まじっすか!?

本格的な夏に向けて、腹回りや二の腕などやはり気になりますよね!

そうめんのカロリーはごはんの1.4倍以上 
夏の食事に要注意
オリコン 6月14日(日)

そうめん1人前(2束約100グラム)のカロリーはごはん茶碗1杯分よりも多いんだとか

 暑くなるにつれて食べる機会が増えるそうめんだが、ウーマンウェルネス研究会によると、ごはん茶碗1杯(約150g)が250kcal前後なのに対し、そうめん1人前(2束約100g)は350kcal前後と、1.4倍以上カロリーが高いという。

どっちの方がカラダにいい? コンビニフードのチョイス法

 のど越しが良く夏バテしている時でも食べやすいそうめんだが、その材料は小麦と塩。
そうめん単体で食べると食べ過ぎてしまったり、炭水化物以外の栄養素が足りなくなってしまうことが。
また、おかずを付ける場合も天ぷらなどを選んでしまうと、結果的に高カロリーの食事になってしまうという。

 そのほか、同研究会はスポーツドリンクにも警鐘を鳴らす。
「スポーツドリンクに含まれる糖分や塩分は、本格的なスポーツをするときには適していますが、デスクワーク程度の運動量の人には糖分は消費しきれず、余った糖分は体内で脂肪として蓄積されます」(同研究会)。
塩分を摂りすぎると血液中の水分量が増えてむくみやすくなったり、塩分のとり過ぎにより高血圧の原因になることもある。

 夏の熱中症対策や夏バテ時の食事として重宝されるこれらだが、摂りすぎないようご注意を。

では、糖質の方はどうなんでしょうか?

糖質が多い主食ランキング!

主食なのでどれも低くはないのですが、それでもそのなかで上位下位があるだろう、ということで、主食糖質多いランキングを発表したいと思います。
ただし分かりやすい分量での算出をしていますのでご自身の食べる量と照らし合わせて活用してください。

第1位 食パン 66.7g
1斤の6枚カットの1枚あたりの量です。これは多いですね!
小麦粉に含まれる糖質に加え、砂糖やバターなどに含まれる乳糖も入っているので当然の結果とも言えるでしょう。
糖質制限ダイエット中はどんなに主食が食べたくても、パンだけは食べないように自制をしたほうがよさそうです。

ただし、パンのなかでも「糖質制限パン」と呼ばれるものがありますので、毎日の朝ごはんはパンだ!パンが好きだからダイエットを諦めるかも、、という人は、一度低糖質なブランパンなどを試してみると良いでしょう。

菓子パンがやめられないという人は、たとえばメープルやチョコレートの血糖値を上げない低糖質シロップなどを使えば、低糖質パンが簡単に菓子パンになります。
飲み物やアイスなど何でも使えるので便利ですよ。

第2位 中華麺 55.8g
中華麺200gあたりの糖質量です。
パンよりは下がりまでうがでも多いですね。
どうしてもラーメンを食べたい場合は、麺少な目、野菜肉ましましで頼みましょう。

それでも麺がどうしても好き、自炊などでどうにかならないかなと思っている人には大豆麺がオススメです。
1食あたりのコストも安いですし、お試しパックもあるのでお口に合うかの確認もできますね。
今、売れているみたいです。

第3位 パスタ 53.8g
スパゲッティ200gあたりの糖質量です。
GI値が低いと騒がれたパスタも、結局糖質はしっかりあるんですよね。
こちらも、キノコや野菜を多めにして、麺は少なめにしましょう。
ソースも、クリーム系のものより、ニンニクベースや、トマトベース(市販のトマトソースやケチャップでなく、生のトマトをオリーブでいためたものやトマト缶)が良いです。
クリーム系のパスタは豆乳で作りましょう。

第4位 ご飯1杯 44.2g
茶碗一杯120gあたりの糖質量です。
ご飯はやはり多いですね。
沢山食べる方ですと、お茶碗1杯も120gじゃ足りないのではないでしょうか?
多い方だと150gは取っている気がします。
食べる際は、玄米など未精製のものを少量いただきましょう。
粟などを一緒に炊いたり、マンナンヒカリのようなコンニャク米を混ぜると良いです。

第5位 そば 43.2g
そば1杯180gあたりの糖質量です。
そば、うどんの争いは、うどんが低糖質を勝ち得たようです。
とはいえあまり変わらないですね。
そばも、野菜やお肉など具沢山のそばにして麺の量は減らしましょう。

第6位 うどん 41.6g
うどん1杯200gあたりの糖質量です。
うどん、美味しいですよね。
炭水化物たちの中ではじゃっかん低めです。
こちらもそば同様具を多めにして食べましょう。

第6位 じゃがいも 19.6g
じゃが芋1個120gあたりの糖質量です。
ここでぶっちぎりで低い(とはいえ高いですが)糖質量になりました。
ただ、芋1個でお腹を満たせるのか!?という感じもありますが、それでも2個食べてもこの中では1番低いですね。
日本人にとってお芋は「おかず」ですが、どうしても主食系が食べたくなったらお芋という選択肢も悪くはないですね。

以上、主食の糖質ランキングでした。

比較されている品目の基準量がそれぞれ違っているのでわかりずらいですが、食パンは危険そうですね!

ちなみにそうめんの糖質量は、1束41.9gだそうですので、そばとうどんの中間ですかね。

但し、「揖保の糸」だと1束は50gなんですが・・。

まあ、細かな数値は気にせず、パン類、麺類、穀類は糖質量が多いという認識で十分でしょう。

それから最近ヨーロッパでは、パスタにパスタ麺を使わず、しらたきで代用しているレストランが人気だそうです。

原料のこんにゃくは糖質、カロリー共にほとんどゼロですからね!

早速チャレンジしてみましょう!

