おだんご日和 -10ページ目

おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

 

 

 人形アニメーション「高橋宗太郎と地獄の古本屋」「高橋宗太郎と雨の殺人事件」に登場したキャラクターの写真です。

 他にもたくさんあったのですが、見れられる形で残っていた人たちです。

 

 

 

 

クリックすると、もう少し大きな写真が見られます。

 

 

 

 

手は、差し替え式なので、数種類を回して使っています。

 

 

 

 

↓右の男性は、撮影時に描いた「血」がおでこに流れっぱなしです。

 

 

 

 

↓左の女性は、作品中では黒い服でしたが、「出前少年 おとどけ物語」という別の作品に特別出演した時に、ピンクに塗り直しています。

 

 

 

 

↑両面テープで固定したので、背中のピンクが剥げて、黒が見えています。

 

 

 

 

 

 他の人たちは、別の人形に改造されたり、関節の針金が切れて、ボロボロになっていたりしています。

 諸行無常です。

 

 

 

 

 昔、友人と集まって作った特撮短編「かえってきたメカボン」。

 登場したロボットと、怪獣が残っていたので、写真を撮りました。

 なつかしいです・・・続編を撮るという話が時々くすぶっては消えて行くので、捨てるに捨てられず、保管してあります。

 

 ロボットは目に豆電球、両腕にモーターが仕込まれています。

 怪獣はハンドパペットです。

 

 

足はありません。下の方が破けて、段ボールが見えています。

 

  

 

 

クリックすると、ちょっと大きめの写真が見られるはずです。

 

 

怪獣は、靴下を縫い合わせた素体にスポンジや軽量紙ねんどを貼り付けて、おおまかな形を作りました。

スポンジの表面には木工用ボンドを塗っています。ボンドアートですね。

 

 

 

 

 

全体の色は、絵画用のアクリルカラーを厚塗りしています。

 

いつか、続編をやりたいなぁ。

監督したMOOK氏が「うん」と言わないのよね。

 

 

 

 

 2018年1月21日(日)、佐賀市立東与賀文化ホールでの「佐賀若手劇団さわげ」の公演。


 まず、観劇するか、かなり迷った。理由は「チラシやフェースブックを見ても、何についてのどんな作品なのか、よくわからなかった」「チケット代が高い」「会場が遠い」の3つです。しかし、たまたまこの日、別の用事でレンタカーを借りる事になったおかげで、ドライブがてら見に行こうという気分になりました。さわげの公演を見たことがなかったというのもあります。

 

 実際に見てみると、照明、音響、表現など基本的な部分につたないところが多々あるのに、プロジェクターの使用やダンスなど妙にこなれていたり、アンバランスだけれど、そういうところも「若手」の魅力なのかなと思いました。
 あと、パンフレットやオープニングのダンスから「役者を売り出そう!」という明確な意思が感じられ、「ああこういう、みんなで高まっていこうぜ!みたいな感覚がロートルには足りないのかな」と反省しました。
 物語そのものは、ホラーサスペンス物です。最初はそのことに気付かず「なんか哲学的なことを言いたいのかな?」とか「ちょっとハートウォーミングな不条理コメディをしたいのかな?」と、ふわふわした気分で見ていたので、ちっとも面白くありませんでした。

 

 しかし途中で、

「車掌」 → 映画「13日の金曜日」のジェイソン
「奇妙な異空間」 → 映画「キューブ」のトラップ部屋
「大罪」 → 映画「セブン」の7つの大罪

 と、気付いて、「ああ、これはカップルや友達と一緒に、次に誰が死ぬか予想しながら、きゃあきゃあ言いつつ見る作品なんだな」と理解しました。
すると急に面白くなりはじめ、「そろそろ車掌が出てくるぞ」とか「やっぱりリア充から死ぬんだな」とか、ジャンル物のお約束をワクワクする感じで楽しめました。

 

 きっと、この脚本を書いた人は映画が好きなんだろうなぁ。

 

 場面転換が多いところとか、2チームに分かれてそれぞれで物語が進むところとか、オープニングにだけカッコいいタイトルバックがあるところとか、映画の影響を感じます。
ただ、演劇と映画は「やっちゃいけないこと」のポイントが違うので、演劇としては違和感があるところがありました。でも「演劇で、ホラー映画をやろう」という挑戦は面白かったし、成功している部分もあったと思います。

