さて、ここまで、さらりと書いてきましたが、「書き直す」とか「構成を変更する」とは、具体的にどういう作業なのでしょうか。
誰でも知っている「桃太郎」の場合で、考えてみたいと思います。
説明の必要はないかもしれませんが、桃太郎のあらすじは次の通りです。
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おばあさんが川で桃を拾い、おじいさんが包丁で切ろうとすると、桃が割れて、中から男の子が生まれました。
子どもがいなかったおじいさんとおばあさんは喜んで、男の子を桃太郎と名付けて大事に育てました。
成長した桃太郎は、鬼退治の旅に出かけ、途中で犬、猿、キジと仲間になり、鬼が島の鬼を退治しました。
鬼が島には、鬼が奪っていた宝物と、囚われのお姫様がおりました。
桃太郎はお姫様と結婚して、宝物を持っておじいさん、おばあさんのもとへ帰り、みんなで幸せに暮らしましたとさ。
一般的に、「書き直す」とは、設定を変更することだと思われがちです。例えば、礼儀正しい若者と設定していた桃太郎の人物像を、粗野な不良少年と設定し直せば、セリフや行動を書き直す必要が出てきます。
ただ、私の経験上、礼儀正しいセリフでも、役者さんに「この人物は粗野な不良少年だから、そのように演じてください」と言えば、ちゃんと粗野に演じてくれます。逆に粗野なセリフでも「言葉は乱暴だけど、礼儀正しさがあり、心に高貴さがある若者です」と伝えれば、そのように演じてくれます。
設定を変更し、脚本を書き直すことはもちろん必要ですが、それは演出の領分に近く、脚本でより重要なのは「構成の変更」の方ではないかと思います。
桃太郎は「おじいさん、おばあさんと桃太郎の交流の物語」です。
だから、おじいさん、おばあさんが桃太郎と出会うところから始まり、おじいさん、おばあさんとの再会で終わるのです。桃太郎とお姫様が結婚したところで物語が終わってしまったら、観客は「あれ?おじいさんとおばあさんは、ほったらかし?桃太郎って意外と恩知らず?」という印象を持ってしまうでしょう。
例えば、桃太郎を「犬、猿、キジと桃太郎の友情の物語」にしたいのだったら、構成を変える必要があります。犬、猿、キジと桃太郎が出会うところから始めなければいけないのです。
『昔々、あるところに、犬、猿、キジの不良少年がおり、いつも殴り合いのケンカをしておりました。
ある日そこへ、桃太郎という、めっぽう強い旅人が通りかかったのです』
この後、桃太郎と犬、猿、キジは不良少年グループを作り、都へ繰り出します。都で桃太郎はお姫様に一目ぼれしてしまい、鬼にさらわれたお姫様を助けに行くために、鬼が島へ命を懸けた殴り込みをかける・・・という、ヤンキーマンガ的展開はどうでしょうか。
もし、「桃太郎とお姫様のラブストーリー」にしたいのなら、都へやってきた桃太郎がお姫様に一目ぼれするところから始めて、その後に、犬、猿、キジと仲間にならなければいけません。桃太郎の出生については、回想シーンで触れて、「桃から生まれた為にお姫様と結婚することができない」とか、お姫様とのラブに役立てた方が良いでしょう。
これなら、おじいさん、おばあさんのもとに帰らずに、鬼が島で姫を助けたところで物語が終わっても、そこまで違和感はないはずです。
鬼との戦いがメインのアクション活劇にするなら、桃太郎の村に鬼がやってきて、暴虐の数々をはたらくところから始めて、その復讐を果たす、(もしくは、復讐という感情を乗り越える)物語にならなければいけません。
おじいさん、おばあさんとの出会いから始めたり、お姫様への一目ぼれから始めると、アクションより心の交流に興味が移ってしまいます。
私が子どもの頃、「新 桃太郎」という台湾映画がテレビで放映されました。
この場合は、『天上界が赤鬼大魔王の軍団に攻め込まれ、桃太郎の父と母は、幼いわが子を桃の中に封じ込めて、地上界に逃がした』というスーパーマン的な始まり方でした。物語の冒頭で、やがて赤鬼大魔王と闘うことが運命づけられているワケです。
同じ物語でも、構成によってテーマや主要人物の順位が入れ替わるのです。「書き直す」とは、セリフを書き換えるとか、設定をいじるとか、そういう小さな作業ではなくて、構成を変えるという大仕事なのです。そう考えると、第1稿を書き上げるまでにかかった時間と、同じくらいの時間を第2稿にかけてもおかしくないのではないでしょうか。
ちなみに、ここでは桃太郎について考えましたが、古典の翻案モノは、どこに視点を置くかで作品の方向が、がらりと変わるので面白いです。
『ドラゴンボール』は西遊記の翻案ですが、冒頭から、この世界で悟空がどう生きているのか、ブルマやドラゴンボールに悟空がどう反応するのか、で話が引っ張られて行きます。その後も、悟空という人物が面白すぎて、その他の登場人物たちとのチームワークは成立せず、「悟空がいれば、他の奴らいなくても解決したんじゃない?」という印象を持ってしまうほどです。連載の最後の方は「みんなで悟空を待ってるハナシ」の繰り返しになっていました。
ドラゴンボールの悟空は、あまりに魅力的過ぎて、一人で作品の全部を背負ってしまったのです。
山口貴由さんの『悟空道』も、悟空の魅力で引っ張って行きますが、悟空が登場しない時も事件が起こって、八戒やら悟浄やらがそれなりに対応します。それは物語の冒頭で、チームの話であることが明確になっているからです。
原作の西遊記では、冒頭に悟空の前科が延々と描かれ、その後に悟空と三蔵が出会い、それから八戒、悟浄が加入します。つまり、前科持ちの猿が三蔵と出会って、どう更生するかという物語なんですね。
『悟空道』の場合は、三蔵、八戒、悟浄の三人が、同時に悟空と出会います。
4人組チームが結成されるところから始まり、その中で悟空がどんな役割を果たすのか、という話なんですね。だから、悟空がいない時も、それぞれが役割を果たして物語は進みます。結局、解決するのは悟空だけど、チームのメンバーがいなかったら、どうなってたか分からない・・・というチームワークの印象が残っています。『悟空道』の悟空は、超能力を持っているけれど、あくまでメンバーの一員なのです。
余談ですけれど、テレビアニメ『機動戦士ガンダム』を漫画化した『ガンダム ジ オリジン』と「オリジンのアニメ版」は、「アムロとシャアの人間ドラマ」であったアニメ版を、「歴史群像ドラマ」に書き換える試みだと思っています。
今まで語られなかった歴史が映像化されるのはファンとして嬉しい限りですが、アムロとシャアが関わらない部分を次々に生み出してしまうことが、良いことなのか、悪いことなのか、私には判断が付かないでいます。アニメ版になかったエピソードが増えることで、構成が平板になり、歴史群像ドラマとしての完成度は高まっても、アムロとシャアのドラマは奥に引っ込んでしまうのではないかと・・・。
わかりやすい「アムロとシャアの物語」という串があったからこそ、これだけの多くのファンに支持されたのではないかと思うのです。
以上、余談でした。
(つづく)