さらに、夏の風物詩と言えばBBQ、でもこんなことも。

BBQイベント参加の55人が食中毒 藤沢・鵠沼海岸
朝日新聞デジタル 6月15日(月)

 神奈川県藤沢市は14日、鵠沼海岸での地引き網とバーベキューのイベントに参加した2団体の計55人が下痢や腹痛を訴え、複数の患者からノロウイルスが検出されたと発表した。
1人が川崎市の病院に入院したが、快方に向かっているという。

 イベントは6日に開かれ、神奈川県、東京都、千葉県の福利厚生関係3団体が参加。
団体ごとに地引き網で捕った生シラスや魚の刺し身のほか、焼き肉や焼きそばを食べた。
市が把握した2団体からは計181人が参加していた。

 市は別の1団体についても参加人数や被害状況などの把握を急ぐとともに、主催した同市鵠沼海岸4丁目の「堀川網」(葉山一郎社長)を営業禁止処分にした。


釣ったばかりの魚でも、外気が高ければ10分あればダメになってしまいます。

保存管理には気をつけましょう。

次の話題は、商品技術の新たな革命に執念を燃やすダイソンの思考方法がわかる記事です。

LED電球に未来はない~ジェイク ダイソンインタビュー
Impress Watch 6月15日(月)

 “吸引力の変わらない、ただ1つの掃除機”というキャッチフレーズのCMでもお馴染みのダイソン。
日本国内の掃除機市場トップシェアを誇るなど、ますます成長を続けている。
そのダイソンに最近、ある会社が参入した。
LEDライトの開発を行なう「ジェイク ダイソン ライト」という会社だ。

 この会社を率いるのは、ダイソンの創始者であるジェームズ ダイソン氏の長男である、ジェイク ダイソン氏。
彼が扱っているのは、独自の冷却構造を搭載したLEDライトで、デスクやリビングルームに適した「CSYS(シーシス)」シリーズなどをラインアップする。
価格は9万円からとLEDライトとしてはかなり高額だ。

 今回、新製品「Ariel」シリーズのプロモーションのために、来日したジェイク ダイソン氏にインタビューする機会を得た。
製品についてはもちろん、現在のLED市場について、父親との関係についても話を聞いた。

■ 父の会社に参入した理由

 ジェイク ダイソンは、ロンドンの名門カレッジであるセントラル・セント・マーティンズへ進学。
デザインを学んだ後、2004年にデザイン・エンジニアとして自身のジェイク ダイソン・プロダクトを立ち上げた。
その後、照明のデザインに長く関わり、2009年からはLED照明の開発をスタートした。
「CSYS LED Light(シーシス・LEDライト)」も、当初は、ジェイク ダイソン・プロダクトの製品として発売されている。
今、このタイミングで、ダイソン傘下に入ったのはなぜか。

 「ダイソンはファミリービジネスであり、それに対して、熱意、誇りを感じている。
私は家族の一員であり、なるべく早くファミリービジネスに取り組む必要があった。
また、自分にとってダイソンで、製造、マーケティング、デザインについて学ぶことは非常に重要なことだった。
ダイソンからかれこれ3年も、ジェイクダイソンライトへラブコールがあったのも事実。
照明は非常に重要なカテゴリーであり、BtoBビジネスへの可能性も広がっている」

 父親の会社であるダイソンに参入して、今何を感じているのか。

 「今、最も興味があるのはダイソンにいる2,000名のエンジニア達だ。
これから2年かけて倍の4,000名まで増やす計画があるが、彼らは非常に優秀であり、彼らと一緒に仕事をすることが楽しみ。

 私には確固たるロードマップがあり、力強いアイディアもある。
ダイソンを通じて、自分のビジョンを実現することで、より強いカテゴリーを作ることができるだろう。
現在は、家族の一因として、ほかの商品についても勉強したり、ほかの商品のデザインについても携わっている。
ダイソンのデザインというのは、パフォーマンス、つまり技術によって決まる。
見た目のデザインというのはその後についてくるもの。
40年後でも同じように美しいと感じるには、技術が伴っていることが重要だ」

■ ジェームズ ダイソンは愛がある父親

 父親であり、ダイソンの創始者であるジェームズ ダイソンはどんな父親だったのか。

 「愛情に溢れた父親であり、私達子供がやりたいことをサポートしてくれた。
私達がやりたいことをやっていい、というスタンスであり、プレッシャーのようなものは全くなかった。
彼が教えてくれたのは、自分の人生の旅を通じて、自分を信じろということ。
私たちは決して裕福な家庭ではなかった。
子供の時はお金もなかったし、ごく普通の家庭だった。
今は、成功してお金も手に入れているわけだが、それは一晩でなしえたものではなく、ここまでくるのに20年かかっている。
それは彼(ジェームズ ダイソン)の努力や人間性があったからこそ得たものだ」

■ オフィスライティングは、1960年代から進化していない

 LED照明に関してはすでにたくさんの会社が参入している。
ライバルとして気になる会社はあるのだろうか。

 「技術的には、2014年ノーベル物理学賞受賞者の中村修二が創設したLED技術の世界的リーダー企業『ソラー(Soraa)』が気になる。
デザイン的には、coelux skylightも賢いデザイン。LEDの光を素材の力で出し切っている。
coelux skylightは5万ドルもする高額な製品だが、光を太陽の光のように感じさせてくれる。
そもそも、私は青い光が好きではない」

 確かに、「CSYS LED Light(シーシス・LEDライト)」でも昼白色には対応していない。それはなぜか。

 「CSYSに関しては、今後昼白色にも対応していく予定がある。
しかし、そもそもなぜオフィスの照明が青白くなければいけないのか。
オフィスライティングというのは、1960年代からなんの進化もしていない。
これだけ産業が進化して、長寿命のLEDというものが開発されたのに、オフィスの照明は、昔の蛍光灯と同じデザインで、同じ形をしている。

 あくまで商業的な照明器具であって、人間のことを考えていない。
商業的なスキームばかりを優先している。
それは悪い照明だ。
このような事態になってしまったのは、照明器具を作ってきた私達の責任であり、LEDチップの開発者の責任だと考える。
人間の1日のリズムや健康に配慮した照明がもっと出てきていいはず。
植物だって、光を浴びて花を咲かせ、日が落ちれば花が落ちる。
そのリズムは人間も一緒だ」

■ 優秀なエンジニアリング、優秀な技術は決して安くない

 日本は世界的に見ても、LED化が進んでおり、家電量販店に行けばたくさんの製品が並ぶ。
寿命はジェイクダイソンの製品より確かに短いが、同じサイズ、明るさのデスクスタンドは1万円台からある。
なぜ、ジェイクダイソンの製品はこれほど、高額なのか。

 「私は日本の家電量販店に出かけていき、たくさんの製品を見てきた。
確かに安くて高寿命を謳う製品がたくさん並んでいるが、それらが本当に10年持つのかは疑問だ。
我々が調査したところでは、そんな製品は1つもない。
十分に強い光は出ていないし、4万時間も持たないだろう。

