杞憂(政治ネタの長文です。興味ない人は読まないでくださいね~) | おだんご日和

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Dango茶屋・いちのせの徒然記

安倍内閣の支持率が下がっていて、新聞、テレビ、ネットでもいろいろと分析がされているけれど、あんまり的を得ていないのではないかと思っています。

 

安倍さんは信用をなくしてしまったのだけれど、その原因は森友とか加計とかにあるのではなく、今までの政策で「ああ、この人は目的のためなら、法律ギリギリの手段でも躊躇なくやる人なんだな」ということが浸透してしまったからではないかと・・・。

例えば、「異次元の金融緩和」というのは一瞬、名案のように感じるけれど、3分間考えると「実体経済が盛り上がっていないのに、そんなことして大丈夫なのかな」と不安になるようなギリギリ感のある手段です。

集団的自衛権については、憲法改正という手続きを踏まずに「憲法解釈の変更」という違法なのか脱法なのかよくわからないギリギリの手段を使いました。

共謀罪では委員会での採決をすっとばして「中間報告」という、違法じゃないんだろうけれど納得しにくいギリギリの手段を使って成立させてしまいました。

 

安倍さんの取った手段は、どれもこれも違法とは言い切れないし、日本のことを思ってやっているのかもしれないけれど、どうにもスッキリしない、ギリギリの連続でした。

それでも今まで支持率が下がってこなかったのは、「しかし、それもきっと日本のためを思って、苦渋の気持ちでやっているのだろう」と・・・支持者の方々は、安倍さんの心中を(あんまり言いたくないけれど)忖度してきたのだと思います。

 こうやって、5年をかけて、ゆっくり深く「ああ、この人は目的のためなら、法律ギリギリの手段でも躊躇なくやる人なんだな」という印象が浸透したところで、「もしかして、自分の取り巻きのためにも、法律ギリギリの手段を使っていたんじゃないか?」「もしかして、日本のためじゃなくて、身内のためにやってたんじゃないか?」という疑いをもたれてしまったのが、今の状況なのではないでしょうか。

 

 もしそうだとしたら、安倍さんが「モリにもカケにも、自分は違法なことをしていない」と証明できたとしても、支持を取り戻すことはできないような気がします。だって安倍さんが違法なことをしないのは、すでにみんな知っているからです。

 そして「違法なことはしないけれど、法律ギリギリのことはする」ということもみんな知っているワケですから、これは違法・適法を判断しているのではなくて、「身内のために法律ギリギリのことをする可能性のある人は、違法じゃないけど念のために排除しておいた方が良いだろう」という、よく基準のわかない、感覚的な判断ということになるのではないでしょうか。

 

 今、安倍さんを批判する人はモリ・カケ問題の違法性や不正義を糾弾するし、擁護する人は「一点の瑕疵もない」「マスコミと野党のキャンペーンだ」というけれど、どちらも根本を見誤っていて、つまるところ安倍さんは過去の政権運営を総合的に評価され、判断されようとしているところなのだと思います。

 過去を評価した上で現在を判断しているので、新しいニュースが出て来るたびに、支持者は「安倍さんの正しさを証明する新証拠だ!」と言い、批判者は「また新しい疑惑が出てきた!」と言います。それぞれがすでに下している評価に合わせて現在のニュースを判断しているので、こんなことになってしまうのでしょう。

 

 私の予想では、安倍さんは余程のことがない限り、排除されるでしょう。違法なことはしていないけれど、怪しい感じがするから排除する・・・つまり「国民は安倍さんを念のために排除する」と思います。

 排除の後、安倍さんのことを支持する方は、きっと「冤罪だった」「マスコミのキャンペーンだった」「アメリカの陰謀だった」と言うでしょうけれど、それは空しい叫びにしかならないと思います。排除の理由は、違法・適法とは別のところにあるからです。

 ところで、この『念のために排除する』というのは、実は怖ろしいことなのではないか・・・と思っています。

 

違法なことはしていないけれど、「念のために排除された政治家」は、安倍さんが初めてではありません。当時、民主党の党首だった小沢一郎さんもいわゆる陸山会事件で容疑がかけられ、当時、政権交代目前だった民主党の中枢から排除されてしまいました。その後、無罪が確定したけれど、総理の席に座ることはなく、政治の表舞台からは遠ざかったままです。

言い方を変えると、「国民は政治の表舞台から、小沢さんを念のために排除したままです」

 

私が戦慄するのは、「念のために排除する」という考え方が、「いわゆる共謀罪」の思想と通底しているからです。私のつたない推理が仮に当たっているとしたら、安倍さんは自分が通した法律の思想によって排除されるのだと言えます。また、「念のために排除する」という考え方は、どこかで「多様性・異論を認めない」という全体主義ともつながっているように私は感じます。

 

与野党の有力政治家を、国民が「念のために排除する」のだとしたら・・・と考えて、私は何か不安な、ぞっとするような気分になりました。

 

「もしかして私たちは、目的のためならば『念のために排除する』ことも躊躇なくやる人たちなんじゃないか?」

「共謀罪とは、私たちの中にある『念のために排除する』という思想を、法律によって実現しただけなのではないか?」

今、私はそのように疑っています。だとしたら、安倍さんという「法律の実現者」がいなくなることで、思想はむしろ剥き出しになって、私たちの中から吹き出してくるのではないかと不安を感じています。

決して、そうなって欲しくないし、そうならないように私なりの努力や判断、行動をしていかなければならないかもしれないと思っていて、「それはしんどいなぁ」とも思っています。

 

安倍さんは近々、国会で説明し、内閣を改造するそうです。(※この文章は、いわゆる「閉会中審査」の前に書いたものです)

何とか支持を取り戻そうとして右往左往している安倍さんの姿は、まるで童話に出て来る「きまぐれな王様に必死の命乞いをする哀れな大臣」を見ているようで、「王様は誰なのだろう?」「罪状は何なのだろう?」「ずる賢い大臣がいなくなった後、きまぐれな王様はいったい何を始めるのだろう」と、何とも言えない気分になるのです。

 

まぁ、私の予測は外れることが多いので、何ともならず、何となく、大事にはならずに過ぎて行くのではないかと期待しています。