 

 役者さんたちは、とても良かったです。アテ書きだったのかもしれませんが、それでもキャラクターを表現できていたと思います。他の演技も見てみたくなりました。

 

 最後に、ちょっと気になったところをいくつか挙げます。

 

・転換が不自然で、そのたびに気持ちが覚めました。音楽を流すとか、プロジェクターで映像を写すとか、もう少し工夫すると、お客さんが付いてきやすくなるのではないかと思います。

 

・車掌の殺陣は力が入って見ごたえがありましたが、動きが平面的なのは残念でした。せっかく台や階段があるのだから、高低を活かした殺陣も見たかったです。

 

・最初に札束をまき散らすシーンでは、誰かが「カネだー!」とか叫んだ方が良かった。後方の席の人にはメモ用紙をまいているようにしか見えなかったと思います。

 

・人形を集めるアイディアは面白かったけれど、どうせ集めるなら電車や駅にからめたアイテムの方が良かったんじゃないかと思いました。

 

 

 

 以上、余談でした。

 

 長かった「私論の試論」も語り尽くしてしまった感があります。

 私論の更に試論ですから、これからも変わって行くと思いますし、そもそも客観性のある妥当な試論だったのかも不明なのですが、少なくとも現在の私の考えをまとめることができたという満足感はあります。

 この試論を踏まえて、具体的な作品の批評を展開するべきなのですが、ここまでまとめてしまうと、批評も余談になってしまいそうです。

 無理して書くのはやめましょう。批評する価値のある作品に出会えば、嫌でも書かずにいられなくなるのですから。

 

 最後の最後に、金曜ショー劇場の最終回の感想を載せておこうと思います。観劇のすぐ後くらいに書いたのですが、なんとなく語り尽くせていないような気がして、ブログには載せなかったものです。

 この感想を書いた時は、まだ私論は今のように明確ではなく、よくわからない、つかみどころのない、ぼんやりとした「感覚」のようなものだったのですが、その萌芽はあると思います。

 明らかに、観劇とその感想を言語化したことが、私論のきっかけになっていて、「やっぱり、他人の作品を見るのは学びになるなぁ」「それについて語り、文字にするというのは大事だなぁ」「演劇とは楽しいものだなぁ」としみじみ思うのです。

 

 

 

『金曜ショー劇場ファイナル』の感想

(2016年10月21日(金)19:30~ Pub&Livespase FRONTIERにて)

 

金曜ショー劇場の最終回を観た。

何回目の最終回だっけ?、という気もするけれど、正真正銘の最終回らしい。

率直に言って、「大団円の最終回」という感じではなく、「刀折れ、矢が尽き、大童となって・・・」というノトノカミノリツネのような最後だった。

それが金ショーらしいっちゃ、らしい。

なくなってしまうのは、さびしいけれど、客層、雰囲気、内容まで、これほどまでアットホームでは、この先続けて行くことは難しいとも思った。厳しい言い方をすれば、弛緩している。

どこかに、きちんとした評価というか、突き放すような冷たい雰囲気がないと、役者も作品も成長できなくなってしまう。

オレアゴがいれば・・・という気もするけれど、それはきっと気のせい。

 

というワケで、私はねぎらわないし、作品評もいつもどおりの厳しめです。

 

 

一幕目「魔法熟女じぇるそ☆みーな」

役者さんたちの熱演で、面白く観ることができた。

役者、作演出、タイトルを聞いたところで予想できる通りの面白さだった。

面白いものに文句を言うのは贅沢かもしれないけれど、予想を超える面白さはなかった。

たぶん、期待しすぎたのだと思う。

 

脚本的には、始まりと、終わりはあるけれど、真ん中がないという印象。

音楽シーンで「真ん中がある雰囲気」を出そうとしているし、あるていど成功しているけれど、ないものをあると言い張っている感じは否めない。

 

まぁ、これは難癖を付けているようなもので、ただ単に、私が「じぇるそみーなが感じてる程度のむなしさで、人は狂ったりしないぜ」と心のどこかで思っているからかもしれない。

もっとむなしい人生を送っている人をたくさん知っているので・・・それを楽しい週末に観たいかという問題もあるけれど。

 

 