 我々の製品を高いというが、最近価格を下げたばかり。
優秀なエンジニアリング、優秀な技術は決して安くないということだけは理解して欲しい」

■ 宇宙に浮かぶ人工衛星のようなLEDライト「Ariel」

 今回発表したAriel(アリエル)は、高出力のLEDチップを1つだけ採用し、レンズを多用して9,000lmの明るさを実現するライト。
天井を間接的に照射するアップライトと、ダウンライトの2種類をラインナップする。
LEDから熱を取り去る独自のヒートパイプテクノロジーを搭載しており、LEDを約50℃前後に保ち、約37年の長寿命を実現した。
日本での販売時期、販売価格については未定。

 独自のヒートパイプテクノロジーとは、一滴の水を入れた直径6mmの銅製のヒートパイプを用いることで、LEDの熱を取り去るというもの。
LEDの素子から発生する熱は、ヒートパイプを通り、アルミニウム製のヒートシンクへと移動する。

 一般的なLED照明は接合部温度が約130℃まで上昇し、製品寿命は5万時間程度だが、ヒートパイプテクノロジーにより、LEDの接合部温度を53.4℃と低く抑制し、連続使用時間16万時間を超えても、ライトの色や明るさを長期的に均一に保つことができるという。

 製品名のArielは、イギリス初の人工衛星から取ったという。

 「宇宙に浮かぶ人工衛星のようなイメージの照明を作りたかった」という。

■ LED電球に未来はない

 ダイソンに参入した今、照明以外のほかの製品の開発にも関わっていくのか。

 「何かをはじめたら、終わりまで見届けないといけない。
今後も照明器具の開発を進めていく。
というのも、現在の市場にはたくさんの問題があるからだ。

 蛍光灯の例からいえば、寿命は長い(一般的に6,000~20,000時間と言われている)というが、実際には500~1,000時間程度の寿命しかない。
LED電球もそれと同じように実際の寿命より長く、謳っている製品が多い。
たくさんのLED電球を壊して、中を見たがどれも同じ問題を抱えていた。
つまり、熱を放出できていないということだ。
“LED電球は長寿命”という誤った情報を消費者に与えてしまう。
私は、LED電球というのは、将来なくなると考えている。

 例えば今インタビューしているこのスペース(ダイソン表参道店)を十分に明るくしようとしたら、20個ほどの電球が必要で、その配置まで考えなくてはならない。
しかし、アリエルなら1つで、充分で明るくできる。

 オフィスライティングの話でも触れたが、現在の照明器具で決められている基準というのは、1960年代の技術、蛍光灯を基に作られたもので、今のLEDには全く合っていない。
おそらく、近い将来これらの基準は変わるだろう。

 私は、たくさんの光源を好まないし、欲しているものは1つしかない。
それはコンバーチブル(屋根のない車体)に乗っているような感覚だ。
太陽の光、あるいは星の光が気持ち良く照らしてくれる。
そういう照明をみんな欲しているはずだ」

今ある基準がすべてではない、という前提から発想するわけですね。

確かにその当たり前とされてきた前提さえ崩せば、斬新で画期的なアイディアが生まれそうです。

このインタビューで、ダイソンの躍進は、確かな技術力と豊富なアイディアに支えられていることがわかりますね。

では、最後はこんな話題を。

今日は、ジェロニモの誕生日でもありますので、彼の簡単な略歴をどうぞ。

ジェロニモ(Geronimo、本名:Goyathlay、1829年6月16日 - 1909年2月17日)はアメリカインディアン、アパッチ族のシャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。
なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実は酋長ではなく部族の「指導者」でもない。

メキシコ軍に家族が虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。
ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。
戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。
ジェロニモが軍事的な指導をしたこともない。

ジェロニモの名:
ジェロニモとはスペイン語を母語とするメキシコ人のつけたあだ名「ヘロニモ」の英語読みで、英語では「ジェローム」に相当する名前である。
アパッチ語の本名は「あくびをする人(眠たがり)」を意味するゴヤスレイ(Goyathlay)(文献によってはゴクレイエ、ゴヤクラなど)である。

アパッチ族などインディアン民族には、他人が実名を呼ぶことを避ける習慣があり、家族以外に決して教えない「神聖な名前」を持っており、ジェロニモの場合も当然、これは部族外には伝わっていない。
また、インディアンは伝統的に生涯に何度も名を変える風習があるので、「ジェロニモ」も、彼の本名の一つと言える。

メキシコとアメリカ双方は、アパッチの略奪に頭を悩ませ、何度も遠征をおこない掃討戦を試みた。
しかし山岳ゲリラとも言うべき彼らの戦いは変幻自在で西部大平原のスー族と並んで、アパッチ族は最後までアメリカ合衆国に抵抗したインディアン民族となった。
数々の戦いの中に、ジェロニモの姿があった。
彼は雄弁に白人への抵抗を呼びかけ、白人と戦い続けた。
ジェロニモの抵抗戦は、情報操作されて東部白人社会に大げさに伝えられた。
数人殺された白人の数は、数十人、数百人となって報じられたのである。

1886年に投降して以後、ジェロニモは生涯米軍の虜囚として扱われた。
生まれ故郷のメキシコ国境へ帰りたいというジェロニモの願いは叶えられず、オクラホマのシル砦でその一生を閉じた。
ジェロニモの墓はシル砦にあり、インディアンたちによる墓前の供物は絶えることがない。(ウイッキペディア)

捕虜となったジェロニモは、死ぬまで見せ物とされました。

自分の住んでいた土地を勝手に蹂躙されて奪われた愛国の戦士の悔しさと、勝てば官軍の図式は今も昔も変わっていません。

では、6-16生まれの有名人です。

1829年ジェロニモ (米:アパッチ族の酋長)、1869年東儀鐵笛(雅楽奏者,俳優)、1882年大倉喜七郎(大倉財閥総帥,帝国ホテル・ホテルオークラ創立)、1955年Char(ギタリスト)、1963年池井戸潤(小説家『果つる底なき』)。

おめでとう!

