要するにこれらはすべて同じ速度で進行するものであり、超自然的なものを何も感じず、神の愛が魂の中で消滅し、美徳や天国のものについて何も知らず、それらに喜びを見出さないなら、その人はその理由をよく知っているのです。

 

 

 

 

 

1903年10月2日

イエスと結ばれた人は、イエスの生命そのものの中で成長し、イエスが贖いにおいてなさった接ぎ木を発展させ、イエスの人間性の木に枝を増やします。内的な魂と外的な魂。

 

私はいつもの状態で、苛立ち、苦しみ、愛すべきイエスを失ったことで意識が朦朧とし、自分がどこにいるのか、地獄にいるのか、地上にいるのか分かりませんでしたが、かろうじて逃げ去る閃光のような主を見ました。

 

「美徳の道を歩む者は、私の人生そのものの中におり、悪徳の道を歩む者は、私と矛盾しています。」

そして彼は姿を消しました。

 

それから少しして、また閃くようにこう付け加えました。

「私の受肉は、人間性を神性に接ぎ木しました。もし人が、自分の意志、自分の行い、自分の心をもって私と一つとなろうとし、私の基準に従って自分の人生を送ろうとするなら、その人は私のいのちそのものの中で成長し、私が作った接ぎ木に成長をもたらし、私の人間性の木にさらに枝を増やします。一方、もし魂が私と一つにならなければ、私の中で成長しないばかりか、接ぎ木に何の成長ももたらしません。むしろ、私と共にいない者はいのちを持ちことが出来ないので、滅びによって接ぎ木は取り去られるのです。」

そしてイエスは再び姿を消しました。

 

この後、私は自分の外に出て、庭の中にいることに気が付きました。庭にはいくつものバラの茂みがあり、いくつかのバラはきれいに咲いていて、丁度良いバランスで、ほとんど半分閉じていました。また、少し動いただけで花びらが落ちてしまい、バラの茎だけで裸になったものもあります。

一人の青年が―誰だか知りませんが―私に言いました。

 

「最初のバラは自分の内面で活動する内なる魂です。これらの魂は内側に向けられたバラの花びらに象徴され、美しさ、みずみずしさ、堅固さを際立たせ、花びらが地面に落ちる心配もありません。外側の花弁は、内なる魂が外に向かって咲くことを象徴しています。彼女の内側から命を受けとる彼女の作品は、聖なる慈愛の香りを放ち、まるで光のように、神と隣人の目をくぎ付けにします。

第二のバラの茂みは外面の魂です。彼らが行なうわずかな善は、すべて外面的なもので、誰の目にも触れます。内面に花が咲かないので、神だけを、神の愛だけを目指すことはできません。そしてこれが欠けているために、花びら、つまり美徳がうまくくっつかないのです。だから高慢の軽い息がかかると、花びらが落ちてしまいます。自己満足、自己愛、他者への尊敬、矛盾、苦悩の吐息がバラの花にかかると、花びらは地面に落ちます。だからかわいそうなバラは、いつも裸のままで、花びらもなく、良心を刺す棘だけが残っているのです。」

 

この後、私は自分の中にいる自分に気が付きました。

 

 

 

1903年10月3日

イエスは至聖なる秘跡の中だけでなく、イエスの恩寵の中にある霊魂たちの中においても、ご自身の命をこの世で続けておられる。

 

私は、イエスがご自分の死に向かうために御母のもとを去り、お二人が互いに祝福し合った受難の時について考えていました。そして、私たちが神の恵みのうちに自らを保つために必要な祝福を促し、すべての被造物が主を祝福しているかのように、神の栄光の空白を埋めるために、この時間を修復し、すべてのことにおいて主を祝福せず、むしろ主を傷つける者たちの償いのために捧げていました。そうしている間、主が私の内側で動いて、こう言っているのを感じました。

 

「娘よ、私の母を祝福するという行為の中で、私は、私のために作られた思い、言葉、鼓動、歩み、動きなど、すべてが私によって祝福されるように、それぞれの被造物を祝福するつもりでした。すべてものが、私の祝福によって価値を与えられています。さらに、被造物が行なうすべての善は、すべて私の人間性によってなされたのであり、被造物のすべての働きは、まず私によって神格化されるのです。さらに、私のいのち、現実の真実の命は、最も聖なる秘跡の中だけではなく、私の恩寵の中にいる魂たちの中で今も、この世で続いています。被造物の能力は非常に限られており、そのうちの一人だけでは私のしたことのすべてを掌握することが出来ないので、私は、ある魂たちの中では償いを続け、別の魂たちの中では賛美を、別の魂たちの中では感謝を続けるように行動します。ある人には魂の救いに対する私の熱意を、またある人には私の苦しみがあり、他のすべても同様です。彼らが私にどのように応えるかに応じて、私は彼らの中で私の人生を繰り返します。それゆえ、かれらが私をどのような束縛と苦痛にさらしているかを考えてみなさい。私は彼らの中で活動したいのに、彼らは私に注意を払わないのです。」

 

そう言うと主は姿を消し、私は自分の中にいる自分に気が付きました。

 

 

 

 

1903年10月7日

生贄の魂は、人類を修復し、励まし、保護しなければならない人間の天使である。

 

私は聴罪司祭に、私を主の意志に委ね、主が望まれようと望まざるとにかかわらず、私がこの生贄の状態に留まり続けるべきだという従順を取り消すように頼みました。最初、彼は嫌がっていましたが、私がイエス・キリストの前で、この世で起こりうることについて答える責任を負うのであればと、承諾してくれました。そして彼は、私が最初にそれについて考えてから答えるべきだと言いました。私は彼に、神の意志に逆らうつもりはないと言いたかったのです。ただ主がそれを望まれるのであれば私はそれを望み、もし主がそれを望まなければ、私はそれを望みません。それなのになぜこのような責任を負わなければならないのでしょうか?

そして彼は

「まず考えて、明日答えなさい。」

 

そうして私が自分の内面の中でそのことを考えていると、主は私にこう言われました。

「正義はそれを望みますが、愛はそれを望みません。」

 

 

そして、いつもの状態にある自分に気付いた私は、ほんの少しだけ主に会い、主は私にこう言いました。

 

「天使たちは何かを得ようが得まいが、常に自分の務めを果たします。彼らは神から託された務め、つまり魂の管理という仕事から手を引くことはありません。たとえ彼らが絶え間ない気遣い、勤勉さ、尽力、援助にもかかわらず、魂が惨めに失われているのを目の当たりにしても、彼らはいつもそこにいます。また手に入れたかから、あるいは手に入れられなかったからと言って、神への栄光が大きくなったり、小さくなったりすることもありません。なぜなら、彼らの意志は常に安定しており、託された務めを果たすからです。生贄の魂は、人類を修復し、励まし、保護しなければならない人間の天使であり、彼らが手に入れようが、手に入れないにかかわらず、彼らは天からそれについて約束されない限り、その仕事をやめてはならないのです。」

 

 

 

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