二幕目「花は咲く」

パンフレットがどこかに行ってしまってタイトルがわからなかったのだけれど、「金曜ショー劇場 最終回」とネットで検索したら、すぐに出てきた。

ネットで金ショーの情報が得られるなんて、時代は変わったのだと実感する。

 

これは演劇というより「弾き語り」、いや、弾き語りというより「漫談」です。

空閑氏が舞台上で楽屋ネタも盛り込んだ面白い話をして、何が飛び出すかと、みんなでハラハラしながら見ている。そんな感じ。

前に聞いたような話もあったりして、絞りに絞ったカラカラの雑巾を更に絞ったら、その手から血が滲んできた。そんな舞台。

ニヤニヤ笑いながら、ああ終るんだなぁ、終わらないといけないんだなぁ、これは終わらざるを得ないなぁと、それだけが真に迫ってきた。

公演後、間もなく泥酔。知った顔をたくさん見かけた気がするけれど、幻だったのかもしれない。いないはずの人間とたくさん話して楽しかった記憶がある。

 

この舞台に至るまでの諸々を知らない立場で、批評するべきではないような気もするし、いや、やはりできあがった作品だけで評価するのが正しい態度だとも思う。

 

できあがった作品だけで評価するならば「ギター、いらんかったんじゃない?」

諸々まで含めるならば「おつかれさまでした」

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 さて、ここまで、さらりと書いてきましたが、「書き直す」とか「構成を変更する」とは、具体的にどういう作業なのでしょうか。

 誰でも知っている「桃太郎」の場合で、考えてみたいと思います。

 

 説明の必要はないかもしれませんが、桃太郎のあらすじは次の通りです。

 

 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。

 おばあさんが川で桃を拾い、おじいさんが包丁で切ろうとすると、桃が割れて、中から男の子が生まれました。

 子どもがいなかったおじいさんとおばあさんは喜んで、男の子を桃太郎と名付けて大事に育てました。

 成長した桃太郎は、鬼退治の旅に出かけ、途中で犬、猿、キジと仲間になり、鬼が島の鬼を退治しました。

 鬼が島には、鬼が奪っていた宝物と、囚われのお姫様がおりました。

 桃太郎はお姫様と結婚して、宝物を持っておじいさん、おばあさんのもとへ帰り、みんなで幸せに暮らしましたとさ。

 

 一般的に、「書き直す」とは、設定を変更することだと思われがちです。例えば、礼儀正しい若者と設定していた桃太郎の人物像を、粗野な不良少年と設定し直せば、セリフや行動を書き直す必要が出てきます。

 ただ、私の経験上、礼儀正しいセリフでも、役者さんに「この人物は粗野な不良少年だから、そのように演じてください」と言えば、ちゃんと粗野に演じてくれます。逆に粗野なセリフでも「言葉は乱暴だけど、礼儀正しさがあり、心に高貴さがある若者です」と伝えれば、そのように演じてくれます。

 設定を変更し、脚本を書き直すことはもちろん必要ですが、それは演出の領分に近く、脚本でより重要なのは「構成の変更」の方ではないかと思います。

 

 桃太郎は「おじいさん、おばあさんと桃太郎の交流の物語」です。

 だから、おじいさん、おばあさんが桃太郎と出会うところから始まり、おじいさん、おばあさんとの再会で終わるのです。桃太郎とお姫様が結婚したところで物語が終わってしまったら、観客は「あれ?おじいさんとおばあさんは、ほったらかし?桃太郎って意外と恩知らず?」という印象を持ってしまうでしょう。

 例えば、桃太郎を「犬、猿、キジと桃太郎の友情の物語」にしたいのだったら、構成を変える必要があります。犬、猿、キジと桃太郎が出会うところから始めなければいけないのです。

 

『昔々、あるところに、犬、猿、キジの不良少年がおり、いつも殴り合いのケンカをしておりました。

 ある日そこへ、桃太郎という、めっぽう強い旅人が通りかかったのです』

 

 この後、桃太郎と犬、猿、キジは不良少年グループを作り、都へ繰り出します。都で桃太郎はお姫様に一目ぼれしてしまい、鬼にさらわれたお姫様を助けに行くために、鬼が島へ命を懸けた殴り込みをかける・・・という、ヤンキーマンガ的展開はどうでしょうか。

 