心地よいノリです。
Cuba - Gibson Brothers
棋界最高峰に君臨し続けている羽生4冠ですが、もし村山聖が生きていたら・・と思わせる才能の持ち主でした。

今日は、若くして夢半ばでこの世を去った彼の誕生日でもあります。

村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、将棋棋士、九段(追贈)。
森信雄七段門下。棋士番号は180。
いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。

広島県安芸郡府中町出身。血液型はAB型。

兄姉の3兄姉の次男として広島大学病院で生まれる。
5歳のとき、腎臓の難病「ネフローゼ」にかかっていることが発覚。
府中町立府中小学校に入学するも病状が悪化し、5年生まで国立療養所原病院に入院し、院内学級で過ごす。
ともに入院していた子が亡くなることもあった。

入院中に父から教わり、将棋と出会う。
体に障ると何度注意されても朝から晩まで指し続けた。
母には、小学館の学習雑誌、「将棋世界」などの本を持ってきてもらった。

以降頭角を現し、中国こども名人戦で4大会連続優勝。
また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破った。
1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し、敗れている。
1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、その上京の際に伝説の真剣師小池重明と遭遇して指し、勝利している。

谷川浩司が名人になったニュースを聞き、プロ棋士を目指す。
親にとっては青天の霹靂であったが、「好きなことをやらせたい」という思いで、師匠探しをする。
当初所属していた棋会の主催者である元奨励会会員は、まだ奨励会入りには早いと告げ、師匠を紹介するのにあたり態度を保留したように思われた。
その為病身より猶予がないことから他に師匠探しを始め、その当時所属していた日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を連れていく。
当時30歳の森は、「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない。」と思ったという。
村山は暑がりなのか、真冬なのに裸足でズックを履いてワイシャツを腕まくりしていた。
1982年、森を師匠とし、奨励会を受験・合格するが、当初紹介されていた元奨励会員も親交のあった灘蓮照に紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていたことから、この師匠を決める際の一悶着を理由に灘が入会に反対したために入会が認められず、森の師匠である当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。

入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。
村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。大丈夫や。」と答えて村山を安心させた。
村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。
村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。
「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。

その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。
購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。
その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。
また、読書家でもあり、好きな作家にジェイムズ・ティプトリー・Jr.を挙げている。
しかし、関西将棋会館には体調の許す限り毎日のように通い、研究にいそしんだ。
将棋に打ち込みたいあまり無理をしてでも出かけたことも、度々あったという。

1986年11月5日にプロデビュー。
奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードである(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。
風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。
しかし有名になったため、悪口も言われるようになる。
村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから髪の毛や爪を切ることを極端に嫌がり、独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。
ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね。」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる。」と励ました。
また、ある日森が大崎善生とともに公園の中を歩いていると、村山と遭遇。
村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。髪切りや。たまには歯ぁ磨き。手ぇ出し。(手を握って)まあまあやな。」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにしたという。

なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は肉丸、山崎はちん丸というあだ名があった。

奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。
その代表的なエピソードは、村山を含む棋士達が、A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で検討していたときのことである。
そこへ、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。詰んどるやろ。」と言う。
そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています。」という声が上がる。
後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している。

村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、10代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。
自分の時間が残り少ないことを裏返しの言葉だとされている。

1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳(はたち)になりました」と話す。
その理由は「20歳まで生きることができて嬉しい」ということであった。

棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出しにすることが多かったが、羽生善治に対してだけは特別の敬意を払っていたという。
当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士になった者らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれ、羽生善治、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。
この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心メンバーとなった。
また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できないこともあり、実績では羽生に遅れを取った。

1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。
その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという。

翌年、1990年10月1日、第13回若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝。

1992年度に第42期王将戦の挑戦者となり、1993年1月から谷川浩司王将と七番勝負を戦う。
対局用の和服の新調が間に合わず、着たのは公開対局の第3局からであった。
その第3局は矢倉戦となったが、初手から終局まで両者の飛車が一度も動かないという珍しい一局となった。
七番勝負は0勝4敗で敗れたが、「村山らしくない終盤のミス」(谷川談)が何度もあった。
これが、村山にとって最初で最後のタイトル戦となる。
しかし、一方で順位戦では好成績を収め、2年連続昇級で1993年春、B級1組へ昇級する。

1994年1月12日に師匠の森が結婚式を挙げる。
結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた。

その後村山は関西から関東への移籍を決心。
森も村山自身のためになるとして賛成し、大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。
東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。
「聖」の字から「ひじりちゃん」というあだ名をつけられた。

1995年4月、A級八段まで登りつめ、名人位が射程圏となる。

1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。
これが村山にとっては新人棋戦以外での唯一の優勝である。
また、同時期の1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦し、強手△7五飛(70手目)から優勢を保って124手目までで羽生に勝ち、通算対戦成績を6勝6敗としている。
しかし、この頃体調がますます悪化、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。

その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。
村山は子供を作れなくなるのが嫌だからと手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。
手術を受けることを決断させた。
手術(1997年6月16日)は片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。
抗癌剤・放射線治療については、脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困るという理由で拒否していた。

手術後の復帰第1戦であった第56期B級1組順位戦2回戦(1997年7月14日)の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。
持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。
結果は丸山の勝ちで、33手詰めであった。
しかし、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。
医者には「脱走してでも行く」と告げていた。
この一戦では敗れたものの、1期でA級復帰を決める。

同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。
決勝の相手は羽生であった。
村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミス(68手目△7六角)をして優勝を逃す。
しかし、局後のインタビューでは、笑顔で「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と冗談を言った。
これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた。
出だし3連敗からの追い上げであった。

1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。
森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、森は「変わったな」と思ったという。
1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、そして、A級復帰祝賀会が村山最後の表舞台となった。
1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。

以降、逝去するまで広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、1998年8月8日、29歳で死去。
薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最後の言葉であったという。
本人の希望により葬儀は家族のみで行い、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。
また、「将棋世界」誌は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段。」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。

A級在籍のまま逝去したのは、大山康晴、山田道美、村山の3人だけである。

死後、地元府中町では村山聖杯将棋怪童戦を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。(ウイッキペディア)

棋士番号とは、4段になって正式にプロ棋士と認められた時点で順番につけられる通し番号です。

病弱な村山の180は、羽生(175)よりは遅いですが、佐藤康光(182)や森内(183)よりも早かったんです。

ウイッキペディアの人物紹介だけでも十分泣けますが、彼について書かれた素晴らしい小説があるので紹介します。

「聖の青春 (講談社文庫)」 大崎善生著 – 2002/5/7 発売

メディア掲載レビュー:
「聖の青春」難病と闘いながら,29年の短い生涯を生き抜いた天才棋士の伝記。
その生涯は純粋で激しく,哀しいが温かい。
水晶のように純粋で,温かい輝きを放つ人生の記録。
(日経NETWORK 2001/10/01 Copyright©2001 日経BP企画..All rights reserved.)

