「悪の力」(姜 尚中 著)と、「偽善のすすめ」(パオロ・マッツァリーノ 著)を読みました。
どちらの作家さんにも以前から興味があって読んでみたいと思っていたんですが、偶然にも両書は「悪」や「悪意」、そして「善」と「善意」について考察した本でした。
どちらも面白かったけれど、考察は控えめで、事実の確認や調査結果の報告が主だった内容でした。(悪の力のあとがきには、新書版なので、読みやすさを優先したと書かれていたので、そういう部分もあるのでしょう)
久しぶりに面白いものを読んだので、急にエーリッヒ・フロムの「悪について」を読みたくなり、本棚から引っぱり出したのですが・・・昔読んだ時とは随分印象が違って、そのキリスト教的な価値観に「なるほど」となったのでした。
世間一般に言われる「様々な悪」を分類し、それらの「悪の度合い」を評価して行くのだけれど、その中で最も悪とされるのが「死を愛し、死を賛美する悪」となっている。
しかし、「死を愛し、死を賛美する悪」が、なぜ最も悪の度合いが強いのかを明確に証明することはせず、絶対・自明のこととして論を進めるのです。
「あのニュージーランド人の言っていることは、こういうことだったのか!」と、私は思った。
最近、イギリス系のニュージーランド人が書いている日本語ブログ(ややこしい)を知って、ひまひまに過去記事を読んでいるのですが、その中に次のような論旨の文章があったのです。
「日本人の『相対化という考え方』には、空恐ろしいものを感じることがある。
911のテロが世界中に生放送された時、日本の識者といわれる人が『アメリカが進めてきたグローバル化や国際戦略の結果だ』と言った。
これは、目の前でたくさんの人が死んでいる映像を見ながら、テロリストを非難するのではなく『自業自得だ』と言っているのと同じではないか。いくらなんでも、あまりに冷たい相対化ではないだろうか?」
ブログ主の解釈に若干の疑問は感じるけれど、きっと911から「死を愛し、死を賛美する悪」を感じて、それを絶対・自明のこととして非難しない日本人に戦慄したのだろう。
そして、世界ではどうやらブログ主のように感じる人間が圧倒的多数であり、日本人のように「死を愛し、死を賛美する悪」さえも相対化してしまうのは少数派の変わり者ということらしい。
日本人がなぜそうなるのか・・・武士道のせいか?・・・明治維新と敗戦という2度の価値観の転倒を経験したからか・・・そもそもそれは相対化なのか?・・・日本人には絶対の価値観はないのか?
私は、ぐるぐるとワケがわからなくなり、もう一度ゆっくり考える必要があるぞと、思ったのでした。