 もし、「桃太郎とお姫様のラブストーリー」にしたいのなら、都へやってきた桃太郎がお姫様に一目ぼれするところから始めて、その後に、犬、猿、キジと仲間にならなければいけません。桃太郎の出生については、回想シーンで触れて、「桃から生まれた為にお姫様と結婚することができない」とか、お姫様とのラブに役立てた方が良いでしょう。

 これなら、おじいさん、おばあさんのもとに帰らずに、鬼が島で姫を助けたところで物語が終わっても、そこまで違和感はないはずです。

 

 鬼との戦いがメインのアクション活劇にするなら、桃太郎の村に鬼がやってきて、暴虐の数々をはたらくところから始めて、その復讐を果たす、(もしくは、復讐という感情を乗り越える)物語にならなければいけません。

 おじいさん、おばあさんとの出会いから始めたり、お姫様への一目ぼれから始めると、アクションより心の交流に興味が移ってしまいます。

 

 私が子どもの頃、「新 桃太郎」という台湾映画がテレビで放映されました。

 この場合は、『天上界が赤鬼大魔王の軍団に攻め込まれ、桃太郎の父と母は、幼いわが子を桃の中に封じ込めて、地上界に逃がした』というスーパーマン的な始まり方でした。物語の冒頭で、やがて赤鬼大魔王と闘うことが運命づけられているワケです。

 

 同じ物語でも、構成によってテーマや主要人物の順位が入れ替わるのです。「書き直す」とは、セリフを書き換えるとか、設定をいじるとか、そういう小さな作業ではなくて、構成を変えるという大仕事なのです。そう考えると、第1稿を書き上げるまでにかかった時間と、同じくらいの時間を第2稿にかけてもおかしくないのではないでしょうか。

 

 ちなみに、ここでは桃太郎について考えましたが、古典の翻案モノは、どこに視点を置くかで作品の方向が、がらりと変わるので面白いです。

 

 『ドラゴンボール』は西遊記の翻案ですが、冒頭から、この世界で悟空がどう生きているのか、ブルマやドラゴンボールに悟空がどう反応するのか、で話が引っ張られて行きます。その後も、悟空という人物が面白すぎて、その他の登場人物たちとのチームワークは成立せず、「悟空がいれば、他の奴らいなくても解決したんじゃない?」という印象を持ってしまうほどです。連載の最後の方は「みんなで悟空を待ってるハナシ」の繰り返しになっていました。

 ドラゴンボールの悟空は、あまりに魅力的過ぎて、一人で作品の全部を背負ってしまったのです。

 

 山口貴由さんの『悟空道』も、悟空の魅力で引っ張って行きますが、悟空が登場しない時も事件が起こって、八戒やら悟浄やらがそれなりに対応します。それは物語の冒頭で、チームの話であることが明確になっているからです。

 原作の西遊記では、冒頭に悟空の前科が延々と描かれ、その後に悟空と三蔵が出会い、それから八戒、悟浄が加入します。つまり、前科持ちの猿が三蔵と出会って、どう更生するかという物語なんですね。

 『悟空道』の場合は、三蔵、八戒、悟浄の三人が、同時に悟空と出会います。

 4人組チームが結成されるところから始まり、その中で悟空がどんな役割を果たすのか、という話なんですね。だから、悟空がいない時も、それぞれが役割を果たして物語は進みます。結局、解決するのは悟空だけど、チームのメンバーがいなかったら、どうなってたか分からない・・・というチームワークの印象が残っています。『悟空道』の悟空は、超能力を持っているけれど、あくまでメンバーの一員なのです。

 

余談ですけれど、テレビアニメ『機動戦士ガンダム』を漫画化した『ガンダム ジ オリジン』と「オリジンのアニメ版」は、「アムロとシャアの人間ドラマ」であったアニメ版を、「歴史群像ドラマ」に書き換える試みだと思っています。

 今まで語られなかった歴史が映像化されるのはファンとして嬉しい限りですが、アムロとシャアが関わらない部分を次々に生み出してしまうことが、良いことなのか、悪いことなのか、私には判断が付かないでいます。アニメ版になかったエピソードが増えることで、構成が平板になり、歴史群像ドラマとしての完成度は高まっても、アムロとシャアのドラマは奥に引っ込んでしまうのではないかと・・・。

 わかりやすい「アムロとシャアの物語」という串があったからこそ、これだけの多くのファンに支持されたのではないかと思うのです。

 

 以上、余談でした。

 

 

(つづく)