内容紹介:
重い腎臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。
弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。
将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。
名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。
第13回新潮学芸賞受賞作(講談社文庫)


では、渾身のブックレビュー2本です。

投稿者:tin-toy 投稿日: 2003/8/29
恥ずかしながら、現代将棋界で、これだけすごい成績をあげている村山聖という人を僕は知りませんでした。
以前「将棋の子」を読んで感動した事があったので、この本の存在は知っていました。
それで、文庫本が出たのを機に何気なく海外旅行のお共として買ったのですが、それは失敗でした。
時差ぼけを解消すべく寝続けるべきの飛行機で一睡もできなくなったのと、公衆の面前(飛行機の席)で号泣してしまったからです。
しかも何度も。
最初に涙が出たのは「いかせてくれ」の一言で、その後は、ほぼページをめくるたびに涙が出続けます。
体調のせいで、何日もまんじりともせずに布団にくるまっている時に、水滴の音で自分の命の炎がまだ消えていないことを知る、対局に行くために階段を下りたところで力尽きながら、それでも這ってでも対局に向かう。
たった一つ、名人位を取るためだけに、彼は、なぜ絞り取るように自分の命を削ることができるのか。
こんなに激しい人生が、この現代で、ほとんどリアルタイムで進行していたなんて。
なぜ、生前に彼の活躍を知ることができなかったのか、応援することができなかったのか、それが本当に悔しい。


投稿者:コナン.O.
1998年に夭折した天才棋士、村山聖(さとし)の一生を描いたノンフィクション。
幼少時より「ネフローゼ」という 腎臓の難病を患いながら、プロ棋士となり、ひとつ年下の羽生善治のライバルと目されながら、29歳の若さで逝去した村山の、病気との闘いと将棋への情熱は凄まじいものであった。
「蒲団にくるまり、ただひたすら体を休める。・・・カーテンを閉め切って、部屋を可能な限り暗くしてただじっと体力が回復し、蓄積していく時を待ち続ける。
2日で終わることもあるし、そんな状態が1週間近くつづくこともあった。
水道の栓をゆるめて、洗面器に張った水に水滴がポタポタとしたたるようにしておく。
ポタッ、ポタッと闇の中に響くかすかな音、それがなければ自分が生きているかどうかさえわからなくなってしまう」というネフローゼとの壮絶な闘い。
「わいわいと賑やかに、冗談を言いながら盤をつつきあっていたそんな部屋の雰囲気が、ある瞬間にがらりと一変した。
座っていた奨励会員がさっと立ち上がり最敬礼した。
居合わせたプロ棋士たちも皆何も言わずに会釈をする。
対局中の谷川浩司がフラリと部屋に現れたのである。
・・・立ち上がって最敬礼なんてしてたまるか、お愛想なんか見せてたまるか。
僕はあの男を倒す、あの男を倒して絶対に名人になるんじゃ。
・・・光よりも速いといわれる谷川を自分は追いつづけてきた。
いまさら何に驚き何を恐れることがあるというのだろう。
自分はその光をいつの日か必ずこの手に捕まえてみせる、いつの日か必ず・・・」という将棋への純粋で激しい情熱。
自分の人生が長くないことを知り、いつ倒れてしまうか恐れながら、山の頂(名人)を目指して必死に登り続ける村山の姿には、胸を締め付けられる。
自分の生き方を問われるような一冊。
(2009年9月了)

人生にリミットのある戦いを強いられてたという意味では、村山は名人位までの戦いと、自分の病との闘いを余儀なくされていたわけです。

奨励会の頃から「終盤は村山に聞け」と仲間棋士からも終盤の明るさへの信用を得、将棋の天才少年が集まる奨励会を2年11ヶ月という驚異的な速さで抜け、と順風満帆な棋士生活のようでしたが、年頃の男子なら気になる話題(恋人や結婚など)を極力避け、文字通り森師匠と二人三脚の生活が始まりました。(東京に移ってからは郷田や先崎が側にいたようです)

人生に「もし」はありえませんが、もし彼がネフローゼでなかったら、もし彼が入院して将棋に出会っていなかったら、もし目標となる谷川浩司という存在がいなかったら、と詮無い仮定の話をすればするほど、人生の理不尽な厳しさとそれゆえの精一杯生きようとする美しさが胸に迫ります。

確か、「将棋マガジン」という将棋雑誌で故米長邦雄氏が若手棋士の家に訪問して話を聞くという連載企画があったのですが、村山のボサボサの髪やひげと伸ばし放題の爪など、それらを「自分の中で一生懸命に生きようとする象徴」としてみて無残に切るのが忍びなかったという悲しいコメントが印象に残りました。

そして、対談の後にその若手棋士と一番ということになるのですが、漫画雑誌の山に囲まれた村山の部屋には、将棋の駒が何枚か足りないことがわかり、米長が急遽紙で代用品を作成するという場面は忘れられません。

「聖の青春」は、「なんで僕だけが」という悔しさとどうしようもならない運命を呪いながらも、最短・最速で将棋の最高位を目指した若者の青春の足跡です。

興味があれば是非読んでみてください。

では、最後はこんな記事を。

野際陽子 33年間続ける500円玉貯金で300万円のピアノ購入
NEWS ポストセブン 6月14日(日)

「500円硬貨が、初めて発行された1982年4月から、これまでに使ったのはせいぜい20枚くらいだと思うんです。
今日まで33年間、貯金し続けています」

 500円硬貨は重い。だから外で買い物した時のお釣りなどでもらうと、すぐに使ってしまいたくなるけれど、そこを我慢して家の貯金箱に入れてきたと、女優の野際陽子(79才)は語る。

