一人称について | おだんご日和

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Dango茶屋・いちのせの徒然記

ぼく、わたし、おれ、おら…

一人称が自分自身を規制しているのではないかと思う事があります。





例えば、普段は「おい」と九州方言を使っている人でも、何かの式典の時には「私」を使いますよね。

よそゆき用の自分に切り替えているわけです。





小学生6年生くらいの頃、普段の生活では「ぼく」か「おい」なのに、授業中は「私」を使う自分に違和感を持ち、

考え抜いた末「私」に統一することにしました。

思春期を迎え、ワケがわからなくなって一番不自然な道を選んだワケです。
統一したばかりのころは自分でも違和感があったし、

学友たちから「どうしたんだ?」「オカマだったのか?」と問われたりもしましたが、

中学を卒業する頃には「私」以外の一人称を使う事の方が違和感を感じるようになっていました。
また「私」を使うことで、その他の言葉使いも標準語と九州方言を混ぜたような変な言葉使いになって行きました。
一人称によって、自分自身を規制し、改造していったとも言えるかも知れません。





よく自己啓発本の帯なんかに「自分の心持しだいで、なりたい自分になれる!」みたいなことが書いてありますよね。

あれには私も反対できません。

でも「なりたくない自分にもなってしまうかも!」だし、

「なりたい自分になれたからといって幸せかどうかはわかりません!」とも言えると思うのです。





一人称とか、言葉とかからアイデンティティを探る物語というのは、

地味だけど面白い作品になるのではないかなぁ。