1923年、乗杉課長は社会教育の基本的な考え方をまとめた
「社会教育の研究」という本を発行しました。
そして翌1924年に更迭されます。
1925年に「地方社会教育職員制」が公布され、各道府県や各市町村に
社会教育主事と呼ばれる社会教育のスペシャリストが配置されるようになりました。
長野で起こっていた自由大学運動は、1929年の大恐慌によって衰退しました。
各地の青年団は国家により弾圧されるようになり、
青年団の指導者が逮捕されるようになりました。
1931年の満州事変以降、大阪の労働学校も弾圧され閉校しました。
1935年には社会教育の管轄として青年学校制度が創設され、
勤労青年の為の教育機関ができました。
1937年に日本は中国への侵略を開始し、翌1938年に国家総動員法が公布されました。
国民の自由で自主的な学習を支えるために作られたはずの社会教育のシステムは、
前進後退を繰り返しながら、徐々に人々を統制する為のシステムとして利用されていったのです。
国家総動員法の公布後は、各地さまざまだった青少年団体が統合され、
大日本青少年団のみになりました。
同じように婦人団体は大日本婦人会に統一されました。
団体は一元的に管理され、各団体独自の活動は消滅して行きました。
社会教育団体は、国家の意思を国民の隅々まで伝え、強要する為のものに変わってしまったのです。
1942年、第四課から発展して生まれた「社会教育局」は廃止され「教化局」が新設されました。
同時に地方社会教育職員制も廃止され、地方の社会教育課や社会教育主事も消えて行きました。
戦時体制のもとに、社会教育は公民教育ならぬ「皇民教育」に変質して行き、
そしてなくなってしまったのです。
戦争が終わった時、社会教育(と学校教育)に残ったのは
「教育の力によって人々が戦争に疑問を持たなくなり、
自ら進んで死ぬことさえあった」という事実だけでした。
(つづく)