「貯金箱といっても、お菓子の箱等の再利用。500円玉を手にしたら、とにかくその中に入れるんです」

 最初はとくに目標や目的があったわけでもなく、なんとなく始めたそうだが、いつの間にか習慣になったと笑う。

「箱がいっぱいになると、どのくらい貯まったのかはわからなくとも、とにかく重い。
その重い箱をよっこらしょと抱えて銀行に持っていくんです(笑い)」

 銀行では500円玉だけの預金通帳を作り、他の預金とは厳然と区別して、入金専用にしてきた。

「おろしたのは1度だけ。何年前だったかしら。
300万円まで貯まったところで、自分のために念願のグランドピアノを買ったんです、少し付け足してね(笑い)」

 その時のことを思い出すと、思わず笑みがこぼれる。
やった!という達成感と充足感で、幸せに包まれた。
500円玉を塵というには、ちょっと抵抗があるけれど、まさに“塵も積もれば山となる”だ。

「それ以来、また貯金箱に入れる、重くなったら銀行に持っていく、を繰り返しているんです」

 そして最近、こんなニュースを目にした。

「初期の認知症の人に共通する行動として、買い物をする時に、小銭が財布にあっても、大きなお金で支払うという傾向があるんですって」

 年をとり、計算が苦手になってくると、例えば108円とか216円のものを買うのでも千円札、一万円札をパッと1枚出す。
確かに楽ではあるけれど…。

「それを見た時、毎日の買い物でお釣りの計算をしながら、お金を出し入れすることが大切だと気がつき、ますます積極的に500円玉を貯めるようになりました」

 スーパーで買い物をしたり、タクシーの支払いをする時など、合計金額で500円玉のお釣りがもらえるように考える。
支払いが1750円だったら、2250円を出す。
そして500円玉のお釣りをもらう。

「レジ前でこうした計算を瞬時にすることで頭は素早く回転。
認知症の予防にもなるし、お金も貯まるし、一石二鳥じゃございませんこと(笑い)」

500円硬貨が発行された1982年は、村山聖が奨励会を受験した年でもあります。

それから33年間、私には確固として残したものがありません。

では、6-15生まれの有名人です。

774年空海(弘法大師)(僧侶,真言宗の開祖)、1930年平山郁夫(日本画家)、1941年ハリー・ニルソン (米:歌手)、1961年スコット・ノートン (プロレス)、1963年ヘレン・ハント (米:女優)、1969年村山聖(将棋棋士)。

おめでとう!

これがDiscoミュージックです!
Delegation - You And I (1979)
サッカーの話題ですが、勝って兜の緒を締めよ、ですね!

大勝も“ハリルの理想”に遠く…フィジカル面「まだ20%向上する」
スポニチアネックス 6月12日(金)

 ◇キリンチャレンジカップ 日本代表4―0イラク代表(2015年6月11日 日産スタジアム)

 大勝後の会見で、ハリルホジッチ監督から思わぬ言葉が飛び出した。
就任から3連勝は72年の長沼健氏以来43年ぶり史上2人目の快挙。
シュート数20対3と内容でも圧倒したが「まだまだ私の理想には遠い。もっとできると思うので、もっと厳しくしたい。特にフィジカル面は、まだ20%は向上する」と語気を強めた。

 8日からの全体合宿に先駆け、1日から欧州組によるトレーニングを実施。
連日の2部練習で走り込みを行うなど厳しい練習を課したが、今後はさらに過酷なプログラムを組む方針を打ち出した。

 アジア杯4強のイラクを寄せ付けなかった。
前半に本田、槙野、岡崎が得点を重ねると、後半には途中出場の原口がダメ押し弾を決めて采配も的中。
16日のアジア2次予選シンガポール戦に向け、本田、香川、宇佐美を後半21分に途中交代させて温存する余裕も見せた。

 就任から言い続ける球際の強さ、縦への速い攻撃を選手が遂行。
「攻撃の組み立てを抜本的に変えた。3、4人目の動きだし、1、2タッチを要求し、選手はよくやってくれた」と称えた上で「満足するのではなく、もっと向上するトライが必要」と気を引き締めた。

 合宿期間以外も手を抜くことはない。
対外試合のなかった4、5月も連日、日本協会の監督室にこもり、W杯アジア予選の準備に時間を割いた。
監督室の壁はホワイトボードになっており、気付いたことは即座にメモ。
壁一面に重要事項が殴り書きされている一方で、物は少なく机の上や棚は常に整頓されている。

 関係者から「できるビジネスマンのよう」と称される“仕事の虫”は「W杯予選への良い準備になった。勝利を続けたいが、この先負けることもあるかもしれない。負けた時の彼らの反応も見てみたい」と言った。
どこまでもサディスティックにチームを鍛え上げる。

 ≪43年ぶり就任初戦から3連勝≫ 
ハリルホジッチ監督は初陣から3連勝。
歴代の日本代表監督で就任後の国際Aマッチの初戦から3連勝は63年長沼健(第1次)72年長沼健(第2次)に次いで43年ぶり3度目。
また、3試合の合計ゴールが2、5、4の計11得点。
初戦から3戦目で2桁ゴールに到達は63年長沼(4、4、5=13点)72年長沼(4、5、5=計14点)76年二宮寛(5、6、2=計13点)に次いで39年ぶり4度目だ。
3連勝、2桁ゴールともにJ創設の93年以降(オフト監督以降)では初めて。
16日のW杯予選・シンガポール戦では史上初の就任初戦から4連勝が懸かる。

ということで、昨日の採点表が届きましたのでどうぞ!

【日本 対 イラク】サッカーダイジェスト取材記者の採点&寸評
SOCCER DIGEST Web 6月11日(木)
【日本代表|採点・寸評】
[GK]
1 川島永嗣 5.5
試合勘が鈍っているのか、60分にゴール前でパンチングミス。
ハリルホジッチ監督の信頼を得るには、不十分なパフォーマンスだった。

[DF]
5 長友佑都 6
11分に宇佐美、柴崎と軽快なパス回し。
続く18分には迫力ある攻め上がりを見せた。
左サイドをほぼ制圧し、平和な90分を過ごした。

19 酒井宏樹 5.5
27分に自陣でボールを奪われるなど、浮き足立つシーンも。
どこか危なっかしさがあり、“安定の内田”と比べて物足りなさを感じた。

20 槙野智章 6.5
1-0で迎えた9分に香川のCKから左足で上手く合わせる。
相手にロングボールを蹴り込まれた際も、素早い反応で見事に対応した。

22 吉田麻也 6
55分過ぎに少し慌てた局面を除けば、最終ラインをコントロールしていた。
無失点に抑え、ディフェンスリーダーとしての面目は保った。

[MF]
7 柴崎 岳 6.5
縦への意識が強く、5分に絶妙なパスから本田の先制弾をお膳立て。
ゲームメーカーとしてもチャンスメーカーとしても機能していた。
前半に中盤を支配したこのMFが、MOMだろう。

