こんばんは、
忙しくてアニメーションを作れていない、DANGO茶屋アニメーション担当のイチノセです。
この忙しさも来週で終わり・・・っていうか、終わってほしい。
子どもと一緒にキョウリュウジャーや仮面ライダーをちょくちょく見ていたのですが、去年あたりからプリキュアも見るようになり、今放送中の「ドキドキプリキュア」は、大体のストーリーが追えるくらい見ています。(平均すると3~4週に1回くらいのペースでしょうか)
プリキュアというのは、意外と抽象的な事象を扱う作品なんだな、と感心しています。
そろそろ最終回が近いので、敵の大ボスの正体なんかがわかってくるのですが、大ざっぱに言うと「自分の娘の命を救うために、悪魔を復活させた男」が大ボスなんです。
つまり、「愛ゆえに悪に手を染めた男」と「愛の戦士プリキュア」が戦っていたわけで、「善と悪の戦い」だと思っていたものが、実は「愛と愛の戦い」だったという衝撃の展開です。
愛とは言葉で理論的に説明できたり、試験管の中に成分を封じ込めたりできるものではなく、行為そのものなんだってことを「ドキドキプリキュア」は言っているんですね。
「愛が美しいのではなく、愛ゆえの行為が美しい」 → プリキュアが戦わなければいけない理由
「愛が恐ろしいのではなく、愛ゆえの行為が恐ろしい」 → 大ボスが存在する理由
愛は行為(実践)において初めて私たちの前に現れるのです。
実践理性批判じゃないですか!カントだ、これは。
実践理性に関する物語だと理解すると、主人公マナの極端に優等生的な性格も納得できます。
彼女は、子ども(視聴者)たちに実践理性を体感させるためのキャラクターなんですね。
だから、愛について悩む前に、愛の為に行動するわけです。
通じる、通じない、という理屈とは関係なしに大ボスを説得しようとするわけです。
だって、実践でしか表現できない、愛というものを体現するキャラクターでなければいけないんですから。
現実の世界にプリキュアはいません。マナみたいな完璧優等生も存在しません。
でも、そんな夢物語にちょっと感動してしまうというコトは・・・人間は実践理性の正しさを直感的に感じる力があるんではないかと・・・日曜の朝に思ったのでした。
来週は最終回のようです。
残念ながら忙しくて見れませんが、レジーナが幸せになれる最終回だといいですね。