10 香川真司 6
ノーゴールで、特に目立ったわけではない。
それでも、効果的なオフ・ザ・ボールの動きでギャップを作った働きは見逃せなかった。

17 長谷部誠 6.5
柴崎とバランスを取りつつ、鋭いパスを積極的に入れることで攻撃にリズムをもたらした。
また中盤のフィルターとしても高性能だった。

[FW]
4 本田圭佑 6.5
2分にファーストシュートを放ち、その3分後には最初の決定機をモノにした。
右サイドで上下動を繰り返し、守備にも献身的に貢献。

9 岡崎慎司 6.5
32分に左足のシュートで勝利を手繰り寄せる追加点。
ボールを引き出すフリーランを何度も繰り返すメンタルタフネスも評価に値した。

11 宇佐美貴史 6.5
岡崎の得点(32分)につながったドリブル、スルーパスはパーフェクト。
抜群のテクニックで敵を惑わせ、盟友・柴崎との連係も光った。

交代出場
FW
8 原口元気 6.5
84分に軽快なドリブルシュートからダメを押す。
試合後は「ミスが多かったのは反省点」と控え目ながらも、アピールには成功した。

FW
14 武藤嘉紀 6
敵陣の深い位置でボールを持つ回数は少なくなかった。
しかし、そこからスムーズにシュートまで持ち込めず悔しさを露わにしていた。

FW
26 永井謙佑 5.5
爆発的なスピードで守備にも奔走し、大観衆を沸かせた。
ただ、最終局面でのプレーがやや雑でシュートチャンスには恵まれなかった。

FW
18 大迫勇也 5.5
良い形でボールを引き出せなかった。
「みんながみんなゴール前に入ってきて……。スペースがなかった」とミックスゾーンで苦笑い。

MF
2 谷口彰悟 ─
76分から途中出場し、A代表デビュー。
見せ場らしい見せ場は作れなかったものの、本人曰く「この雰囲気を味わえたのが収穫だった」。

MF
16 山口 蛍 ─
85分の投入直後に素晴らしいインターセプトから最前線の大迫にスルーパス。
ゴールに結び付かなかったとはいえ、インパクトを残す。

監督
ヴァイッド・ハリルホジッチ 6.5
決して弱小ではないイラクを前半から圧倒。
縦に速い攻撃を意図的に展開できていた点で、“ハリルイズム”は確実に浸透しつつある。

※MAN OF THE MATCH=取材記者が選定するこの試合の最優秀選手。
※採点は10点満点で「6」を平均とし、「0.5」刻みで評価。
※出場時間が15分未満の選手は原則採点なし。

納得の採点ですね。

そんな浮かれ気分を一掃する辛らつなコメントも。

セルジオ越後がイラク戦を斬る!
「『まやかしの快勝』だけど、大半のメディアは悪くは書けないよ。だって、ある意味でみんな“共犯者”だから」
SOCCER DIGEST Web 6月12日(金)

こんな相手なら、Jリーグ選抜とやるほうが遥かに良いし、大学選抜でもいいぐらいだよ。

 本当に期待外れ――。
それがイラク戦の率直な印象だね。

 最初に言っておきたいのは、日本の選手に責任はないってこと。
宇佐美の初先発もあり、試合前こそ多少のワクワク感もあったが、フタを開けてみたらイラクのレベルがあまりにもひどかった。

 海外から有名なタレントが来たと思ったら、“替え玉”が来た感じに近いね。
今年のアジアカップでベスト4に食い込んだイラクではなく、“偽者”がピッチにいるのかと思ったよ。
試合後、解説者やアナウンサーも含めて、誰も相手の名前を憶えてないんじゃないかな。

 期待の宇佐美は、前半は少し遠慮して左サイドに張る形になったけど、中央に入って来るようになった後半は良さが見られた。
ただ、本田や香川、岡崎らにしても、こんな相手だったら上手くプレーできるし、裏返せば“違い”を作れて当たり前だよね。

 相手がメンバーを落とすのはよくある話だけど、それにしてもイラクのコンディションは悪すぎた。
満員の観客に対して失礼極まりない試合だよ。
まともなシュートが0本という試合は初めて見た。
日本も3点を取ったら少しペースダウンして、後半は選手交代によって勢いを取り戻したけど、不甲斐ない相手だったから仕方ない部分もあるよ。

 興行的には満員になって、相手もギャラをもらって、それぞれがハッピーな試合だった。
でも、強化という意味ではまったく意味がないよ。
こんな相手と何千試合やっても同じ。
これで惨敗したブラジル・ワールドカップのリベンジを果たせるの?
 
 もちろん、日本の選手は真剣だったし、彼らを悪く言うつもりはないけど、相手がひどすぎたのは誰の目にも明らか。
これならJリーグ選抜とやるほうが遥かに良いし、大学選抜でもいいぐらいだよ。

 こんな試合を続けていたら、ブラジル大会の反省はいつまで経ってもできないし、今までと同じことの繰り返し。
本当なら、観客が相手にブーイングしてもいいくらいだった。
それなりのギャラも受け取って日本に来るアジアレベルの対戦国に対しては、契約条件に「ベストメンバー」という一文を付け加えてほしいね。

「さあ、なにか変えよう」という時、その回答がこのマッチメイクなら「残念」のひと言。

 ハリルホジッチ監督が「今年の試合は全部勝つ」と宣言したのは、年内はこんなレベルの相手としかやらないと分かっているからじゃないかな。
そう勘ぐってしまうぐらい、このイラク戦は意義の小さいマッチメイクだった。

 本気で強くなりたいなら、こんな相手と試合をする必要はないよ。
選手にしたって、勝ったところでなんとも思わないだろうね。
もう少し無理をしたら、いくらでもゴールは入ったんじゃないかな。

 ワールドカップで惨敗した日本の立場を考えた時、“勝つ試合”じゃなくて“負ける試合”をできるだけ組んだほうがいい。
だって、それじゃないと「なにが足りないか」が分からないからね。

 よく「勝ち癖を付ける」なんて言うけれど、今日みたいな試合をいくらしても意味がないと思わない? 
今日は「なにが良かった」かも分からない試合だったよ。
相手はギャラがもらえるし、またマッチメイクしてもらいたいから、試合後に「日本は強かった」とお世辞を言っておけばいいとでも思っているかもね。

 世界各地で行なわれている他の国際親善試合を見てよ。
もっと面白いよね。
なんで日本だけ、こんなつまらない相手しか来ないのかな。
イラクに渡したギャラじゃ強豪国は来てくれない。
だからと言ってギャラを上げて強豪国を呼ぼうとすれば、協会やスポンサーの利益が飛んじゃうのだろうし、国内で負けが込めば観客数や儲けも減ってしまう可能性があるからね。
 
 “手頃な予算”で“手頃な相手”を見繕ったほうが、それは儲かるよね。
今日の試合も、スポンサーとしては万々歳だろう。
でも、チームの強化には一切ならない。
スポンサーの存在もあって限界があるんだろうけど、イラク戦は日本が抱えるジレンマを象徴する試合だった。

 正直、ワールドカップ予選が始まるなか、チケットの金額を釣り上げるための“戦略”かと思ってしまうよね。
日本は昨夏のブラジル大会で惨敗し、今年のアジアカップでもベスト8だよ。
「さあ、なにか変えよう」という時、その回答がこのマッチメイクだとしたら、「残念」のひと言に尽きるね。

メディアが日本サッカーを弱くしているとも言える。

 はっきり言って、こんなレベルの相手には昔から勝っている。
トルシエ、ジーコ、ザッケローニもそう。
サッカー大国だったら、こんな相手が続くと観客は徐々に減っていくし、TVですらチャンネルを変えられちゃうよ。
 
 会場に足を運んだ観客の多くは明日も仕事だよね。
ならば、つまらない試合は途中で切り上げて、早く帰っても良かった。
それぐらい厳格な態度で示さないと、いつまで経っても“相手の質”は変わらないかもね。

 逆に言うと、観客の眼が肥えればこんな相手は連れて来られないし、スタジアムだって満員にならないはずだよ。
ギャラも受け取っているのに、イラクはこの有り様。
日本の観客に対してちょっと失礼すぎるでしょ。
だけど、多くの観客は快勝を素直に喜んで、写真をたくさん撮って帰ったのかな。
だからみんなに聞きたいよ、「本当にこれでいいの?」って。 

 相手がひどすぎて評価に値しない試合なのに、各メディアには「日本、完勝!」、「日本、文句なしの4発!」といった見出しが並ぶのかな。
ちょっとでもサッカーを知っていれば、この試合の無意味さが分かるでしょ。
サッカー関係者はもちろん、観客の眼だって誤魔化せないよ。
興行的には良くても、試合内容と入場料を照らし合わせると、あまりに高すぎる入場料だね。

 じゃあ、誰がこの負のサイクルを止めるのか。
協会は興行面も考えるから無理。
となれば、メディアがやるしかないよね。

 つまり、こんな試合の翌日は「日本快勝も、観客に失礼なゲーム」、「まやかしの快勝」、「無意味なマッチメイク」というような言葉が並んでいると、サッカー大国に着実に近づいていると言えるだろうけど……きっと大半のメディアは無理だろうね。

 だって、ある意味でみんな“共犯者”だから、きっと悪くは書けないよ。
そういう意味では、メディアが日本サッカーを弱くしているとも言える。
各メディアにどんな言葉が並ぶのか楽しみだね。

セルジオ氏の想像通り、報道は日本チームの一方的な試合運びに賞賛の嵐でしたね。

ただ、監督も選手たちも、現状には満足しておらず、さらなる向上を目指しています。

日本サッカーにとって、ザッケローニとアギーレの空白の5年間をたった3ヶ月という短期間でここまでチームとしてのまとまりと新戦力の底上げを果たしているハリルの手腕に一言も触れないのは、セルジオ氏の嫉妬心からなのでしょうか!?

彼の辛口批評は、多くの太鼓もち解説者の中では異彩を放ち、うなずける部分も多々あるのですが、ほめるべきところは褒めなきゃ、公平とはいえません。

特に、最初の本田選手(今日が誕生日)の1点目は素晴らしい連携プレイでしたよね。

もちろん、対戦相手の選択の問題は今後の課題でしょう。

例えばなでしこのように、緒戦に当たる相手と似たチームとの強化試合を組むというのも、目的意識のはっきりした賢いやり方です。

セルジオ氏には具体的な対戦相手の候補を挙げるような、より前向きな提言を、今後は聞きたいものですね。

最後は、また巨人が逝きました。

サックス奏者オーネット・コールマンさん死去、フリージャズ牽引
AFP=時事 6月12日(金)

【AFP=時事】米ジャズミュージシャンで作曲家のオーネット・コールマン(Ornette Coleman)さん(85)が11日、ニューヨーク(New York)で死去した。

 コールマンさんの広報担当者、ケン・ワインスタイン(Ken Weinstein)氏によると心不全が原因という。

 コールマンさんは1959年のアルバム「ジャズ来るべきもの(The Shape of Jazz to Come)」で、伝統的な演奏スタイルと決別。
当初、その斬新な演奏スタイルに対する評価は二分したが、米サックス奏者ジョン・コルトレーン(John Coltrane)と共に、いわゆる「フリージャズ」を牽引した。
フリージャズでは、ハーモニーを基本とする伝統的な構造を解体し、より自由な表現が可能となった。

 アルトサックスの演奏者として最も有名なコールマンさんは、ジャズが必要としていることは「今までよりもさらにフィーリングを表現する」ことで、コードにのっとった従来の構成には限度があり、不自然だと語っていた。
そして、ジャズは人と人とのコミュニケーションのひとつの形態であるべきだと主張した。

 1997年に行われた仏思想家ジャック・デリダ(Jacques Derrida)氏とのインタビューでは、「つまり、2、3人で、誰かが目立ったり、リードしたりすることなく、音を通して会話をするんだ」と述べていた。

合掌!

では、6-13生まれの有名人です。

1920年梅棹忠夫(民俗学者)、1928年ジョン・ナッシュ (米:数学者,「ゲームの理論」の研究)、1986年本田圭佑(サッカー(MF))。

おめでとう!

とてもナイスな名曲です。
Diana Ross - Chain Reaction